二百四十三話 優しい孟徳
黄忠の荊州での人望が厚い
彼が説得しに向かうと文聘はその日の夜、曹操の酒宴に参加した
そして翌日曹操が襄陽に向かうと文聘も共に向かった
南陽は襄陽の隣に位置するがその距離は二百里離れていた
天子鑾儀に慣れてしまった曹操の一日の道のりは精々四五十里程度
幸いな事に道中の道の駅が多数あり、疲労が溜まる旅ではなかった
四日後、曹操たちが襄陽に到着した。
劉琮は既に荊州の官僚を全て引き連れて出迎えをしていた
曹操は倚天剣の柄に肘を載せ、背後の趙雲と共に劉琮の前まで歩いた
劉琮を見ると曹操はにこやかに笑った
「うん、荊州刺史が少年英傑だと噂に聞いたが、噂通りの聡明な少年のようだな!景昇兄は良いご子息を持った!これからも荊州の百姓のため、国の社稷のために務め!」
劉琮は予想だにしなかった褒め言葉で一瞬固まった
天下を我が物にするために数々の梟雄を破滅させた曹操の事を噂に聞いてから、きっと王座の下には無数の骸がある暴君だと思っていた
しかし目の前の曹操はまるで近所のおじさんのように朗らかで接し易い
そう思うと劉琮は肩の力を抜いて少し気が楽になって拱手して答えた
「これから魏王のために荊州をより良く治めます!」
曹操は劉琮の意気込みに全く興味を持たないがそんな素振りを見せずに当たりを見渡した
やはり蔡氏は居ないか…まぁ良い身分のせいもあるだろう、この後の酒宴に来ると良いな…
曹操は君主らしく失望の感情を顔に出さなかった
「魏王、あの人が魏延です」
黄忠は曹操の隣に行き、小声で話した
黄忠の目線に沿って目を向けると武将列の中で一人大男が立っていて、その目付きは鋭く、凶悪な顔立ちをしていた
ほう、雰囲気だけなら虎賁双雄に似た物を感じるな…
曹操はそう思いながら魏延に近づいて、後者は急いで拱手した
「魏分長」
「はい!」
「お主に頼みがある」
「とんでもないです!ご命令とあらば従います!」
魏延の圧迫感はもちろん曹操のそれとは比べられない
曹操は魏延の肩に手を乗せ楽にしろと示した
「早速で悪いが仲業と関中へ行ってくれ」
「はい!」
返事を聞けば相手が物わかりのいい人だと分かった
曹操はそのまま文聘へ手招きして呼び寄せた
「お主ら二人は子寂と会った事がないが彼の命令をよく聞くように心しておけ。良いか、子寂が言ったことを余が言った物だと思え!」
「はい!肝に銘じておきます!」
何故関中へ配置されたのは知る由もないが二人とも蔑ろにされた感覚が無かった
むしろ麒麟軍師に仕えるのは願ってもない話だと思って内心浮かれていた
子寂に頼まれた事はこれで済んだ、これでやっと自分の事に着手できる!
曹操は城関に書かれた襄陽の二文字を見て長く息を吐いたあと手招きをすると劉琮が小走りだその近くへ行った
劉琮の案内で城内へ入るとそこには既に酒宴が用意されていた。
朝廷の礼儀作法に因んだ酒宴だが主賓である曹操の席には九鼎膳食が用意されていた
通常、九鼎膳食は天子にのみ許された規格である、曹操は気が利く劉琮へ讚賞な目を向けた
劉琮も内心得意げだった、彼は曹操が自分を気に入ったとすっかり思い込んでいる
「荊州兵力の統計に目を通した、騎兵歩兵合わせて五万、水軍七万、戦船二千隻。実に良い、余はこれから南下して賊を討つ、お主らの水軍戦船が力を発揮する時だ!武勲を建てもらうぞ!」
酒宴で酒を数杯呑んでから曹操は荊州軍をべた褒めした
これから荊州軍に奮戦してもらうため今のうちに鼓舞して損は無い
劉琮は戦いの事がさっぱりわからないので口を挟めない
その代わりに蔡瑁が立ち上がって存在感を示した
「魏王、末将に一つ助言があります」
「徳珪、お主が水戦に長ける事を知っている。考えてる事を申せ」
蔡瑁は拱手したまま続けた
「はい、魏王が江東の逆賊を討つために洞庭湖で青州徐州両水軍の調練をしていると存じ上げています。しかし長江の水は動なり、洞庭湖の水は靜なり、この二つには雲泥の差があります。そして長江も上流と下流に分かれ、風向きの影響、水面下の暗流など不確定な要素が多数あります。なので末将の提案は青徐の水軍を荊州水軍と併せて長江で調練する事です。これなら将兵たちもいち早く長江の流れに慣れるでしょう」
蔡瑁の話で曹操が座る姿勢を正した
蔡瑁が媚びる人だと知っていたが水軍の調練に対する見解がここまであるとは思わなかった
先の話を聞けばその知識が青徐水軍の統率于禁よりあると分かる
もちろんその話自体が自分の価値を上げるための物である事もわかったが曹操はそんな事を気にしなかった
「徳珪、お主を水軍の都督に任命する、荊州水軍だけでなく十二万の青徐水軍もお主に預ける。しっかり調練し、余の期待を裏切るなよ」
曹操の話を聞いた蔡瑁はその場で跪き、拱手した手も震えた
「はい!きっと魏王の期待に応えるように尽力します!」
「よし、それじゃ君たちは下がって良いぞ。余は劉刺史と話があるのでな!」
「はい!」
曹操は手を振り払い趙雲以外の者たちが皆退場した
「劉琮、お主に命の危険が迫っている事を知っているか?」
全員が下がってから曹操は劉琮を見て聞いた
「どうしてですか魏王!?」
劉琮は驚いて慌てて曹操に聞いた
曹操は手招きをして劉琮を近くへ呼び寄せて小声で話をした
「蒯家と龐家がお主を荊州刺史として認めない、彼らが裏で余に話した。どうやらお主を荊州刺史の座から引きずり下ろそうとしているぞ?」
世間知らずの劉琮は両目を見開き、困りきった彼は広い会場で辺りを見渡し誰かの助言を求めたが今この場に居るのは曹操と趙雲しか居ない
もちろん趙雲が何かを助言するのはありえない
「魏…魏王!お助け下さい!下官は赴任して以来政務を怠った事がありません!彼らはどうしてこのような事を…」
「わからないのか?」
曹操はまるで年長者が後輩を労るように説明した
「お主を引きずり下ろせば彼らの言うことを聞く傀儡を擁立する事ができるだろう?つまり彼らからすれば蔡家の地位を妬んでいる」
「間違いありません…きっと仰る通りです!」
劉琮は恐慌した顔で首を縦に何度も振った
「お助け下さい魏王!お助け下さい!」
「こうしよう、今の荊州は危険がいっぱいあるから一先ず許昌へ避難に行け。安心せい、荊州刺史の地位はお主だけの物だ。余が逆臣を排除してから荊州をお主に返そう!」
「あっ、ありがとうございます…」
いくら間抜けでも曹操の話は読めて来た、これは明らかに自分を許昌で軟禁する動きだ!
しかし曹操がそう言うなら劉琮は反論できる力を持っていない
そこで劉琮は初めて曹操の陰険さに気づいた
曹操は立ち上がって劉琮の横を通り過ぎてその背後に立ち止まった
「許昌は王都であるから規律も多い、お主は未だ若くそれに対応できないだろう。万が一そこを弱みにされたら困るだろう?お主が許昌で安全に過ごせるように蔡氏を呼べ、余が直々に許昌の規律を教える。大人ならなんの心配もないだろう」
なんて事だ…僕を荊州から追い出すだけでは飽き足らず母ちゃんを抱こうとしている…!
劉琮の目には恐怖と憎しみの色が混ざり合った
「ほらっ、何をぼさっとしている!早く案内しろ、蔡氏を会わせろ!」
うわ〜、子寂がああなったのは絶対魏王の影響を受けたからだ…
曹操の後ろに立つ趙雲は相変わらず冷静な顔をしているが内心はドン引きしていた
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