第四集 冶師

 奇奇ききが剣術師範となってから、毎日のようにえつ軍兵士の訓練が行われていた。

 南林なんりんでの武勇伝に加え、王宮で見せた模擬戦の話は越の軍中に瞬く間に広がり、ほとんどの兵は従順に従った。

 中にはそれでも小娘と侮る者もいたが、そういう者はほんの数手ほど手合わせをするだけで、すぐに心服した。


 奇奇の示した訓練は、ただひたすらに悪路を駆け抜けて体力をつけ、ただひたすらに敵兵に見立てた木偶でく人形に打ち込む。もしも訓練で疲労するのならば、疲労しなくなるまで続けろ、慣れろ、である。

 敵が刀身や盾で防ぐなら、もろともに打ち砕け。可能なら敵が構えるよりも先に敵を斬れ。圧倒的な速さと力強さは、小手先の技に勝る。

 そしてその域に達すれば、より正確な剣を振るいたいと自然に思うようになり、また自信も余裕も勝手に生まれる。

 心・技・体という後世の判断基準で鑑みると、奇奇の訓練はとにかく体に特化していると言えた。技と心は後から付いてくるという理屈である。

 ましてや集団戦が主となる兵卒ならば、特に有効な訓練といえた。


 もちろん結果的にそうなっているだけで、奇奇はそこまで考えていない。山で駆けまわり、木の枝を振り、獣と戯れていたら、いつしか今のようになっただけであり、兵士たちにも、それをなぞらせているにすぎない。

 実際、奇奇の説明は「どーん」や「ひゅー」などの直感的な語彙ばかりが並んでいる。もっとも兵士たちにとっては、小難しい講釈を長々とされるよりはマシであろうが。


 兵士を指導する奇奇の横では、范蠡はんれいが控えている。

 軍の指揮官として訓練状況を視察しているのだ。兵士たちの様子と同時に、自身が雇い入れた剣術師範の様子もである。

 奇奇は彼の用意した服に着替えていた。

 さすがに襤褸衣ぼろぎぬのままでは格好がつかないという事で用意したのだが、それでも深衣しんい(裾の長いローブ)では動きにくいと言った奇奇は、結局腰下までの簡素な短衣たんいを選び、足は裸足のまま、髪も荒縄で纏めただけである。

 そもそも連れてきた目的が違うとはいえ、范蠡としては夷光いこうとの差に思わず苦笑してしまう。


 そんな訓練中の軍営に文種ぶんしょうが訪れた。内政を引き受ける彼が軍に顔を出す事は珍しい。何かあったのかと尋ねると、訓練に参加している兵士に探し人がいるという。

 それは名匠として名高い冶師やし歐冶子おうやしの孫。

 文種に遅れて軍営に入ってきた頑固そうな白髪白髭の老人が、歐冶子その人である。

 思い思いに散って雑談をしている休憩中の兵士たちをしばらく見回した歐冶子が、目当ての人物を見つけたと思われた瞬間、軍営中に響き渡る怒号を上げる。


阿赤あしゃく!!」


 それまでの喧騒もどこへやら、水を打ったように静まり返った兵士たちの中から、十代後半ほどの少年が観念した様子で進み出た。

 周囲の人間そっちのけで𠮟りつける祖父と、必死で釈明する孫の会話からすると、どうやら鍛冶の仕事を放りだして、勝手に軍の訓練に参加したのだという。

 阿赤と呼ばれたこの少年の両親は既に亡く、幼い頃に外祖父がいそふ(母方の祖父)である歐冶子に引き取られたそうだが、亡き両親は呉王のせいで死んだという事らしい。つまり征呉の最終決戦に兵士として参加し、自ら親の仇を討ちたいという話であった。

 しかし冶師の仕事は武具を作る事であり、軍事にあって兵役と同等かそれ以上の意味を持つ。冶金技術を持つ一族の者を、一兵卒として消費するわけには行かない。ましてや他国にまでその名が轟いている歐冶子の一族ともなれば尚更である。

 平行線のまま言い争っている両者の間に、范蠡が割って入った。


「ではこうしましょう。とりあえず君は鍛冶の仕事をして、空いた時間に剣の腕を磨くといい。師範にも時間を作ってもらってね。それで決戦の時までに、兵として活躍できるほど剣の腕が上がっていたのなら、参加を許そう。それでどうだい?」


 歐冶子としては、どうせ参加は見送られるだろうと踏み、阿赤としても参加できる可能性が残された以上、後は自分の努力次第という形となった事で、この場は双方に引き下がる事となった。

 指導する奇奇としては、ともすれば余計な仕事が増えたとも言えるが、そもそもこの会稽かいけいの都に他の友人はおらず、山育ちの身としては町で楽しむ方法を心得ていない事もあって、余暇の時間など手持無沙汰になるだけだ。話し相手が出来たと却って安堵していた。



 そうして幾度か、共に仕事も終わった夕暮れ時の篝火かがりびの傍で、二人きりでの訓練を重ねる事となった奇奇と阿赤。その間に奇奇は、阿赤の両親の話を聞く事となる。

 彼の父はもともと歐冶子と同門の冶師だった。つまり歐冶子は、年の離れた師弟したい(弟弟子)に自分の娘を娶らせたという事だ。

 父の名は干將かんしょう、母の名は莫耶ばくやと言った。


 この時代、越の冶金技術は中原すらも遥かに凌駕する天下一の技術水準であった。そんな越で一番の名匠と呼ばれた冶師が歐冶子である。

 名実ともに天下筆頭の歐冶子は、越王からの依頼を一手に引き受けていたという状況だった。

 しかし同時に、他国からの依頼も多く舞い込んでくる。呉や楚と言った近隣国からは特にだ。

 そうした歐冶子の手が回らない零れ仕事をこなす事で、干將はどんどん名を上げたのである。


 そんな折に、先代の呉王・闔閭こうりょから「五岳六合ごがくりくごう並ぶものなき宝剣(天下一の宝剣)」を作ってくれという依頼が舞い込んだのだった。

 干將は無茶な依頼だと思いながらも、己の腕を試したいとばかりにそれを受けたのである。

 各地から最高の材料を取り寄せ、いざ製作に取り掛かったのだが、不思議と炉が温まらないのだ。薪は燃えているが、金属は溶け混ざらない。


 かつて師兄しけい(兄弟子)である歐冶子が、天下の名剣と呼ばれた七星龍淵剣しちせいりゅうえんけんを作った時も、似たような状況だった。

 歐冶子に曰く、真の宝剣は人が意図して作れるものではない、自然に生まれるのだ。素材に備わる気が互いに共鳴し、それが無形ながら剣の形を成した時に、天が形を与えるのだ。冶師はその瞬間を捉えるしかできぬ。


 干將はその言葉通り、毎日のように炉に火を入れて天の時を待った。気づけば最初に依頼を受けてから、もう何年も過ぎていた。しかし一向に天の時は訪れない。

 そこに莫耶が、身を清めた白装束で現れた。何事かと聞いた干將に対し妻は答える。


いにしえの名剣は、作る際に生贄を要したと聞きます。やはり五岳六合並ぶものなき剣を生み出すとなれば、それに倣うしかありますまい」


 そうして莫耶は、干將が制止する間もなく、真っ赤に燃え上がる炉の中に飛び込んでいった。

 悲しみの叫びをあげる干將の目の前で、不思議と炉の温度は上がっていき、金属が見る見るうちに溶け混ざっていった。

 莫耶の命が天の時を引き寄せたのだと感じた干將は、妻の死を無駄にしてなるものかと、急いで剣の制作に取り掛かった。


 そうしてのが、二本の剣だった。片方は白く輝く亀甲模様の陽剣、片方は黒く輝く波状模様の陰剣。干將はその両剣に、自分と妻の名を付けた。

 すなわち干將陽剣かんしょうようけん莫耶陰剣ばくやいんけんである。


 遂に剣は完成したのだが、それを依頼した呉王・闔閭は、折りしも越との戦いで戦死してしまった所であった。

 それでも受けた依頼、それも素材を買い揃えるための前金まで貰っている以上は、例え依頼人がこの世におらずとも届けねばならぬ。

 そこで干將は幼い息子を、師兄であり義父でもある歐冶子に託した。


「おそらく私は殺されるでしょう。どうか息子を頼みます」


 そうして干將は呉に赴いて、新たに呉王となった夫差ふさに謁見した。

 だが夫差として見れば、自国が越との戦争に負け、父王が亡くなった悲しみと混乱の只中、まさに越人の干將がやってきて「頼まれていた剣がようやく完成したので先王の墓前に供えさせてください」というのだ。

 わざと完成を遅らせ、これ見よがしに墓前に供えにきたのであろう。そう邪推するのも無理からぬ事だ。

 そうして干將は殺された。呉王・夫差に。


 阿赤はこの時、まだ幼子であり、両親の事は朧気おぼろげにしか覚えていなかったが、祖父である歐冶子から幾度も聞かされた話だった。

 闔閭と夫差の呉王親子は、阿赤の両親を翻弄し、その命を奪った憎き仇だった。

 呉を滅ぼすというのなら、せめて一兵卒でもいいから参加したいというのも理解できる。

 阿赤の話に様々な感情が頭に浮かびながらも、奇奇はそれを上手く言葉に出来なかった。


「ん……、がんばれ」


 ただ一言そう呟いた奇奇に、阿赤は笑みを浮かべて返した。


 そうして日々の訓練に精を出す阿赤を、奇奇は黙って見守った。

 そんな阿赤の剣の筋は予想以上に、悪かった。





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