第三集 両翼

 この時代の中原ちゅうげん、すなわちしゅう王室を取り囲む黄河下流域の国々は、各国の君主一族の下に仕える家臣たちが貴族という形で政治闘争を繰り広げるようになっており、どんなに本人の能力があろうとも、その出自によって地位は大きく左右された。例え生まれが良かろうと、一族が政治闘争に敗れてしまえばやはり同様だ。

 そうした者たちが活路を求めて出身国を離れ、他国で身を立てるという事は決して珍しい事では無かった。


 一方で中原から遠く離れた辺境の国では、逆にそうした者たちを受け入れる事で中原の文化や技術や得ていたのである。

 の最盛期を築いた呉王・闔閭こうりょを支えた孫武そんぶせい伍子胥ごししょ伯嚭はくひしんが本籍地である。

 その三者の内、現在も呉に仕えているのは伯嚭だけであるが。


 えつもまた例に漏れない。現在の越王・勾践こうせんの下で活躍する二人もまた他国からの流入者で、ともに楚の生まれだ。

 軍事を担う范蠡はんれいと、政治を担う文種ぶんしょうである。


 持ち前の軽さで君主や兵士を鼓舞し続け、同時に次々と奇想天外な策で敵を翻弄する范蠡に対し、穏やかな人柄と堅実な手腕で国政を固めていく文種は、まさに越を支える政戦の両翼と言えた。

 同じ国に辿り着いて身を立てた同郷の二人は、無二の親友でもあった。


「それにしても、どこで見つけて来たんだ、あの娘」

「南方の方で噂になっていてね。周囲の村を支配していた邑を、たったひとりで壊滅させた娘がいるって」


 それは剣術師範を探していた范蠡としては渡りに舟の情報であった。

 現地に赴いて聞いて回れば、その娘はすぐに見つかった。越王に仕えてみないかと提案し、その家族とも話し合い、支度金代わりの金品で簡単に話は付いた。特に娘の方が両親に育ての恩を返せると乗り気であった。

 国の統治が行き渡っていない田舎の山村では、軍師の懐から出せる物だけでも充分に大金だったのである。


「前にもあったな、そういえば。……本当に若い娘をたぶらかすのが上手い奴だ」


 そう言って文種が口元を緩ませ、范蠡も無言で苦笑した。

 というのは、十年ほど前の事である。

 同じように田舎の村で絶世の美女がいるという噂を聞きつけた范蠡が、薪売りをしていた貧しい娘を見つけたのでる。夷光いこうと名乗ったその娘は、身なりこそ襤褸衣ぼろぎぬまとって、泥だらけの顔をしていたが、確かに絶世の美女と呼んで差支えが無かった。

 今度の時と同様に家族に支度金を渡して娘を引き取り、王宮の礼儀作法や言葉遣いを仕込んだ。元は良家の娘であったとためにという氏も名乗らせた。


 范蠡がその娘・夷光に命じた事はただひとつ。

 呉の後宮に入り込み、呉王の寵愛を受けて、堕落させる事。


 そうして夷光を呉の領内に赴かせて働かせる事で、呉の臣下たちの噂に上らせ、遂には呉王・夫差ふさそばめとする事に成功したのである。

 呉の都・姑蘇こその西にある村で働いていた所を見出された施家の娘という意味から、夷光は呉の宮中で西施せいしと呼ばれる事となった。

 万一の事を考えて直接的な内通は避けていた范蠡だったが、聞こえてくる呉の内情を鑑みれば、夷光が上手く取り入っている事は手に取るように分かった。

 愛妾に入れあげた呉王・夫差は、忠臣たちの言葉を退けて、遂には重鎮として呉を支えていた伍子胥を自死に追い込み、呉軍を築き上げた孫武すらも国を離れてしまったのだ。

 そして一方では豪華な宮殿を造営して贅沢三昧の日々を送っているという。

 誰の目にも、昔話に出てくるいんの滅亡前の姿、あるいは周王室が斜陽となった幽王ゆうおうの時代と重なっていた。


 王を堕落させる傾国の美女。

 伝説に語られるままの存在を、范蠡は自らの手で育て上げたのである。


 そんな范蠡の動きを傍らで見守っていた文種としては、今度の越軍強化にあたって連れて来たのが、やはり同じような手口で連れてきた十代の娘だったとなれば、さすがに冷やかしのひとつも投げたくなるであろう。


 そんな文種の言葉も含め、周囲からどう見られるかという部分も、范蠡は受け入れていた。

 だが一方で、年端も行かぬ貧しい少女に金をちらつかせて、その人生もろとも買い取る行為に全く罪悪感を覚えていないと言えば嘘になる。

 先代の呉王・闔閭を討ち取った時の戦いも、若き日の范蠡による策を実行していたわけだが、それは大勢の死刑囚を呉軍の前で一斉に自殺させるという、まさに奇策によって呉軍の虚を突いたのである。その決死隊になった死刑囚にはこう言っていた。


「この作戦に参加せずとも諸君はいずれ刑場の露と消える。諸君らの家族も罪人の一族だ。だが作戦に参加すれば、諸君らは英雄と称えられ、家族もまた英雄の遺族として扱われよう」


 何度思い返しても、選択肢を与えぬ卑怯な言であると范蠡は自嘲した。例え死刑囚の死が避けられぬ事だろうと、英雄の遺族として扱われようと、残された者たちが誰一人范蠡を恨まぬというわけにもいくまい。

 だが全ては、この長きに渡る呉越の戦争を、越の勝利で終わらせるため。そこに至る事が出来さえすれば、今まで利用してきた者の誰かに斬られる事になろうと、范蠡は受け入れるつもりでいた。


 そんな范蠡の無言の覚悟を感じ取っていたのは、友人として杯を重ねていた文種だけであった。





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