第3話 イヤな視線

「……!」


 授業中。教師の単調な声にウトウト頭を揺らしていたところでハッと目を見開く。急いで辺りを見回した。


 ああ、まただ。また誰かに見られている気がする。


 誰だ、クラスメイトか? いや違う、この心臓を掴まれるような嫌な視線は――


「おーい織部ー。また誰かに見られてんのかー」


 ふと呆れ声が響の鼓膜に届く。声の方へ目を向ければホワイトボードの前でこちらを見つめる男性教師。

 一瞬の間のあとに教室に響いたのはクラスメイトの笑い声。


「お前またかよ~」

「何なの? つうか何に追われてんのお前」

「もしかして殺人鬼とか?」

「ストーカーでしょ」

「……はは、ごめん……」


 教師もクラスメイトも気の良い者たちばかりで、響に向けられるのは軽い揶揄くらいだ。自分のアヤしい挙動で授業を中断させてしまって申し訳ない気持ちが募る。


 とはいえ心拍数は未だに上がったままだ。冷や汗も止まらない。だが嫌な視線自体はもう感じなくなっていた。過ぎてしまえば幻のようにすら思えてしまう。


 そう、ツイていないと思う要因はもうひとつあった。ここ一週間、一日に数回、誰かの視線を感じるのだ。


 気のせいだと思い込むには強く、しかし確信するには一瞬の視線。結果としてイタい人間になってしまっている。


 だから響は今回も再開した授業のなかで自分に言い聞かせる。これもきっと勘違いなのだと。


 よく眠れなくて、もしかしたら何か悪いモノが憑いていて、そのせいで頭がバカになっているだけだ。ああまったく本当にツイていない。


 だがしかし。本当にそうなのだろうか?


 全部勘違いで済ませて良いものなのだろうか? あの視線を感じるたびに心臓を掴まれたようになるのに。


 乃絵莉が病弱なことも本当に全部勘違いなのだろうか? そう思ってしまうのにも嘘はつけなかった。




『――おにいちゃん、おにいちゃん……』


 何故なら鮮明な記憶があるのだ。


 響と乃絵莉がまだまだ幼いころ、乃絵莉が熱風邪を引いて伏せたある冬の日。


 顔をリンゴのように真っ赤にしながらコホコホと苦しそうに咳を繰り返すなかで約束をした、大事な記憶が。


『起きたの? だいじょうぶ?』


 熱にあえぐような声に響はすぐ乃絵莉のもとへ駆け寄った。


 当時小学校低学年だった響は家事をこなしている最中だった。


 乃絵莉はホッとしたような笑みを浮かべてくれた。真っ赤な顔を汗で濡らしている妹に響の小さな胸はきゅうと痛んだ。


 響と乃絵莉は物心ついたころには既に父方の祖父母と一緒に暮らしていた。


 母は乃絵莉を産んだと同時に死去、父は同時期に行方不明。それゆえ父母の記憶はほぼなく、とりわけ父親のことは祖父母も口を濁すため顔しか知らないくらいだ。


 当時の祖父母はどちらともフルタイムで働いていた。子ども二人を養うには大金も必要だったので辞めようもなかった。だからそのときの家には響と乃絵莉だけ。


 別に淋しいという感情はなかった。広い家に子どもだけ、という不安もなかった。


 何故なら甘えん坊の乃絵莉はいつも響の後をついてきた。加えて祖母が簡単な家事などを丁寧に教えてくれたので、それらをこなしていれば時間はあっという間に過ぎたからだ。


 だが、こうして二人のうちの一人が――大抵は乃絵莉が――調子を崩してしまうと響は底知れない不安に駆られた。


 祖母に教えられたとおり額に乗せたタオルを代えて汗を拭いてやれば、乃絵莉は気持ち良さそうに目を細めた。


 しかしそれでも響の気持ちはざわついたままだ。そのときの風邪は特にひどく、可能ならば自分が代わってやりたいとすら思うほどの状態だった。


『おにいちゃん……』

『なあに、乃絵莉』

『のえりね、さっき……いやなゆめみたの。オバケが、でてきたの。おいかけてきて、こわくて、ないてたの。でもね……おにいちゃんが、たすけてくれたの』

『……』

『はやくげんきにならないと、いけないから……のえり、またねるね。でも、またオバケがでてきたら、たすけてね』


 言って乃絵莉はにこりと笑う。力なく、それでも嬉しそうに響へ笑顔を見せた。


 その直後、一瞬にして胸へ湧き上がった感情――苦しそうでかわいそうだという心配、夢のなかで心の支えになれた誇らしさ。何かしてあげたいのにできない無力感。際限のない愛おしさ。


 それらが一瞬で綯い交ぜになって、響にひとつの決意をもたらしたのだ。守りたい。何があっても守ってやりたいと。


『ぜったいに助けるよ。かならず守るよ』


 だから強く妹の手をにぎった。安心させるように大きく頷いた。


『約束するね。乃絵莉のこと、ずっとずっと守るから。何があっても絶対に』

『うん……おにいちゃん、だいすき』


 乃絵莉は響の言葉に安堵の表情を浮かべた。やがて安らかな眠りについて、数日も経てば風邪は治ってくれたのだ。




 ――それからの響はずっと乃絵莉を見守り世話を焼いてきた。病弱な妹ができる限り苦しまないように。心の支えになれるように。


 もう十年以上前の記憶だ。しかし響の心には今も深く刻まれている大事な記憶。それが今の響の芯を形作っているのだから忘れられるはずがない。


 だからこそ疑問を感じるのだ。それほど大事に胸へしまい続けた記憶が全部幻、もしくは妄想だなんてこと在り得るのだろうか。


 乃絵莉は少なくとも確実に一度は熱風邪を引いたはずだ。なのに一度も風邪すら引いたことがないとはどういうことだろう?


「……」


 だがやはり、冷静に思い返してみると乃絵莉が病弱だったことなど一度もないという結論に至る。


 そう、乃絵莉は生まれてこの方一度も病気もケガもしたことがない。もちろん風邪だって引いたことがない。ゆえに自分のなかに鮮明にある記憶は幻であり妄想でしかないのだ。


 だから響はいつも考えることをやめてしまう。しかしそれでも腑に落ちない気持ち悪さは、この一週間ずっとつきまとい続けている。






 入学当初より帰宅部である響だが、家に直帰というわけでもない。友達とファストフード店ではしゃいだり、ゲームセンターで楽しんだりするわけでもない。まっすぐ飲食店のアルバイトへ向かうのが日課だ。


 響や乃絵莉が小さなころはフルタイムで働いていた祖母だったが、現在は家事に専念してくれている。


 それは金銭的に余裕ができたからではなく、祖母が数年前に大病を患ったことが原因だ。


 そのため少しでも家計の足しにしようと高校入学と同時に響はアルバイトを始めたのだ。


「うわーもうこんな時間……」


 バイト帰り、響はスマホに目を落としながら独りごちる。


 空はすっかり黒の帳に覆われていた。今日は金曜日だったせいかやたらと客が多く、相変わらずミスもして、クローズ作業にも手間取ってしまった。


 家路を急ぎたい気分ではあった。春が近いとはいえ日が沈んだ今は身がしびれるような寒さだったからだ。


 しかし疲れと不眠による身体の重さのせいで走る気も起きず、響はヨタヨタと住宅街を歩いていく。


 ふと見上げれば月、そして明滅する電灯。


 月は相変わらずきれいだが、街灯の方はなんだか息切れしているようにも見えて、響は妙に親近感を覚えた。思わず微笑んでしまう。


 だから進行方向に男が立ち止まっている事実にもすぐには気づけなかったのだ。


 顔を進行方向に戻してようやく認識し――それと同時に今まで感じたことのない悪寒が背筋を走り抜け、心臓がドクリと跳ね上がる。足は踏み込んだ姿勢のままフリーズ、呼吸器は一瞬で職務を忘れた。


「……!」

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