第2話 ツイてない日々

 通学路を足早に歩く。寝坊の上いくつかの不運に見舞われもしたが頑張ったおかげで遅刻はせずに済みそうだ。


 しかし眠い。安心すると睡魔が思い出したように響を苛んでくるので、抗うように大きなあくびを繰り返すしかない。気休めの域でもしないよりはマシだ。


「はよー、織部」

「あ、おはようー」


 背後から声をかけられて振り返ると、そこにはクラスメイトでもある友人が立っていた。そのまま隣に並んできた彼はいつもと同じ陽気な顔で肩を揺らす。


「でけーあくび発見。また眠れなかったん?」

「そんなとこ。なんか寝つき悪くて」

「へぇ、そりゃ災難」

「ほんとだよ。あんま眠れないせいで寝起きからミスばっかりだし、ほんとツイてないんだよな……」


 言いながらまたあくびをする響に友達は「やべー顔」とからかってくる。


 さらには「マジで何か憑いてるんじゃねぇの?」と続けられて、響は苦笑しつつ話題を変えることにした。実は自分でも同じことを考えていたからだ。


 そう、それくらい最近の響はツイていなかった。


 一体いつからツイていない日々が始まったのか――最初にツイていないと思ったのは一週間前、妹の乃絵莉に関する嫌な夢を見たときだ。


 深夜、自宅自室での就寝中。


 ふと悪寒を感じて目を覚ました響が乃絵莉の部屋のドアを開けると、乃絵莉が血まみれになって倒れていた。


『の、乃絵莉、乃絵莉……!?』


 その光景を目にした瞬間の感情は言葉にしてもし尽くせない。一気に血の気が引いて、半狂乱になりながら駆け寄り、名前を呼びながら揺り動かした。


 腹には大穴。しかも貫通しており、そこからドロドロとおびただしい血液が流れていた。意識も既になかった。だが不幸中の幸い、わずかに息はあり、体温も完全には失われていないのを確認できた。


 しかしこのままでは死んでしまうのは混乱する響にもよく分かった。パジャマから漂う柔軟剤の香りを押しつぶす生臭い血の匂いに、夢だと願う気持ちは裏切られた。これは現実なんだと強く確信した。


『どうしよう、早く助けなくちゃ、でもどうしたら……!!』


 芯から動揺している頭に冷静な判断は浮かびづらい。救急車や祖父母のことがようよう頭に浮かぶも、ここを離れれば乃絵莉が死んでしまいそうで踏ん切りがつかない。


 だが誰かを呼ばなければ乃絵莉は死んでしまう、ならば大声で祖父母を呼ぶのが最善か――そんなふうに考え肺腑の奥まで酸素を吸い込もうとしたところで奇跡が起きた。


 なんと、神様が目の前に降臨したのだ。


 突如響と横たわる乃絵莉の前に現れた神様は、目がつぶれるかと思うほど神々しかった。


 まぶしすぎたせいだろうか、姿形の詳細は覚えていない。しかし背に負った白く大きな三対の翼と慈愛に富んだ眼差しだけははっきりと覚えている。それと一瞬で特別な存在だと認識できてしまうほど美しい姿であったことも。


 突然のことに茫然とする響だったが、すぐ我に返った。

 神様はどうして自分たちの前に現れた? そんな疑問がまず頭に浮かぶ。もしかして今にも死にそうな乃絵莉を天国へ連れて行こうとしているのか?


『ッお願いします、連れて行かないでください!』


 そう思い至った瞬間、響は懇願した。


『乃絵莉はまだ生きてます、救急車もすぐ呼びますからお願いします、どうか連れて行かないで……!!』


 神様は優しげな瞳で安心させるように響を見つめ続けた。どうやら連れて行く気はないらしい。だから響は欲を出した。縋りたくなったのだ。


『お願いしますッ乃絵莉を助けてくれませんか……! 大事な妹なんです、身体弱いし、すぐ泣くし、最近ナマイキになってきたけど僕にとって本当に大事な妹なんです! そのためなら僕は何でもします……!!』


 するとその言葉に神様はうなずき、乃絵莉の腹部に空いた大穴を一瞬で治してみせた。


 損傷していた内臓が再生し、肉が盛り上がり、最後につるりとした肌色の皮が腹部を覆えば完全に元通りだ。身体は温かさをすぐに取り戻し、今にも途切れそうだった呼吸は安らかな寝息に変わっていた。


 まさに神業。信じられない。だが嬉しい。地獄から一瞬にして天国へ駆け上った心地に響の涙腺は決壊したかのごとく涙をこぼし始めた。


『乃絵莉、乃絵莉……良かった……ありがとうございます神様……!!』


 神様を見上げ、心からの感謝を表する。神様はそれに美しい笑みを浮かべた。


 そうして慈愛に富んだ瞳に吸い込まれるような錯覚を覚えた次の瞬間、響は朝の光のなか、己の部屋のベッドの上で目を覚ましたのだった。


 その後、夢だとすぐには信じられなかった響は廊下を隔てて反対側にある乃絵莉の部屋に駆け込み、着替え途中で下着姿だった妹に出くわして悲鳴を上げられることになってしまった。


『有り得ない、突然部屋に入ってくるとか何考えてんの!? ばーかばーか!』

『ごめん、ほんとごめん!』


 手近にあった教科書などを投げられ、いくつかは部屋を出ていく過程で直撃しドアの外で身悶えた。


 ――乃絵莉が無傷で元気だった事実は喜ばしかったが、やけにリアルな悪夢を見たこと、勘違いをして痛い思いをしたことは紛れもなくツイていないことだろう。


 しかも不運はそれだけに留まらず、乃絵莉は下着姿を見られたことを根に持っていて数日むくれ、しばらく会話もままならなかった。


 それ以外にも人生で初めて犬のフンを踏んだり、バイト先で盛大なミスをやらかしたり、ぼんやりしていて宿題を立て続けに忘れたり、あの悪夢を何度も思い出してしまうせいで不眠気味になってしまったり。


 果ては生まれてから一度も風邪すら引いたことのない元気な妹を何故か病弱だと勘違いして世話を焼きウザがられたり――とにかく、この一週間は本当にツイていなかったのだ。何か良くないものに憑かれているんじゃないかと疑うほどには不運だったのだ。


 特に乃絵莉が病弱だと勘違いしたのは深刻だ。生まれたときからビックリするほど丈夫だったことは分かりきっているはずなのに、響は何故か乃絵莉のことをふとした拍子に病弱だと感じてしまうのだ。


 とはいえ、こういった謎の勘違いは不眠気味で頭が正常に働いていないせいだろうとも響は思っていた。


 それくらいあの夢は響の心に影響を及ぼしていた。本当に夢で良かったと、それだけは心から思う。


 ――だが。

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