秋月へ吸い殻を投げつける

紫鳥コウ

秋月へ吸い殻を投げつける

 煙草を吸い終えて裏庭から表へ回ってきたところで、いい加減に、とっくの昔に禁煙していることを彼女に伝えたくなった。ひとり考え事をしている姿を見せたくないから、裏庭のベンチに座りビニールハウスの列を眺めているだけだということも白状したくなる。

 二階の彼女の部屋には灯りがついている。夜明けまでこの電気が消えないことは知っている。つまり彼女はこの時間に生きており、規則正しい生活を送りがちなぼくと高濃度で会話をすることはない。眠たそうな彼女を朝に見るばかり。一緒にごはんを食べてくれてもいいのに、偏食家の彼女は、コンビニで好きなものを買って部屋に閉じこもる。それと入れ替わるように、ぼくはふたり分の食事を考える。


 ぼくは、念のために常備している煙草をくわえて、彼女の前に立っている。しばしば彼女の絵のポーズ・モデルになるのだが、それがラフになり清書され彩色され一枚のイラストになっても、SNSに投稿されるばかりで、彼女の仕事に関係する一枚になることはない。それは、彼女のこだわりや信念のようなものと密接不可分なのかもしれない。

 彼女は煙草を吸わないから、煙草をのんでいる男性を描こうにも脳内に資料がない。だからぼくを無防備にも部屋に招き、煙草を吸う格好をさせているのだが、それには疑問がいくつかある。煙草を吸っている写真なんて、画像検索なり雑誌をめくったりすれば見つかるだろうし、なんならぼく自身を写真に収めればいいだけではないか。煙草を口に咥える際の唇や頬の動きを知ることなんて、それで容易いはずだ。しかし彼女が鉛筆を持った手を止めるまで、モデルとして彼女の前に立たされる。

「煙草に火をつけることってできない?」

 ある日、彼女はそんなお願いをしてきた。

「部屋のなかで吸うわけにはいかないよ」

 ぼくはもう煙草とは縁の無い生活をしているから、ポケット灰皿のたぐいは携帯していないし、肌寒くなってきたのに暖房器具を使うには微妙なこの季節の夜風に、彼女の身を晒させたくなかった。

 彼女は「ちょっとごめんね」と言って後ろを振り返り鼻をかみ、丸めたティッシュをごみ箱に放ったが、そこにはいくつもの薬の抜け殻がある。

「今日はもう寝ようかな。明日、出かけないといけないし」

「送っていこうか?」

「いいよ、いいよ。大丈夫だから。公多はおじいちゃんのことお願いね」

 液タブの上にペンを走らせて、左手デバイスを叩きはじめた。

「ところでさ、そっちの家は空けといて大丈夫なの?」

 彼女は、絵を描く手を止めることはない。

「うん、みんな元気にしてるよ」

「ふうん……だったらいいけど。でも、ほんと助かってる。お父さんとお母さんがいないのって、こんなに大変なんだって思わなかったよ。でもさ、ずっといてもらうわけにはいかないから、おじいちゃんの骨がくっついたら、公多は自分の家に帰りなよ」

 両親が死んだあと、この一軒家におじいさんとふたりきりで暮らし、イラストレーターという不安定な仕事を続けている彼女は、ときおり、「ずっとフリーランスじゃいられないかもね」と表情を曇らせることがある。

 しかし彼女がそういう不安を口にするたびに、ぼくは数年前から抱いている慕情が身体中に放散されるのを感じてしまうし、それを口実にして告白をしてしまいたくなる。不謹慎なことに。


 生きていることが孫にとって迷惑なのではないかという不安を、彼は切実に抱いていた。その弱音をぼくに言うということは、「そんなことはない」という風に孫に言ってもらうためのメッセンジャーになってほしいということなのだろう。彼だって、愛しの孫が、「あの世へ行ってくれると助かる」などと言うわけがないと分かっている。だから目的としては、「そんなことはない」という言葉の響きを見極めて、安心したいのだ。

「ツバサさんは、そんなことを思っていないですよ」

 ぼくは、彼がそのような痛切な不安を抱えているということを、彼女に伝えたくなかった。自分に対して不信を持っている、ということを彼女に報せる意味の重みを考えると、必然的に。そして、両親の死のあとに、精神科に通いはじめた彼女が、「仕事だよ」と行って家を空けていることを思うと。

 苺の収穫中に骨折し、蜂の飛ぶビニールハウスのなかで倒れているのを、手伝いにきていた彼女の叔父が見つけた。よろけて地面に右手をついたときに折れてしまい、その痛みのために気絶してしまったらしい。

 利き手を骨折した祖父の面倒を見ながら仕事をすることは難しい、という理由から、大学時代からの知り合いのぼくが住み込みで介護をすることになった。家賃の滞納で下宿を追われ、その無様な理由を引っ提げて実家に帰るのをためらっていた時だっただけに、ウィン・ウィンな話だった。

 彼女のそうした家庭の事情を知ったのは、ぼくの妹を経由してのことだったが、いきなり「事情を聞いたから手伝わせてほしい」などと不躾ぶしつけに言いだしたぼくの背後にある事情を、彼女はんでくれた。無賃で彼女の生家に住まわせてもらっている。家具を売り払って滞納していた室料の一部に充てた。身軽のまま、合わす顔を見つけられないまま、ここへ来た。


 白色のインナーには小熊のシルエットが描かれており、その上に明るい茶色の膝上あたりまであるガウンを羽織っている。アラビア絨毯の紋様のようなミニスカートが違和感なく見えるほどに強調されたガウンの存在感は、彼女自身の溌剌はつらつとした雰囲気を象徴している。シューズとショルダーバッグの黒色が、派手すぎるように映らないためのアクセントとなり、全体を爽やかな秋らしくまとめあげている。

「あんまり煙草を吸わない方がいいよ」

 と、彼女は言い、秋風にきらめく焦茶色の前髪を右手で直した。

「落ち着かないんだよ……保険証とか診察証とか忘れてない?」

「大丈夫。玄関で確かめたから」

 バスを乗り継いで市街地に向かうくらいなら、ぼくが車を出してあげてもいいのに。冬になったら、どうするのだろう。寒さに震えながら、イラストレーターにとって大事な手をかじかませて、通院するのだろうか。ぼくはそのときこそ、彼女のために車をだしてあげたいけれど、もしかしたらその時にはもう、べつのところに居るのかもしれない。

 煙草の吸い殻もなければ、ヤニの臭いもしないし、カートンを抱えて帰ってくる様子もないのだから、彼女はもう気付いているのかもしれない。しかしぼくは、彼女の目の入らないところでしか、彼女のことを真剣に考え続けられないのだ。


 裏庭から見える月は青白い。光源が少ないこともあり、星のきらめきも美しい。しかしその美しさは、やけに冷たく感じられる。どうしても手の届かないところにある美しさは、涙を誘うためだけにあるのかもしれない。

 だれも見ていないのに、煙草を指にはさんでいる。こういうところに、ぼくの臆病さのようなものが現れているように思う。

 あの美しい月も星も、ぼくになんら勇気も与えてくれないし、特別な力でぼくに奇跡を授けてくれるわけでもない。そんな月や星を、非情で冷酷なものだと形容したくなる自分が、幼稚に思えて恥ずかしくなる。

 大学生のとき、彼女に告白をした。「もう付き合っている人がいる」という答えは、断られる理由としてもっとも残酷だ。

 彼女のことを詳しく知らない自分というものを見出してしまったこと、そして、ビジュアルで彼女を選んでいるだけのオトコに見られたのではないかという想像は、しばらくぼくを悩ませ続けた。

 ここにきて三日目に、ベンチの下に煙草の吸い殻が落ちているのを見つけた。ぼくの吸ったものではないし、彼女は煙草を嗜んでいない。ということは、そういうことなのだろう。つまんだその吸い殻を思いっきり投げて、落ちたところを何度も踏みつけた。

 あんな吸い殻は、月へと消えてしまえばいいのに。身近にその存在を感じることは、あまりにもつらい。燃えるごみの日に、そっと袋のなかにいれて捨てた。しかしだれのものなのかという疑念は葛藤を生み、彼女に対して独占欲めいたものを抱いた。


「《サイン会楽しみにしています。遠方からですが前乗りして準備します》……わー! メテオラさん、投げ銭ありがとう! うん、わたしも楽しみにしてるからね。折角前乗りをするんだったら、観光をしたり美味しいものを食べたりして、楽しんでねー!」

 湯気が立つコーヒーカップをふたつ持って二階に上がったが、彼女の部屋には【配信中】という札がかかっており、中に入ることはできなかった。足音を忍ばせて部屋の前をあとにしたが、階段まできたところで座り込んでしまった。漏れ聞こえる彼女の声に聞き入っていた。

 彼女の配信を一度だけ見たことがある。しかし情けないことに、リスナーの愛のあるコメントに嫉妬してしまった。ぼくはずっと、彼女へ一方的な恋慕を抱いたまま、苦しみのあまり死んでしまうのではないか。死んでしまったぼくのことを、彼女はいつまで覚えていることだろう。

 そんなことを考えると憂鬱になるし、眠れなくなってしまう。


 ふたつのコーヒーカップをお盆に載せて、また裏庭のベンチに戻った。目に飛び込んでくる月、星、宇宙……ぼくは、宇宙葬というものを思い出した。たしか、遺骨の半分を宇宙に散骨するのだ。費用がどれほどのものだったかは覚えていないが、これから先、生活を成り立たせていくのではなく、宇宙葬の費用のためにお金を稼いでいこうかなんて思った。

 あの日、月へと投げた吸い殻のことを思い出す。この場所も安息の地というわけではない。最後の審判を待つ死人のような気持ちになることがある。暗やみの中からメフィストフェレスが浮かび上がってくるように感じるときもある。

 それでも、この場所で感じる不安というものが、妙に心地よく思えることがある。打撲したところの周りをさすっているような気分になるというか、滝行のあとに震えながら焚火に当たっているような感覚になるというか。とにかく、自分というものをはっきりと自覚できるのだ。

「わたしのマグカップがないなーと思ってたら、持ってってたんだね」

 後ろから彼女の声が聞こえて思わず小さな驚きの声が漏れた。

「パンのくずを落としてここまで誘う、わるいヘンゼルさんみたいに」

 そう言ってぼくの隣に座った彼女は、お盆の上に乗せられたカップを手に取り、もうすっかり冷めたコーヒーを一口のんだ。

「やっぱり煙草は吸ってないんだ」

「気付いてたの?」

「うん、煙草を吸ってるひとが身近にいるから、大体分かるよ」

「そう……」

 ぼくはヘンに恥ずかしくなって、努めて快闊な口調をして語りかけた。

「そういえば、吸い殻が落ちてたね。あれは、――」

「ああ……掃除したんだけどなあ。叔父さんのだよ。うちの苺畑を手伝ってくれてるひと。知ってるでしょ?」

「ああ、たまに来るひと?」

「そそ」

「ぼくのことヘンな目で見てたから、身内の人なのかなとは思ってたんだけど……」

 ぼくは、彼女の言葉に安堵できるほど単純ではない。取り繕っているのかもしれない。しかしそれがウソだとして、なぜぼくに本当のことを言わないでおくというのか。

 当惑する。いや、やっぱり安堵している。疑っても真相が見えてこないのならば、信じればいい。

 あの月が平面ではなく球体であると、ぼくは伝聞でしか知らない。しかしそれが、球体であると信じない理由にはならない。思考停止し、受け入れる。それでいいのかもしれない。

「ツバサ」

「うん?」

 オトコはいないのかと聞こうとしたぼくは、その返答への反応を用意していないことに気づき、口ごもった。だから、思い切って言ってみることにした。

「好きなんだよね、どうしようもなく」

「夜が?」

「夜もふくめて」

 ぼくたちはそれから、かげらない月を見ながら、冷めたコーヒーを口にしては黙り、どちらが先にどんな言葉を紡ぐか、お互いに探り合ったまま過ごした。

 こらえきれない涙を、悟られないように少しずつ流して、冷たくなってきた顔を拭うのを我慢しながら、もう少しだけ生きてみようかと思った。でも、死んでもいいという気持ちは晴れない。死を意識しなければ、生きているということは実感できない。

 そんなことを考えているうちに、どこからか口笛が聞こえてきた。

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