二百三十八話 伏寿の送別

出発する予定の兵力は出揃った

その総勢三万、内訳は歩兵二万二千、騎兵八千


そしてこの八千の騎兵は曹操軍の最も精鋭な部隊、五千の虎賁営と三千の龍驤営


そして陥陣営は編成外で、名目上はあくまで典黙の護衛である


随軍武将も典韋、許褚、高順、張遼ととても豪華な面々だった。


この圧倒的な力で李傕と郭汜を片付けるくらい、難易度が無いに等しい


出発する前日の夜、麋貞は典黙のために長期保存が効く点心を用意していた

典黙はいつも通りに庭にある揺り椅子にぐったりして夜風を楽しんでいた


出発すれば数ヶ月の間はむさ苦しい軍旅生活。

正直行きたくない、しかし彼が行かなければ曹操は関中を後回しにしてしまう


いつも曹操に良くして貰えるから偶には勤勉になって恩返しをするしかない

怠惰の化身である典黙は自分の中のやる気を探していた


暫くボーとしていると外から門を叩く音が聞こえて来た

典黙が門を開けると心臓が飛び出そうになった

「皇后様!もう来ないのかと思ったよ!」


「シーっ!」

素朴な格好で変装しているが高貴な品性は隠せない、そして彼女の手には錦箱を一つ持っていた


典黙は急いで伏皇后を部屋に通して空かさず扉を閉めた


「皇后様ひどーい、あれからどれだけの月日が経ったと思います?明日僕が出征するとわかって来たんですか?」

典黙はとても上機嫌で伏皇后の近くへグイグイと近づいた


伏皇后は少し後退りして距離を取った

「今がどんな状況か分かるでしょう?私が出たくても後宮から出れませんよ…って、何の話よ!」


「それはそうと、皇后様、それ何ですか?」

典黙は近くに置かれた錦箱がとても気になった


伏皇后はため息をついて錦箱を開いて、中から純白の肩掛けを取り出した

「西涼関中は気候は寒暖の差が激しいと聞く。この肩掛けは蚕糸の織物、夏は涼しく冬は暖かい…大変な旅になるから気をつけて!」


「ありがとうございます!」


典黙はお辞儀と見せかけて伏皇后の胸に顔を埋めようとしたが伏皇后はその攻撃を躱した


「皇后様が着せてください、合うかどうか確かめましょう」

両腕を広げた典黙を見て、伏皇后は少し迷ったが、やがては肩掛けを彼に付けた


紐を結ぶ時、二人の距離が僅か二寸

お互い息の感触が分かる状況で典黙は遂に自分欲に負け、広げていた両腕が罠のように伏皇后を捉えた


伏皇后も無意識的に離れようと暴れたが典黙の腕から逃げられる事はなかった

「やめ…!不敬よ!私は今夜長く居られません」


「なら、何時まで居られますか?」


「今夜は三更まで伏府へ戻らなければいけません」


それなら速く言えばよかったのに!

典黙はホッとして、そのまま伏皇后の耳たぶをかじって話した

「未だ時間はある、僕も生きて帰って来る保証はないので今日はゆっくり過ごしましょう」


「ダメと言ったら…遅くても四更には伏府に戻らないと…」


典黙もそれ以上何も言わずにお姫様抱っこで伏皇后を抱き上げた


月に照らされた二人は互いに見詰め合い、伏皇后が先に視線を逸らした


「皇后様、後宮で僕の事を思い出したりしますか?」


「そんな暇がないわ…」


「へぇー、ただ肩掛けを贈るために来たとは信じられませんね」

典黙はニヤケながら伏皇后を見詰め続けた

「ここへ来れば何をされるかわからない訳でもないでしょう?」


「もうそれ以上何も言わないで…」


伏皇后がその質問に答えるはずもない。

実際の所、彼女も後宮から抜け出す事自体が良くないと思っていた

しかし昼間に考えた結論も夜になれば効果が無くなり、気がついたら既に典府の前に立っていた


結局伏皇后もただの少女である

少なくとも今のような、無数の蟻に呑み込まれる感覚を今まで味わう事がなかった


「皇后様、いい匂いがする!」

「ここではその呼び方をやめてと言ったはず…!」


寝床の帳が下ろされ、典黙は前回とは違う感覚を楽しんだ


前回は取引であったため、伏皇后は内心嫌な思いを堪えていたが今回は違う

自らの意思で典黙に会いに来ただけあってその体も前回より遥かに正直になっていた


春宵一刻千金に値する、典黙は既に数万金を獲得した思いをした


「皇后様、一つお願いを聞いてもらえますか?」

典黙は腕の中の伏皇后を見て聞いた


「話してご覧」


「次来る時鳳袍を着て来てよ」


伏皇后は典黙から目を逸らした

「またそんな訳の分からない事を…この事を他の人に知られてはいけません!でなければ…ちょっと、急に動かないでっ…!」


寝床が再び軋み、典黙は伏皇后のような高嶺の花を征服した達成感に包まれた


皇后の身分で典府に寝泊まりするのは不可能、彼女は結局五更時に寝床から這い上がり身支度した


しかし準備を整えても彼女はすぐにはそこから離れず、寝床の縁に腰を下ろして典黙を見た

「もしいつか、この事が露見すれば私は命を落とす事になるでしょう…君も、巻き込まれるかもしれない…怖くない?」


禁忌とは一度冒せばもう止められない

しかし内心の畏れを危惧して彼女はこの質問を典黙にした


彼女からすれば天子である劉協にこの事がバレれば命を落とすのは当然の結果


しかし典黙は違った、仮にこの事が曹操にバレても曹操はきっと笑いながら

"どうだ?余の正しさが証明された!"

と言うだろう


そして天子である劉協を典黙は最初から空気としか思わなかった


そんな事を思っても口に出せないので、典黙は優しく伏皇后の手を握り慰めた

「皇后様、僕はこの秘密を人には決して言わない!そしてもう一つ信じて欲しい事がある!」


「うん」


「僕の命が消えるまでこの世で皇后様を傷付けられる人は居ません!陛下でも魏王でも例外ではない!」


男が命を賭けて自分を守ると知れば女の子は幸せに思える、伏皇后も例外ではなかった


「もう行かなければ…」

彼女は微笑んで頷いた後出口から外へ出て、典黙の心をも連れ去った


「皇后様!僕の帰りを待っててくださいね!」


典黙は布団に残された残り香を嗅ぎながら悶えた

「もうこんなの耐えられない!!絶対家に置く!」


"次会う時は鳳袍で"この約束は後に果たされたが

それと同時にとんでもない事態が起きる事は二人は未だ知る由もない…

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