第55話:白魔術師サーリャ(1)

 ガストニアで一、二を争う豪商、ゴルトログ商会会長の娘として生まれたサーリャはしかし、お世辞にも覚えのいい子供ではなかった。


 幼児期から家庭教師を付けられていたものの、読み書きも算術も、とにかく物覚えが悪い。家庭教師の口添えも甲斐なく、父親はそんなサーリャを厳しく、繰り返し叱責し、サーリャの勉強嫌いはますます加速するばかりだった。


 ある日父親は、とうとうサーリャにさじを投げる。


 家督を継げないと見做されたサーリャは、商会長にとっては商品でしかない。せめて嫁に出せる程度の価値を付けてこいと、放り込まれた先が、魔術学院であった。


 しかし結局、学院に入ったサーリャが最も学んだのは、身体で媚を売って男に取り入る方法だ。


 サーリャは、勉強より魔術より、なによりこれが得意だった。


 顔色を窺い、しなを作って機嫌を取って。身体を触らせて、触ってやって、ついでに少し褒めてやれば、男も自分をほめて、求めてくれる。


 家にいた幼少の頃から、家庭教師を相手にやっていた。父親相手には通じなかったが、小難しい計算や、頭の痛くなる術式を覚えるよりも、ずっと簡単だ。


 少しだけ。


 本当に少しだけ、自分の身体が徐々に削れていくような、そんな錯覚を覚えることもあったが。


 おかげで勉学はさっぱりなままでも、学位を保つことが出来ていた。


 ところが、学院の方針によるダンジョンでの冒険者業が始まると、それも上手くいかなくなってしまう。


 冒険者の世界は、徹底的な実力主義だ。はじめは得意の話術でパーティに入ることが出来たサーリャも、白魔術師としては最低の実力しかないとわかると、すぐにパーティを追い出される。何度もそれが続けば、サーリャを仲間に加えてくれようという冒険者もいなくなってしまう。


 サーリャは焦った。


 学院生徒の冒険者としての活動状況は、冒険者ギルドから学院に報告が上がる。さしものサーリャと言えど、アナグマ亭のボートマン親父は篭絡できない。


 もしも実績を積めずに学院から追い出されようものなら、今度は父親に、どこに放り込まれるか分かったものではない。下手すれば娼館行きさえあり得る。あの父親ならそうするという、確信があった。抱かれる相手くらい、自分で選びたい。


 そんなときに出会ったのが、ケインとそのパーティだ。


 ミスリル級の実力を持ち、顔もいい。なにより彼は、魔術師というものをちっとも知らなかった。サーリャが最低限の魔術しか使えない、出来損ないの魔術師であることに気付かないほどに。


 やかましい盗賊や、尊大な格闘家もいたが、サーリャはひたすらケインに甘えた。ケインもサーリャを求めてくれた。ダンジョンでも、ベッドの上でも。


 唯一気に障ったのが、二人の魔術師だ。


 根暗で、ケインの言いなりになっていたウリエラは、まだいい。


 死霊術師のマイロ。彼は、ただただ気持ち悪くて仕方がなかった。


 死体を操る魔術はもちろん、常に身に纏っている真っ黒いローブも、顔に入った入れ墨も、自分たちになんの関心も示さない、あの昏い瞳も。なにもかもが、サーリャに鳥肌を立たせていた。


 もう、あいつ追い出しちゃっていいんじゃないですかあ?


 ケインにそう囁き、すぐさま実行に移された、そこまではよかったのに。


 気付けば、サーリャはこうして、そのマイロの家に転がり込むことになっている。


「ねえ、ねえお願い!」


「商会長の娘なんでしょ? なおのこと帰ってよ」


「無理だってばあ! パパを知らないからそんなこと言えるんだよ! ここにいさせてくれたら、なんでもするから。ね? いいでしょ……?」


 いくら頼み込んでも、自分が商会の娘だと知っても、なお追い出そうとするマイロの手を取り、そっと胸に当てる。


 汚らわしい死霊術師が相手だけれど、背に腹は代えられない。こうやって潤んだ目で見上げれば、男は誰だって言うことを聞いてくれた。この場で脱げって言うなら、いくらでも脱いでやる。


 そこまで腹を括ったサーリャだったが、マイロは心底嫌そうな顔で、まるでこちらこそが汚いものだとばかりに、手を振り払った。


「なんにもしなくていいから、出ていって」


「……なんで。なんでそんなこと言うの。私が気持ち悪いって言ったの怒ってるなら、謝るからあ」


「別に怒ってないよ。僕に君を助ける理由が、ひとつもないの」


「わ、私の身体だって、好きにしていいから。わかってるんだから、こんなに女の子ばっかり囲って。私の方が楽しませてあげられるかも。痛いのとかお尻とかは嫌だけど、ちょっとなら我慢するから、ねえ?」


「本当に、いらない」


 にべもない。それは、明確な拒絶だ。


 これまでサーリャは、幾度となく拒絶された。父親に、冒険者たちに、ケインに。そのたびに新しい男を探して、また媚を売ってきた。


 けれど、これは。


 いままでサーリャを拒絶した男たちには、みな理由があった。物覚えが悪く、家を継げないから。魔術の腕前がないから。商会の追手という厄介ごとを引き連れてきたから。彼らの期待を裏切ったからだ。


 だがマイロは違う。マイロは最初から、サーリャになにひとつ期待していない。ゴルトログ商会の追手の存在すら、彼は面倒くさい程度にしか考えていない。


 ただ、サーリャが必要ないから。彼女の存在自体を、まったく、これっぽっちも気にしていない。ひたすら、邪魔だとだけ、思われている。


 初めて、存在自体を、拒否されていた。


「……あ」


 鼻の奥がつんと熱くなり、声が詰まり、目が潤む。自分の意志と無関係にそうなったのは、いつ以来だろう。


「うううぅぅうぅぅ」


 可愛くない唸り声が出て、恥ずかしくなる。どんな風に声を上げればいいのか、サーリャは知らなかった。


「え、ちょっと、泣かないでよ。君なら行くところくらい、いくらでもあるでしょ」


「……っ、ないもん」


 学院の人間はみな、サーリャの手口を知っている。出来損ないの魔術師だって、見下している。冒険者たちも、相手がゴルトログ商会では、きっと手を貸してなんてくれない。


「素直に家に帰って、謝ったらダメなの? 許してもらえるかもよ」


「殺されちゃうよお。じゃなかったら、っ、奴隷に、されるか」


 サーリャの父親は、サーリャに使った金を投資だと考えている。投資した分の利益を回収できないならば、不良債権の行く末など、いくつもない。


 あまつさえ、商会の金に手を出したとなれば。彼を裏切って、その尊厳を傷つけたとなれば。


 そこまで思って、サーリャはまた恐怖した。


 きっともう街には、どこもかしこも父親の手が伸びている。ひとりで生きていく術も知らない。マイロに見放されれば、自分はもう、終わりなのだ。


「マイロおにいちゃん……」


 ゾンビだという少女の声。


「はあああ……」


 深いため息。


「わかったよ、もう」


「……ふえ」


 目元を拭って、顔を上げる。


 黒い太陽の入れ墨をした顔は、本当に不服そうに歪んでいる。それでも、サーリャを見ていた。なにも持たないサーリャを。


「少しの間なら、いていいから。でも、家事とかやってもらうからね」


「……キスしていい?」


 また追い出されそうになり、必死で謝って、どうにか置いてもらえることになった。

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