二百二十話 荀彧の道

典黙は許昌に凱旋した、出征する時には四万あった大軍も残り三万前後


戦争なら犠牲は付き物、劉備軍との戦闘が全て優勢に終わってもそこは変わらない


しかし全てが新兵でありながら、五万の敵軍を撃退した代償が一万なら圧倒的な勝利と言える


もちろんそれらの功労は典黙だけではなく、指揮をした武将たちの物でもあった。


劉協は当然出迎えに来なかった

前回の出迎えも曹操の意地悪だったので彼は今でも根に持っている


曹操も北国から帰ってないので出迎えの役目は留守番の荀彧が引き受けた


既に祝いの宴が準備され、兵士たちは許昌城外にある軍営で、将官たちは城内の典府で勝利を祝った


皆楽しく時を過ごし、趙雲と張遼は初めて許昌に来る陳到と李厳に酒を勧めた


二人は最初こそ堅苦しかったが盃を交わせば武将はすぐ仲良くなれる


典黙は何故か少し寂しげにしていた、許昌に帰っても曹操が居なく、子龍以外の兄さんたちも不在。


賑やかな雰囲気の中に何かが足りない気持ちを感じた典黙は数杯呑んだ後で庭の揺り椅子にぐったりした


「子寂、どうして一人で外へ?何か考え事か?」

荀彧も酒を二壺持って近くの石段に腰を下ろした


「いいえ、外の空気を吸いに」

典黙は荀彧を見て答えた

「文若は?」


「私も同じだ、あと少し君とお喋りをしようと思ってね」

荀彧は満面の笑みを浮かべて機嫌良さそうだった


彼は酒を一壺典黙に渡しながら話した

「この度は再び麒麟の手腕を見せてもらったよ、諸葛亮との戦いお見事!しかし君の最も高明なところはその策ではなかった」


典黙は眉を跳ねさせた

「荊州の捕虜を解放した事?」


荀彧は頷いて手に持った壺で典黙の壺とぶつけてから大きく一口呑んだ

「うん!捕虜を解放した事で劉備が荊州には居れなくなる。そして捕虜たちが帰れば必ず戦場での出来事を話す、噂が広がれば誰もが肝を冷やして朝廷に楯突く人が居なくなる。我々は戦わずして荊州の九郡を収められる」


荀彧も天下を救う事を心に決めた義士、彼もできれば戦争をしたくなかった

そして天下の財布である荊州を戦わずして収められるなら再建などの問題も出さずに済む


「だといいね」

典黙も少し笑った


「そういえば数日前に丞相から手紙が来たぞ、既に冀州の大半を収め、民の安撫が終わればそこから青州、并州、幽州へ同時に兵を出す予定だ」


青州と并州の軍閥と豪族は少ない、最も難しいのは幽州。

幽州は中原から遠く離れていて、民風も剽悍である

朝廷の手が届かないので、ただの豪族でも県城を根城に旗を上げたりする

中でも少し頭のいい豪族は朝廷へ従順なフリをして年貢を納めて討伐を免れる

遼東の公孫康がいい例


彼らは全てを朝廷に委ねないのも頷ける、万が一朝廷が他の太守を派遣すればその地の均衡が崩れてしまうから


なので袁紹家に勝ってもその土地を完全掌握するまでは少なくともあと数年は必要


典黙が何も言わないのを見た荀彧が話を続けた

「丞相が自らの安撫は冀州だけだ、他の州は地方の文官に任せるそうだ。あと二ヶ月もすれば帰って来る、丞相も君に速く会いたいそうだ」


典黙の目尻がピクっと動いた

曹操が許昌に戻れば荊州が簡単に手に入る事を自覚するだろう

歴史が変わっても人の野心は変わらない、このままいけば荀彧の結末が早まる事になる


典黙は荀彧との交流はそれほど多くないが、できれば彼に自害して欲しくない


目の前の穎川大才を見て、典黙は彼の道を変えたいと思った


「文若、僕たちが知り合ってどのくらい経った?」


「四年くらいかと」

荀彧は少し笑っていた

「しかし私たちの交流はあまり多くなかった、前回の戸籍改革以外に君が訪ねてくる事もなかった。」

そう言うと荀彧は少し昔の事を思い出したかのように思いに深けた

「思えば最初君と出会った時は炊事係だった君が恐ろしかった、いつかは自分の派閥を作るのではないかと警戒もした。しかし君と来たらそんな事に全く興味を示さなかった、ただ百姓のために農具を発明したり戸籍改革したり。そんな君の姿を見れば警戒していた自分を恥ずかしく思ったよ、ハハハハ…」


「四年、四年か…時間が経つの速いね…少し分からない事があって、君に聞きたい」

典黙も荀彧の思い出話に少し恍惚していた


「アッハハハ…麒麟才子にも分からない事があるのか?しかも私に聞くのは恐縮だ!」


「文若、丞相は既に七州の地を収め、もうすぐ荊州も手に入れるでしょう。あと数年もすれば他の州や郡も必ず統一する…そうなればこの天下はどうなると思う?」

典黙は荀彧のからかいを気にせず、聞いた


「もちろん大漢王朝の国号が輝き、天下も太平になり、子寂のような社稷の臣も必ず歴史に名を刻むでしょう!」


「しかし、陛下は長年施政の経験がなく、心配なのは…」


「大丈夫さ!」

荀彧は手を振り、話を続けた

「朝堂では社稷の臣が補佐すれば統一されたこの国は再び繁栄を取り戻すでしょう!」


「そうでしょうか?でしたら桓と霊の時期は朝堂内に逆臣しか居ないという事ですか?」

典黙は少し頷いて試しに聞いてみた


荀彧は眉間に皺を寄せ、笑顔の代わりに真剣な表情を浮かべた

「子寂、君は何が言いたい…?」


「いやっ…どうすればこの天下を安寧のまま持続する事ができるのかを考えただけだ」


人はそれぞれ成長の過程も受けた教育も認識も違う

荀彧のような人は幼い頃から受けた教育は忠義が第一

典黙は遠回しに討論するしかない


もし典黙の説得が功を奏したなら万々歳、もしダメなら…典黙は恐らくお葬式の時には女の子が多い席を選ぶだろう


荀彧はすぐには答えず、何かを考え込んでいた

彼も典黙の話が遠回しであると気づいて、しばらくの沈黙が過ぎ答えを出した

「君主と臣の関係を守るのは国家の礼儀、綱常倫理が失えば国は更に乱れるだろう!」


「商周は礼を重んじる、春秋は義を重んじる。しかしそれら全て人民を洗脳する物で、意味が無い。でなければ朝代が変わったりしない」


荀彧は少し髭を摩り、反論の言葉を思いつかなかった


「文若、僕から一言言わせてもらうよ。君が聞く耳を持つなら聞き入れて欲しいが、そうでなければ酒の席の戯言だと思ってもらって結構」


「ご教授お願いします」

荀彧は拱手して答えた


「忠義とは本来君主を盲目に忠を尽くすのではなく、その君主が天下のため百姓のための施政を行えるように助力する事です。つまり本当の忠とは天下百姓のためであるべきです。天下の百姓が満足に暮らしていけば、その君主は誰であろうとその人に忠を尽くすべきです」


このような重民軽君の思想は戦国時代からあった、代表者は呂不韋

彼の目的はさておき、このような前衛的な思想は確かに儒教横行の時代では広まれない


当然、儒教の教育を受けて来た荀彧は目を見開きしばらく典黙を見ていた

「君は奉孝と同じで並外れた頭脳を持つとばかり思っていたが、ここまで思想も通常の人を超越したとは思わなかった…このような大胆な発言は確かに酒の席での失言」


荀彧が立ち上がって場を離れようとした


「文若、君を思っているからこそ話したんだ」


荀彧は典黙の話を理解できなかった、少なくとも現時点では理解できなかった。


「子寂、情報量が多すぎる…しばらく考える時間が必要だ…」


荀彧は立ち去った、彼の後ろ姿が消えるまで見送った典黙は月を眺めた

「本当に考えてくれるなら良いけど…」

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