第69話:白魔術師サーリャ(3)

 走った。


 川に架かった橋を渡り、道を塞いでいる木の間をすり抜けて、分かれ道を曲がって、真っ直ぐ。どこをどう走ったのか分からなくなるまで、ただひたすらに走って、逃げた。


 途中でもう、どうして自分が逃げているのかも、よくわからなくなっていた。


 わかっている。マイロの言っていたことは、なにも間違っていない。努力することを投げ出し、安易な道を選んで、愛想を振りまいて媚を売って、身体を差し出して来たのは、他でもないサーリャ自身の選択だ。


 サーリャはそれを、ずっと誰かのせいにしてきた。高圧的で加虐的な父のせい。もっとわかりやすく教えてくれない教師たちのせい。すぐに自分を見放す、男たちのせいだと。


 あるいは、それも真実ではあるかもしれない。手を引いてくれる人間がいれば、今頃サーリャは、違う道を進んでいたかもしれない。


 けれど、与えられた環境に関して言えば、サーリャは間違いなく、恵まれていた。


 今日の食べ物にも、雨風をしのぐ寝床にも、身体を守る衣服も困ったことはなく、読み書きと計算を覚え、高度な学問を修められるだけの環境も、すべて整っていた。そしてサーリャは、それらをすべて、ふいにしてきた。


 マイロの言葉は酷かったが、明け透けに自らの怠惰を指摘され、サーリャは恥ずかしくて仕方がなかった。


 私だって、こんな自分になりたくなかった。でも、こんな自分にしてしまったのは、自分だ。


「は、は、は……う、ふうぅ……」


 息が上がって、胸が苦しくなり、足が止まった。泣きながら長々と走れるほど、サーリャに体力はなかった。


 マイロの家を飛び出して、どれほど走っただろう。大した距離ではないかもしれない。振り向いても、自分がどう走ってきたのか、もうわからなかった。


 誰かが追いかけてくる様子も、ない。


 当たり前だ。自分はずっと、マイロに拒絶されていた。その自分が飛び出していったんだ、追いかけてくる理由なんて、あるはずがない。


 ほんの少しも期待していなかったと言えば、嘘になってしまうけれど。


「ふ、あは……」


 サーリャは、ひとりぼっちだった。いまも、いままでも。


 これまで、誰かが自分を追いかけてきてくれたことなんて、ただの一度もない。いや、その唯一が、きっと自分を殺そうとしている父親だけなのだ。


 思わず笑ってしまった。まるで、生まれてこない方がよかったみたいじゃないか。


 やっとわかったのに。


 本当は、自分がどうしたかったのか。どうしてほしかったのか。


 私はただ、”ここ”にいていいよって、誰かに言ってほしかっただけなのに。


「ふ、ふふ……ふぁ、ぅ、うぅぅぅぅぅぅ……」


 立ち止まって、うずくまって、泣いた。ここはダンジョンの中で、いつモンスターが現れるかわからなくて、遭遇してしまえば自分がひとたまりもないこともわかっていたけれど、もうどうでもよかった。


 あるいは、死んだ自分なら、マイロはそばに置いてくれるだろうか。


「サーリャ!」


 誰かに名前を呼ばれる。期待していた声では、なかった。


 顔を上げた先に見えたのは、よく手入れのされた金髪に、煌びやかな騎士鎧。とってつけたような爽やかな笑顔。


「……ケイン?」


 数日ぶりに見る、パーティリーダーの姿だった。サーリャを罵倒して、追い払った男ときから、なにひとつ変わっていない。


「ケイン、どうして?」


「探してたんだよ、サーリャ! 無事でよかった」


 どうしてここにいるのだろう。探してた。どうしてここが分かったのだろう。


 サーリャの頭は、すぐに疑問を違和感にできるほど回転が速くなかった。その間にケインは、安心したような笑みを浮かべ、サーリャに駆け寄って、その身体を優しく抱きしめる。


「あ……」


「サーリャ、俺が悪かった。あんな風に追い出すつもりなんてなかったんだ。ただ、少し気が動転してしまったんだ」


「でも」


 何度も抱かれた腕の中がどうしても落ち着かず、サーリャは身じろぎする。押さえつけるように、ケインはいっそう抱きしめる腕に力を籠める。


「許してくれるだろ? サーリャ。俺にはお前が必要なんだよ」


「ケイン……」


 必要とされている。サーリャの心にできていたひび割れに、その言葉はたやすく染み込んでいく。


 だけど。


 ほんの数日。マイロのところで過ごした記憶が、サーリャの心に待ったをかける。


 ケインは好きなときに人を呼び出し、好きに使う。少しでも自分の意にそぐわないと、機嫌を損ね、罵倒が出る。甘い言葉も囁く。まるでそれでバランスがとれているとでも言うかのように。


 マイロのところでは。


 ウリエラも、マズルカも、ポラッカも。みんな思い思いに過ごしていた。誰かに用があれば、マイロのほうから足を運んでいた。お願いしていい? ありがとう。サーリャがかけられたことのない言葉を、みんなかけられていた。


 彼女たちとマイロがどういう関係なのか、サーリャに難しいことはわからない。


 ただ、そこにいることを認められている姿が、羨ましかった。


「待ってケイン、私は」


 サーリャはもう一度身じろぎした。


「どうしたんだいサーリャ。こんなところ早く出て、一緒に戻ろう。マイロなんかより、よっぽど可愛がってやるよ」


 サーリャは、動きを止めた。


「なんで、知ってるの」


 自分がマイロのところにいるなどと、知っているのは。


「……口が滑ったときに限って気付きやがって。これだから女は」


「は、離して!」


 ケインは確かに自分を追ってきた。でもそれは、間違っても優しく連れ戻すためなんかじゃない。


 サーリャはようやくそのことに気付き、抵抗した。暴れようとした。非力なサーリャでは、ケインの腕を解けはしなかった。


「落ち着けよ。こっちはお前を探すのに、結構苦労したんだからな」


「いや! 触らないで、離してよ!」


「ひどい言い草じゃないか。散々抱いてやったってのに。俺は優しいからな。お前みたいな、誰にでも股を開く売女だって、差別したりしないぞ。マイロはどうだった? どうせ汚い女はごめんだって、追い出されたんだろ」


 サーリャの手から、力が抜ける。


 その言葉の通りだったから。逃げたところで、サーリャには行く場所など、もうどこにもなかったから。


 でも。


「な、ついでに教えてくれよ。マイロの奴はどこだ。俺はあいつにも用があるんだ」


「……ッ!」


「がッ!?」


 サーリャは咄嗟に、ケインの顔に爪を立て、力の限り引っ掻いた。ケインの腕が緩む。サーリャは背を向け、走り出そうとした。


「この、クソ女が!」


「ぎぁ……ッ!」


 背中が、燃え上がった。


 冷たい一閃が身体を引きちぎり、すべての感覚が背中に奪われ、なにもわからなくなる。背中を剣で切り裂かれた。そう理解しようにも、サーリャに剣で切られたなどあるはずもない。


 痛い。熱い。冷たい。怖い。


 激痛に立ってもいられなくなる。足がもつれる。


「ふ、ぐぅぅぅ……!」


 ダメだ。サーリャは踏みとどまる。倒れてはいけない。マイロに教えなければ。ケインが来てる。ケインはマイロに恨みを抱いている。警告しなきゃ。


 サーリャはマイロに追い出された。だが結果はどうあれ、ただ放り捨てるようなことはせず、サーリャのために手を尽くそうとしてくれた。なのに自分のせいで、ケインに居場所が知られそうになっている。


 教えなくちゃ。少しでも、役に立ちたかった。ただのバカな女で終わりたくなんか、なかった。


 咄嗟にサーリャは、自身が覚えている数少ない術式を、自分の身体に走らせる。身体強化。鼓動が大きく、早くなる。身体が軽くなる。背中から、大事なものが余計に漏れ出していく。治癒の術式は、思い出せなかった。


 サーリャは走り出した。


「そうだ、逃げろ! まだ死ぬなよ、マイロのところまで逃げ切ってみせろ!」


 ケインの哄笑を、切り裂かれた背中に浴びながら。

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