二百三十五話 兄弟の恋路
伏皇后は夜風に靡く髪を耳にかけてからもう一度典黙に振り返った
今度は伏皇后が自ら典黙に目を合わせ、その視線からは離別の名残惜しさが少し見えた
「あなたはいつも訳の分からない事を口にするが性根は悪くないのがわかるわ...これからも曹操と戦場に立つ事もあるでしょう?お気をつけて」
「皇后様、僕から一つ話して置きたい事があります」
伏皇后は何も言わずに頷いて典黙の続きを待った
「これからこのような事に首を突っ込まないで欲しい...約束できますか?」
典黙の口振りはすごく優しいものだった
伏皇后はため息をついて首を振った
「今回の叛乱騒動で陛下に忠を尽くす人たちは皆粛清された、私に出来る事はもうありません。それに...」
「それに?」
「それに今の陛下は私の事ももう信じておりません」
伏皇后の口振りは少し残念そうだった
多分前回劉備が許昌に向かう邪魔をしない約束を守らなかったせいだろうか
典黙はもちろんその話題を広げるつもりはなかった
「えっと、次はいつ会えるんですか?」
「御林軍が入れ替わると、あなたも先言ったじゃないか?私も今まで通り後宮を出入りする事が不可能よ」
伏皇后は少し俯いて話した
「僕から魏王にお願いしてみますよ!それなら...」
「この事を他の人に知られる訳にはいけないでしょう!」
典黙の話が途中で遮られ、伏皇后は典黙を一目睨んだ
「でも僕が凄く会いたくなったらどうすれば良いですか!」
「また訳の分からない事を...!この事自体綱常倫理に反するよ!あなたも天下に名を轟かせる麒麟才子、どんな女子だろうと手に入るでしょう?それなのに何故私に拘って時間を無駄にする?」
伏皇后は少し赤くなった顔をそっぽ向いた
「僕は前にも言いました、天下の女子がどれだけ居ようと皇后様はお一人だけです」
今回の騒動で典黙を不快に思わなくなったのか、伏皇后は典黙の軽みの発言を聞いても少し微笑んだ
「私を皇后と知っての狼藉ね?ただのスケベにしか思えない...」
言い終わると伏皇后は振り向いて歩き出した
「私は前みたいに後宮を自由に出入りできなくなったと言っても、伏家に戻ったりするのは未だ自由よ...」
伏皇后は蚊のような細い声で言い終わると小走りで走り去った
伏寿の話で心を盗まれた典黙そのまま暫く立ち尽くした
次の日、許昌城長平条坊の路地裏で紫色の絹漢服を見に纏った少女が一人糖葫蘆を手に歩いていた
少女は凝脂の肌に端麗な顔立ちをしていて、見るからにその歳は十四五。
すると突然黒ずくめの大男がその子の前に現れ、黒布で覆面で顔つきが見えないが両目は凶悪その物だった
少女は青ざめた顔で数歩後ずさり、恐怖のあまりに全身プルプル震えていた
「ひぇ...なんっ、なんですか...」
「アッハッハッハッ!お嬢ちゃんそう怖がるな!俺は金品が欲しいわけではない!ちょっと遊んでくれよ!」
「そこまでだ!白昼堂々このような卑劣な事はこの典韋が看過できない!」
後ろから典韋も飛び出し、少女を庇うように立った
「お嬢ちゃん、心配する事はない!この典韋がいれば大丈夫だ!」
黒ずくめの大男は数歩後ずさりして典韋を指した
「お前はあの魏王一の猛将許褚と名を並ぶ典韋か!」
「はぁ?俺の方が強いに決まってる!」
典韋は少しイラッとした
「そう?許家村で馬から落とされたと聞いたぜ?」
おい、台本通りにやれよ!
典韋はそう思いながら睨みつけた
「典将軍、許将軍、お二人はここで何をしているんですか?」
二人は呆然としながら少女の方に視線を集めた
「お二人を王府で何回かお見かけしました、許将軍は覆面していますが声でわかりました」
少女はそう言いながらニコッと笑った
事が露見して、許褚は黒布を外して典韋に投げつけた
「だから嫌だったんだ!俺の名に傷が着く!」
そう言いながら走り去った
「アッハハハ...夏侯お嬢ちゃん、悪気があった訳じゃない。からかっただけだ」
目の前に居る少女こそ叛乱騒動の日典韋が王府で一目惚れした者、夏侯涓である
後に夏侯姫とも呼ばれ、張飛に拉致られお嫁さんにされた夏侯淵の愛娘である。
「いやー、あの...甘味が美味しい食事処があるが一緒に行く?」
ここ数日典韋は典黙に言われた通り、夏侯涓について調べた
そして甘味が好きな夏侯涓はすぐ頷いて典韋に付いて行った
食事処に着くと典韋は礼儀正しく夏侯涓に座らせた
「夏侯お嬢ちゃん、先ずは羊の吸い物で身体を温めようか?」
「要らない、甘味が...」
「よしっわかった!おい店員さん、こちらのお嬢ちゃんに温かいお吸い物を!」
「はい!」
えーっ...甘味のはずじゃ...
要らないと言われたら欲しいと思え!弟がそう言ったから間違いない!
夏侯涓はとても混乱したが典韋は典黙を盲信した
「旦那!今日は羊の丸焼きもありますよ!美味しくて堪らない!お一つ如何ですか!」
「要らない...」
夏侯涓は急いで手を振った
「じゃ丸焼きもくれ!」
「はい!」
夏侯涓は更に混乱したが、典韋の目からは自分の愛護が伝わったように見えた
夏侯涓の出身は貧困だったのでその性格もとても温和だった
典韋が羊の丸焼きを平らげたのを見届けてからやっと念願の甘味に手が届いた
二人とも満足してから典韋は夏侯涓を連れて賑やかな提灯坊へ向かった
夏侯涓は提灯坊でたくさん笑い、典韋もはしゃいだ
そして夕方、典韋は夏侯涓を家まで送り届いても内心はずっとドキドキしていた
「夏侯お嬢ちゃん、あのさぁ...今日夕飯の後秋月街に行く?面白い催しがあるみたいだよ!」
「いいえ、やめておくよ。夜は出かけるなと父上がうるさいから...」
「よしっわかった!じゃ今夜戌の時に迎えに来る!」
典韋は喜んで走り去ったが一人で残された夏侯涓は風の中で混乱していた
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