二百二十一話 始まりに過ぎない

酒宴が終わった頃、既に時刻が三更になっていた

典黙は欠伸をして風呂場へ向かった


すると後ろから小さな手が典黙に抱きついた

「これだけ待たせるなんて旦那様ひどーい!」


「ほらっ、もう寝たのかと思ったよ…」

典黙が振り向くと麋貞は全く眠気がなく期待に満ち溢れた目をしていた


「ふ〜ん、これからお風呂?お背中流しますよ」

麋貞の輝く目に典黙は少し寒気を感じ体がビクッとなった


麋貞に連れられて風呂場へ行くと桶の中には既にお湯が張られ、花びらが散らされていた


漢服を脱ぎ去った典黙は桶の中に浸かり、小さな手が自分の背中を擦るのを心地よく思っていた


しばらく続いたあと麋貞は顔を近づけて来て桶の中を見た

「疲れちゃったの?」


別に恥ずかしいことはない、典黙は正直に頷いた


「少し待っててね」


桃色の漢服を着ていた麋貞は部屋に戻り、再び出てきた時には蝉の薄羽のような翠の絹の薄着に着替えた


薄暗い灯台の光でも薄着は全てを隠しきれない、見えそうで見えないように見えて実は少しだけ見えてしまう景色が一瞬で典黙の眠気を飛ばした


麋貞は恥ずかしそうに俯いたまま桶に近づいた

終いには桶の中へ入り、典黙の前で再び立ち上がった。

薄着が濡れ、肌にピッタリと張り付き、本来薄ら見えていた景色がが一気に見通せた

本来そこまで発育に恵まれなかった未熟な果実も今は完璧な曲線美を見せた


アイヤー!この小娘、どこでこんな事を覚えて来た!でも好き!これからもっとやれ!


麋貞は少しずつ近付いて来て典黙の耳たぶを甘噛みした

「旦那様、少しは元気になった?」


典黙の呼吸が乱れ、眠気など皆無になり、ニヤニヤしながら麋貞を見た

「君ね、いつも驚かせてくれる…」


しぶきが飛び、組み手開始


典黙の妻妾の中で麋貞の美しさは一番ではないが、自分を楽しませてくれるのは一番上手だった


楽しい爛れた生活を送る典黙に比べ、劉備の方は"少しだけ"大変だった

張機の医術で熱は下がったものの体は衰弱したままだった


「私は長年医官をやってきたがこれほどの傷口を焼かれてもて生きてる人を見るのは初めてだ、皇叔の気力は見上げるものですな…」

これほど大きな切創が焼かれたのを見た張機感心していた


しかし南陽では張機と関羽張飛以外に劉琦を含め誰も劉備の生死を気にしなかった


劉琦も間抜けではない、本来は劉備に荊州の奪還を協力してもらう予定でいたが三度の敗北を見てから彼も蔡瑁の言う"疫病神"の説に同意し始めた


劉琦は一度も劉備の見舞いに顔を出さなかった上、裏では荊州兵を無駄に消耗する事を責めていた


五万軍で北伐する事を良しとしても、一戦敗れて兵力が三万残るうちに撤退する命令も無視した

その結果はなんだ?輜重物資を届けても生き残りは僅か数十人…


劉備を南陽に置いてもいいが、もうその言うことには耳を貸さないと劉琦は心に決めた


これでも皇叔の肩書き、関羽張飛の勇猛さ、諸葛亮の才能に免じた結果だった


病床に横たわる劉備は両目を開いて机にうつ伏せで寝ている関羽と張飛を見て、二人はずっと自分の看病をしていたのがわかった。


起き上がろうとして、いつも通りに両手で寝床を押そうとしたが左肩から下の感覚が無い事に気づいた


がらんと空っぽの左袖を見て涙が溢れ出した


劉備はよく泣くが自分のために泣く事はあまりなかった

しかし今度ばかりはこれから片腕が永遠に離れたのを思えば泣かずにはいられなかった


四十歳を過ぎた独身男にとって左腕を無くすのは確かに辛い事だろう…


咽び泣きが関羽と張飛を起こした、二人は急いで駆けつけるが何と声を掛ければいいかわからなかった

いつもベラベラよく喋る張飛もこの時言葉を失い、三兄弟はただ黙って涙を六行流した


「主公…」

諸葛亮が入口に立ち、劉備が目を覚ましたのを見て近づいた


「孔明、典黙が南陽に進軍したか?」

顔色が真っ青の劉備が聞いた


「典黙軍は許昌へ戻りました、勝ちはしたが相手も相当消耗していますので休養が必要みたいです」

諸葛亮は劉備を慰めた


「孔明、これから私たちはどうすれば良いですか?」


「ご安心ください、北国はしばらく安定できないので半年以内に曹操に責められる心配はありません。私達もこれから英気を養い、南陽と江夏の民と軍政に力を入れ、兵力が集まれば長沙を攻めましょう!長沙が手に入れば兵力、食料も大きく増えるのでそこから再び立ち上がりましょう!」


諸葛亮は嘘をついた、この状況下で劉備に真実を伝えるのはできなかったから

ここ数日劉琦の対応を見れば自分たちがもう信用されなくなった事はわかる


全ての計画を劉琦中心に建てることができない、つまり劉備たちが荊州で何かを成す事はもうできない


「あの時先生の言葉を聞き入れればこうなる事は無かった…私の責任だ、全ては私の責任だ…」

諸葛亮の慰めも効果なし、劉備は泣き続けていた


「ここまで来れば悲しんでも仕方ありません。主公は一刻も早く立ち直り、公子との仲を取り戻す事に専念してください。そこから曹操を打ち破る大業を計りましょう!」


自信を無くさない諸葛亮を見て、劉備は自嘲した笑いを浮かべた

「孔明、ここ数年私は一度も勝てなかった、今に至っては全てを失った。それでもあなたは大業の事を考えているのか?その心の強さに私は感服した」


諸葛亮は拱手し、劉備を励ました

「主公、全ての大業は絶体絶命の窮地に陥てから成せるもの!この状況は私たちにとって始まりに過ぎません、少なくとも今の状況より悪い事が起きない!私たちはこの首以外に失う物はもう何もないのですよ!言い換えればこれから起きる事は全てが収穫です!」


諸葛亮の話に劉備は心を動かされた

「全ての大業は絶体絶命の窮地に陥てから成せるもの、か…」

未だ始まりに過ぎない!

鼓舞された劉備は再び心を固くした、片腕を無くした辛さもまるで半減した


内心諸葛亮を嫌う関羽と張飛もその言葉に思わず頷いた

「孔明の言う通りだ!もうこれ以上悪い事は起きないだろう!兄者、これからは這い上がるだけだ!」


そこで劉琦が入って来た

「起きましたか皇叔、漢昇将軍が二万の捕虜を連れて帰還しました。迎えに行くつもりですが、皇叔の容態が良くないならここで待ちますか?」

開口一番は劉備の心配ではなく黄忠の帰りを伝えるだけのものだった


「漢昇将軍が?行きましょう!」

劉備は泣くのをやめて笑った

「良い報せです!叶県城での戦いで彼の殿が無ければ我々は帰って来れませんでした!早速迎えに行きましょう!二万の荊州男児を連れてこられるのは天の思し召しだ!」

そう言いながら劉備は立ち上がろうとしたが、片腕の平衡感覚には未だ慣れず、今にも倒れそうだった


関羽の支えを頼り、劉備は簡単な身支度を済ませ劉琦と共に城外へ向かった


黄忠との再会は果たして収穫になるのか…

いい事を言ったが諸葛亮自身は誰よりも不安に思っていた


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