第六集 忠節

夫差ふさが叔父を処断したそうだ」


 越王・勾践こうせんは、口元を緩ませながらそう呟いた。その場にいる范蠡はんれい文種ぶんしょうを始め、越の大夫たいふたちも既にそれは耳にしていた話である。

 曰く、呉の公子・慶忌けいきが呉王・夫差を諫めた所、激怒した夫差によって誅殺されたという。


 今は亡き呉の先王・闔閭こうりょは、順当に呉の王位を継いだわけではない。闔閭の父、すなわち夫差の祖父にあたる諸樊しょはんは若くして亡くなり、当時は闔閭が幼かった事から、諸樊の次弟が、次弟が戦死した後は三弟へと王位が兄弟継承されたのだ。

 しかし、闔閭がすでに成人していたにも関わらず、諸樊の四弟である州于しゅううが王位についてしまった。

 これに怒った闔閭が、州于を暗殺して王位を奪い取ったのである。闔閭からしてみれば、という所だろう。


 現在の呉王・夫差は、そんな闔閭の子。そして今回殺害された公子・慶忌は、かつて闔閭に暗殺された州于の子である。

 本来はとうに殺し合っていて然るべき関係だが、慶忌は実父を殺害されていながらも、王族同士で争う事は愚かだと断じた。あくまでも呉国の安定を優先し、闔閭を、次いで夫差を支えてきたのである。


 しかし近年の夫差の行状は目に余るとして、遂に諫言したのだ。素行を改めねば国が滅ぶと。私情よりも国の安定を優先して生きてきた慶忌らしい行動である。

 だが夫差は聞く耳を持たないどころか逆上し、暗殺者を送って慶忌を誅殺してしまったのである。

 慶忌は息を引き取る直前「我を殺した者を咎めるな」と言い残した。最後まで私情よりも国を想った公子であった。


 もしも四十年前に闔閭が州于を暗殺せず、慶忌が現在の呉王となっていたのなら、闔閭・夫差親子ほどの躍進はしなかったであろうが、周辺国との関係を良好に保つ安定した国を運営したのではないかと思わずにはいられない。

 いずれにしても、夫差が亡国への道を転がり落ちている事だけは明白である。


「ところで、伯嚭はくひは何と申しておる?」


 勾践が続けて口にした名は、呉の大夫の名である。

 かつて勾践が戦に敗れて呉に降伏した際、范蠡を始めとした家臣らが勾践の助命嘆願を頼み込んだ相手こそ、呉の中でも穏健派の伯嚭であった。

 断固として勾践を処断するべきと主張した伍子胥ごししょに対して、伯嚭は仁愛の心を以って許すべきと説いた。結果、勾践の命は救われ、越は属国という形で存続を許されたのである。

 そのおかげもあって国力が回復し、こうして今では呉を滅ぼす最終段階にまで来ているのだ。


 伯嚭としては信じた勾践に裏切られたという所であろうが、勾践は「このまま泥船と共に沈むか、越と内通して生き延びるか」の二択を伯嚭に迫ったのだ。

 密偵から届いたその答えを、范蠡が勾践に伝える。


「かつて呉に降伏した越王の命を救ったが如く、越に降伏したのち呉王の命も救うと約束していただけるのなら協力いたします、との事です」


 それを聞いた勾践は呵々大笑した。


「よかろう! その旨伝えよ!」


 これもまた対呉策のひとつ。越による征呉への外堀は、着々と埋められている。そして夫差はそれに気づくことなく、自ら墓穴を掘り続けていた。

 勾践はいずれ来る勝利をほとんど確信していた。

 そんな中で勾践は、かつて自分が呉に降伏した時に、自身の処断を強く主張しつづけていた伍子胥の事を思い出していた。

 今となっては、主君たる夫差の手によってその命を絶たれた呉の忠臣だ。

 もしも存命だったなら、これほど上手く事は進まなかったであろう。


「呉の臣下の中で、我が最も恐れ、同時に最も尊敬するのが伍子胥である。一方、同じく呉の臣下の中で、我が最も感謝し、そして最も軽蔑するのが伯嚭である」


 勾践は口元を緩ませつつ、そう言い放った。

 あえて口に出す者は誰もいなかったが、決戦の日は近いと、その場にいる士大夫は誰もが思っていた。



 軍議を終えて、訓練中の軍営に赴いた范蠡は、改めて兵士たちを見回す。軍営全体を見回しては大声で指示を飛ばす奇奇ききの背中が見える。

 彼女がやってきてから、既に年を跨いでいた。

 その間ずっとこうして軍の訓練を見続けてくれていたおかげで成果も出ており、当初に比べれば兵士たちの動きも遥かに良くなっていた。

 孫武そんぶの練兵とはだいぶ違うであろうが、それでも呉軍の精兵と互角に渡り合えるはずと感じられるようになってきていた。

 全ては奇奇のおかげである。

 閩中びんちゅうから呼び寄せた時に期待していた働きを充分以上にしてくれた。


「本当によくやってくれた、奇奇……」


 それは范蠡の素直な感情から発せられた、何の打算もない言葉だった。

 一方で、そう声を掛けられた奇奇の方はと言えば、自身でも驚くほどに心臓が跳ねるのを感じ、思わず目を見開いて振り返ってしまった。

 穏やかに微笑み返す范蠡から視線が離せずにいる。


「いえ、僕はただ……、その……」


 猛獣と命を奪い合っている時でさえ、これほどに緊張する事は今ではほとんどない。突然の出来事に言葉が出てこずに俯いてしまった。


 それは奇奇が人生で初めて感じた、淡い恋心であった。





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