4. プランター

 やがて起き上がることすら難しくなった。

 一日中、ベッドの中で過ごした。胃がからっぽになった頃、なんとか起き出してカップ麺をすすった。そしてまたベッドに戻り、ひたすらに眠っていた。そうでないときは横になって、部屋の中をぼうっと眺めていた。

 何も考えられなかった。そんなことをずっと繰り返していた。


 ベッドから起き上がると、目の前がぐわんとぐらついた。

 足がもつれて、わたしは床に倒れ込む。

 したたかに体を打った。痛みとともに顔を上げると、そこには倒れた観葉植物のプランターがあった。

 転んだときに引っ掛けてしまったのだろう。大きな植木鉢は横倒しになって、中の土がぶちまけられている。観葉植物の葉はしなびて、茶色くなっている。それは完全に枯れていた。

 とたんに、いつかの光景がフラッシュバックした。日当たりのいい窓際で、あなたがプランターの前に座り込んで、なにか作業をしている。

 そうだ。あなたはこの観葉植物を、とても大事にしていた。


「植物は良いよ」

 あなたはそう言った。

 はさみを手に、注意深く剪定をしている。傍らには水で満たしたジョウロが置かれている。

「手をかけたぶんだけ、しっかり応えてくれるから」

 それはあなたの愛情であり、そして絶望でもあった。思い出すのもつらい出来事や、上手くいかない色々のことを、何一つ忘れないままに。それでもあなたはわたしに笑顔を見せるのだ。

 わたしは植物がそんなに好きではなかった。世話に手間がかかるし、もし枯らしてしまったら大変だ。わたしたちは話し合って、一緒に住み始めるとき、大きな観葉植物をひとつだけ買った。

 プランターはベッドの横、窓際に置かれた。その植物はあなたの手入れのおかげで、りっぱに緑の葉を広げていた。

 伸びすぎた葉にはさみを入れた後、あなたはジョウロで水をあげた。日光のよく当たる窓際に移して、その日の作業は終わったようだ。

 それからふたりでゆったりと時間を過ごした。湯気を立てるティーカップを手に、焼き菓子をつまみながら、ふうと息をつく。

「あの植物、すごい大事にしてるよね。ちょっと妬いちゃうな」

 わたしがからかうような言葉を投げると、返ってきたのは意外な言葉だった。

「そりゃ、大事だよ。だって、いっぱい願いを込めてるからね」

 その意図を汲めず、わたしはぼんやりと宙を見つめていた。するとあなたはふわりと微笑む。

「あの植物。幸福の木っていうんだ」

「……ああ、そっか」

 わたしたちの生活が、幸福なものでありますように。あなたはそんな願いをこめて、あの植物を育てていたのか。

 わたしは紅茶のカップに口をつけた。ほのかに甘くて、温かい。

「ありがとう」

 そうつぶやいたわたしに、あなたは優しいまなざしで応えた。

 あなたとの生活は、ゆるやかに続いていった。わたしたちは確かにそれを愛していた。

 しかし、かけがえのない時間も、必ずいつかは終わってしまう。わたしはまだそれを知らなかった。


 目の前には、台無しになった幸福の木がある。

 わたしはこぼれた土を両手でかきあつめ、植木鉢に戻そうとした。しかしそれは指の間からこぼれおちていくばかりで、一向に元通りにはならない。

 土まみれの指先に、枯れ葉がかさりと触れる。かつて青々と茂った葉は見る影もない。

 わたしは気づいた。土を戻したって同じだ。枯れてしまった植物はもうどうにもならない。

 どうしてこうなったか。それはわたしが、水をあげなかったせいだ。

 そう思ったとたん、目頭が熱くなる。堰を切ったかのように涙があふれ、視界がにじんでいく。

 わたしはずっと、あなたを失った事実から目を背けていた。

 時間が止まったと思い込んで、ずっと何もしないでいた。そうしていればあなたが帰ってくるかもしれないと、心のどこかで期待していた。

 それでも、部屋の隅にゴミ袋はたまっていくし、シンクの食器は積みあがっていく。

 水やりをしなかったから、植物は枯れてしまった。それらは時間が進んでいる証拠だった。

 床の枯葉に涙が落ちる。わたしが大人になれないせいで、あなたをもう一度失った。


 散々泣いた後、ふと気づくと、窓の外が明るかった。

 カーテンを開けると、眩しい光が眼を刺した。

 遠くの空から朝日が昇ってきている。

 それを見て、思った。わたしは行かなければならない、と。


 洗面台の鏡の前に立って、あまりに顔色が悪くて苦笑した。

 カレンダーをめくる。今日は火曜日だった。まずはゴミをまとめて出して、たまった食器を洗う。そうしたら、ちゃんとした朝食をとろう。

 そして、わたしたちの大切な思い出だけ持って、この部屋から引っ越そう。

 閉めきった窓を開け放つ。吹き抜ける風がわたしの心を満たしていく。

 止まっていた時間が、再び動き出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

タイムカプセルワンルーム あおきひび @nobelu_hibikito

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ