第五集 傾国

 その頃の呉王ごおう夫差ふさは、宮殿で酒浸りの生活を送っていた。


 かつて父である闔閭こうりょは長江を渡って西進し、大国であるの国都を陥落させ、江東に呉国ありと天下に示した。

 その直後に襲ってきたえつによって父が戦死するも、自分が後を継いで越を攻め、勝利し、これを属国とした。

 そして今度は長江を渡って北上、せいの領土を切り取った。

 そこまでは全てが順調だった。


 中原のしきたりに倣い、会盟を開いて天下の覇者たるを宣言しようとしたその時だった。本国を空けていた隙に、属国としていた越が決起したという報告が届いたのは。

 会盟に参加している諸侯らは、夫差を見下している空気が既にあった。そんな中でこの事が明らかになっては顔が潰れ、会盟どころではなくなる。

 だが会盟さえ成功させてしまえば、そしてそれまで本国が保ってくれれば、どうとでもなる。夫差はそう踏んでいた。

 留守居の本国の方は、孫武そんぶの鍛え上げた精強なる呉の軍によって無事に守り切られたのだが、会盟の方はそうはいかなかった。

 自陣営の者たちには徹底した口止めをしたが、それでも本国が攻められているという情報は会盟に参加した諸侯には筒抜けだったのである。


「ところで本国の方はよろしいので? 反乱軍に国都が攻められているという時に、こんな事をしている場合なのでしょうか?」


 まるで心配するような、それでいて嘲笑うような、眉をひそめた笑みでそう言い放ったのは、しん大夫たいふ趙鞅ちょうおうだった。

 周りに控えた諸侯たちもクスクスと失笑を漏らしていた。


 会盟とは本来、しゅう王室を支える事を改めて誓い合うという大義名分のもと、周辺国に敵か味方か立場を明らかにせよという恫喝の面もあるのだ。それゆえに名実ともに覇者となるわけである。

 しかしこの時の中原諸侯は、辺境からはるばるやってきた呉に恐れなど抱いてはいない。形ばかりのお膳立てをして話だけは聞いてやろうという態度だったわけである。

 気ならやってもかまわないが、そちらにそんな余裕などあるのか。諸侯らの視線はいずれもが、そうした嘲笑の視線だった。

 結局、この会盟は失敗に終わったと言ってよい。


 波乱万丈の人生を送ってきた夫差であったが、あの時ほどの屈辱は後にも先にも無かった。

 こんな事ならば、伍子胥ごししょの言う事に耳を傾けておけばよかったと夫差は唇を噛んだ。

 呉の躍進に尽力した伍子胥は、この少し前に夫差によって自死を命じられていたのである。


 越を下したとはいえ、越王である勾践こうせんの降伏を受け入れて、属国として生きながらえさせた。

 この時に、勾践を処断するべしと強く主張したのが伍子胥である。ここで生かせば、いずれ必ず憂いとなると。

 しかし一方で、同じく重臣にあった伯嚭はくひが、勾践を許し人徳を見せるべしと説いたのである。呉王が暴君となるか仁君となるかの分水嶺だと。

 両者の言説はどちらにも理があった。悩んだ末に夫差は伯嚭の言をしとした。勾践を生かし、越を属国として存続させたのである。


 その後の斉への北伐と、会盟の計画に関しても、伍子胥は事あるごとに反対した。

 越を属国として生かし、また先王の代に切り取った楚の領土もしんの援軍で奪い返され復興を始めている。今ここで長江を渡って本国を空にすれば、再起を図る敵に絶好の機会を与えるようなもの。

 また長江流域を広く治めた所で、中原諸侯にとっては辺境の未開地を治めて虚勢を張っている田舎者にしか映らず、会盟を成功させられるほどの影響力などありませぬと。

 その全てが夫差の機嫌を損ねた。

 そして遂には、夫差の寵愛している愛妾の西施せいしを「この女は妲己だっきの類です。お斬りなさい」と言った事で、とうとう夫差の逆鱗に触れたのである。


 そうして夫差は、名剣「属鏤しょくる」を伍子胥に賜った。これは賜死しし――遠回しに、その剣で自害せよという意味だった。

 伍子胥はそれを受け取り、呉への呪詛の言葉を吐きながら、自らの首を切り裂いて自害した。


 そんな伍子胥と共に呉を支えていた孫武は、その時に私用で他国へ赴いていた。伍子胥の死を聞いた孫武は二度と呉に戻る事は無く、歴史の表舞台から姿を消したのである。

 余談であるが、彼が『孫子兵法』を著したのは、呉から離れた後の隠遁生活の時であると後世に推測されているので、もしも呉に留まっていたならば、或いは『孫子兵法』が後世に存在しなかったかも知れぬと考えれば運命的な出来事だったと言えよう。


 いずれにしても、これまでの全ての出来事が、伍子胥の予言通りに進んできてしまったのである。越の決起の事も、会盟の事も……。

 夫差は隣に座る愛妾に視線を送った。伍子胥が生前に妲己と揶揄し、斬れと言った西施である。


「そなたは、違うであろうな……」


 悲しげに弱々しく呟かれたその言葉は、夫差にとって祈りのようなものであった。それに対し西施は、まるで一切の不安を溶かすような、慈愛に満ちた笑みで応えた。


「私には何の事かよく分かりませぬが、こうして過大な身分に取り立ててくれた呉王様にはご恩しかありません」


 そう穏やかに呟いた西施を、夫差は無言で押し倒した。

 まるで自身の内に沸いた疑念を、体を重ねる行為を以って晴らしてくれと言わんばかりに、愛妾の体を貪った。


 そんな夫差を西施――夷光いこうは笑みを浮かべて受け入れていた。

 きっと恩人である范蠡はんれいの壮大な計画は順調に進んでいる。こうして黙って夫差に抱かれ、嬌声を上げて素直に喜んで見せればよい。それが自分に与えられた役割なのだから。


 だが今こうして自分を抱いている相手が、范蠡だったら良かったのにという思いが夷光の心にあった。考えてはならぬと自戒するほどに、逆に意識してしまうのだ。

 夫差が自分に心酔するほどに、夫差に抱かれ自身の体を貫かれるたびに、夷光の心中で叶わぬであろう想いが育ってしまうのである。






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