二百三十九話 関中の課題
大軍出征の日、曹操はもちろん自ら典黙たちの見送りに行った
典黙は銀色の鎧を纏い、伏皇后からもらった蚕糸の肩掛けを身に付けて少し儒将のようにも見えた
「この度関中へ向かってからいつ帰って来る予定だ?」
曹操が馬の手網を持って歩く典黙に質問をした
「用事自体は二ヶ月もあれば済みます、帰って来るのが三ヶ月後ですね。魏王はいつ荊州へ向かうのでしょうか?」
「三日後に決めた、関中の天気は劣悪だ、体を大事にせい」
前日に未だ話したい事がたくさんあると思った曹操がいざ典黙の出発を前にしたら何を言えばいいのか分からなくなった
「名簿に書かれた人はあと二人揃ってない、一人が南陽、一人が長沙に居るとわかった。余が荊州に行ってから彼らに伝えておく」
しばらく沈黙の後何かを思い出したかのように話した
「お手数お掛けします…魏王、ここまでで良いですよもう行きます」
別れを惜しむ曹操と違って典黙は離別の重い空気が苦手だったので馬に飛び乗った
曹操は城門の下に立って典黙の後ろ姿をしばらく見守った
「魏王、風が強くなって来ました。行きましょう」
曹操はため息をついてから郭嘉と共に城内へ戻った
典黙が三万の精鋭部隊を連れて許昌から出発した後、情報がすぐに関中まで届いた
天子の勅令は名目上関中の安撫だったが、その真意に気づかない人は誰一人居なかった
敵同士になっていた李傕と郭汜は再び同じ席に座り、対策を考えていた
長安の将軍府、李傕側には息子の李式と甥っ子の胡封、郭汜側には配下の王方と李蒙がそれぞれ背後に立っていた。
「賈文和の言う通りだ、我々が病に伏したと称しても曹操に通じない。朝廷はやはり討伐軍を向かわせた」
郭汜が先に口を開いた
「今の状況から見れば、我々は力を合わせなければ死あるのみ。何か考えがあれば話してくれ」
「許昌へ行くしかないのか…」
李傕は何も思いつかず、ため息をついた
「朝廷が軍を向かわせたところで主公は引き続き仮病をしても良いではないか?城門を閉ざしておけば朝廷軍も入れません。長安城を強攻で落とせると思えません」
隣の王方が助言した
李傕は王方を一目見て冷笑した
「王将軍は自分の縄張りから出た事がないからまるで井の中の蛙だ、世間知らずにも程がある。朝廷軍の統率者を誰だと思う?あの典黙だぞ」
ここ数年では李傕と郭汜の両者は敵対し続けたので当然お互いを嫌っていた
王方も言われてムカついた
「典黙がどうした?三頭六臂なのか?それとも鬼神を使役できるのか?普通の人間なら怖くないだろう!李将軍は美味しいものでお腹の肉が溜まって馬に跨るのもできないのか?」
「おい!父上に対する侮辱は許さないぞ!」
李式が怒りを露にした
「殺り合うか小僧!」
李蒙も一歩前へ出て手を腰の剣に伸ばした
「どっちも黙れ!」
郭汜は机を叩き、一喝して彼らを黙らせた
李傕も手を挙げ李式と胡封を退かせた
五六年に渡る戦いを経て、両勢力は既に相容れない。
この仲の悪さは単に一言の"力を合わせよう"では解決できない
場が静まり返ったのを見て郭汜が再び口を開いた
「義凛は知らないだろうか、典黙は曹操の腹心謀士。曹操はかつて彼の事を"一人で百万の軍勢より勝る"と豪語した。徐州を落としたのも、袁術を破滅させたのも、劉備と呂布を負かしたのも、北国を手にできたのも全て彼の傑作だ。巷では彼が六丁六甲の妖術が使える噂まで流れてる。そんな彼がここ長安城を強攻するなら我々が力を合わせた五万の兵力など太刀打ちできない。戦う事は最初から考えない方が良いだろう」
「曹操がこの度兵を向かわせたという事は、やはり三秦要地を支配下に置くつもりだろう」
李蒙は舌打ちした
「なら大人しく投降する以外に道はないのか?」
胡封がそう言うと場が再び静まり返った
「じゃ、我々は三秦要地を差し出して西涼に戻るのはどうだろう?」
典黙に勝てないと黙認した状況で李式が別の打開策を提案した
「もう帰れない、今の西涼は馬騰と韓遂が完全に掌握した。彼奴らの下に着くくらいなら曹操の下に着いた方がマシだ」
郭汜はこの将軍府を見渡して名残惜しく思った
「ここ数年どれだけの心血を注いだ…いきなり差し出すのは実に惜しい!」
この一声の感嘆こそ李傕と郭汜の本音である
曹操の下に着く事が正しい選択だとわからない訳ではない
しかし長年主として割拠していた彼らは再び人に仕える事を嫌に思った
それに郭汜の言う通り、関中で勢力を固めるのに彼らは少なからずの努力をした
董卓が権力を振りかざして以来関中の百姓たちは苦しい生活を続けていた
大漢の内乱に河套平原から匈奴の略奪。
関中に住む百姓たちは逃げられる者だけ逃げ、逃げられない者たちは荒れ果てた土地を耕すも収穫は雀の涙程度だった
なので郭汜たちの収入源は二つに絞られた
一つは皇族や貴族の墓荒らし、もう一つは西涼から馬を買取中原へ売る差額だった
最も苦しい時期を乗り越えて支配を何とか磐石なものにした直後に勅令が届くのは確かに納得し難い事だ、悔しく思うのも無理はない
「一つ案がある、若しかしたら今回の危機を救えるかもしれません!」
重い空気の中で胡封が口を開いた
「城門を開いて投降するふりで典黙たちを城内に入れ、酒宴で酔わせてから…」
胡封は最後まで言わずに右手を手刀にして首あたりを切る動きをした
「頭でもイカれたのかお前!」
李傕と郭汜がほぼ同時に声を荒らげた
これには胡封はビックリして数歩後ずさりした
李傕は追い討ちをかけるように話を続けた
「曹操は典黙を自分の息子よりも大事にしてるぞ!徐州大戦の時は典黙のために何の準備もせずに彭城を攻めようとした!彼を手にかけるなど命が幾つあっても足りない!三人の兄貴を前にしたらあの呂布ですら尻尾を巻いて逃げる程だぞ!」
郭汜も冷笑して胡封を見た
「ふんっ、闇討ちか?覚悟はできてるんだろうな?九族皆殺しにされてから先祖のお墓すら掘り起こされるぞ、間抜け!」
二人にこっぴどく叱られた胡封はやっと自分の愚かさに気付いて額から豆粒大の汗を滲みだした
「もう良い、これも天意だろう。稚然、長い間戦ってきたがここでお互い手を引いて朝廷にこうべを垂れよう」
郭汜は諦めた風に話した
「そうだな、あの董卓すら昔は至高の権力を手にしたが結果は塚の中の枯骨と化した。我々が帰順して良い結果を迎えられるならあれよりはマシだ」
李傕も頷いて同意した
「決まりだ、お互い各自準備をして典黙の到着を待とう」
郭汜が言い終わると李傕も大きく頷いてから出口へ向かった
このような結果に対して二人は明らかに満足しなかったが現実を受け入れるしかない
当時賈詡の勧告を受けても仮病をしたのは曹操の南方戦線が長引くと踏んだからだ
南方戦線が長引けば長引くほど自分たちも自由で居られた
しかし典黙が向かって来ると言うなら話は全くの別物になる、今は自由よりも命を優先するしかない
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