二百十九話 諦めた劉協

許昌の未央宮内、董貴妃の寝宮に居る劉協は目を見開き、口角がピクピクと痙攣していた

肉に食い込む程に拳を握りこみ、血が滲み出た

「敗けた!?バカな!」


通常なら大きい声を出せない彼だが今回ばかりは気持ちを抑え込められなかった


劉備の三度にわたる救出作戦が毎回あと少しの所で無惨に敗れ、特に今回典黙が手を出さないと約束していたのにこの結果を受け入れられない


董承は劉協に声を抑えて欲しいがその度胸もない、仕方なく今回の戦いの詳細を彼に伝えた


普通の人なら誰もが典黙の策に関心を持ち、董承も例外ではなかった


しかし怒りでプルプル震える劉協はそんな事どうでも良く思った


血走った目から涙が溢れそうになりながら、溢れたのは絶望だけだった


沈黙する劉協の横に居る董承と董貴妃も黙り込んだ


天に昇る龍のように逃げ出せると思ったのに待った結果がこれだった


幾度の失望を経験しても今回ばかりは心が締め付けられる痛みに襲われた


「ハッ、ハハッ、ハハハハハッ…劉備よ!三度目だぞ!何故いつも希望を見せながらそれを消す!どんな嫌がらせだ!」


劉協は狂ったかのように笑った、笑いながら大粒の涙を流した…


董貴妃も心配そうに近づき、優しくその背中を撫で下ろした


「陛下、皇叔も力の限りを尽くしました…それに片腕を切り落とされました」

董承は落胆しながら話した


「いいざまだ!」

劉協の無意識的な一言が董承親子を驚かせた


自分の失態に気づいた劉協は再び気の抜けた風船のようにグッタリした

「どうすれば良い…どうすれば良いのだ…」


董承はいつもこの様に聞かれれば笮融のように饒舌になっていたが、今回ばかりは何を言えばいいかわからなかった


陶謙が他界、劉備は逃げ、呂布はすぐ義父を作る、四世三公の袁家兄弟は一人が帝を名乗り、一人が討死…

残っている諸侯も皆大した力を持たない。

孫策は江東を占拠しているが水軍以外は歩兵しかない

西涼の馬騰と韓遂は力を付けているし羌族の中でも人望厚い、それに忠臣伏波将軍馬援の後裔であり反董卓連盟にも参加した。

これだけを見れば彼は漢室に忠心を持っているのがわかる。


しかし彼は劉協を救うつもりが全く無いに見えた、でなければ今頃は関中の乱戦を平定し三秦要地を占領したはずだ


劉璋?もっとあてにならない、長年年貢すらしない彼は日々娯楽にどっぷり浸かっているだけ


張魯は関中に兵馬を集めて益州に手を出そうとしているが、それも私怨。

それ以外の時は笮融よりも積極的に自分の宗教を広めている


この天下で劉協を救えるのは誰だ?誰も居ない…

董承は劉協を慰めるための嘘すら思い浮かばない


しばらくの沈黙が過ぎ、董承は悲しみのあまりに涙すらも出ない

「やはり…典黙しかありません」

仕方ない、典黙以外に接触する事すらできない


しかし劉協は当然この名前を聞きたくなかった劉備が三度敗れた内の二回が典黙の仕業、憎く思うの当たり前


劉協は鼻で笑い、目尻の涙を拭き取った


最初こそ東観令の役職では典黙が少なからず不満を持つと思っていたが実際はどうだ?


重宝されない部下に後方を全て預ける諸侯がどこに居る?

軍政の権限を全て預ける事は自分の命を預けると同じような行動だ

東観令…


ここ数年の辛い経験とこれから直面するであろう境遇を思うと劉協の内心は悲しみしか残らない

彼は自分が亡国の君主であると自覚した


涙を流し過ぎて枯らした目を開いたまま、劉協は立ち上がりフラフラしながら外へ向かった


「陛下!陛下!」

董承親子の呼び掛けも虚しく、劉協は外へ出て行った


「父上、本当にもう打つ手なしですか?」

董貴妃は涙を浮かべて聞いた


董承も誰も頼れないと知り、濁った瞳が覚悟した物へと変わった

「陛下にはもう私たち以外頼れる人が居なくなったかもな…私たちで何とかせねば!」


董承は背中を董貴妃に見せた

「私は漢室の俸禄を受け取る身として、皇恩を受ける身として奸賊逆党が国を盗む事を許せない」


「父上、どういう意味ですか?」

董貴妃は董承が何を言っているのか分からなかったが、物心が着く頃から今まで董承のこれほど悲愴感溢れる言葉を聞くのが初めてだった


劉協が董貴妃の寝宮から出たあと自室に戻ったのではなく、伏皇后の所へ向かった


「陛下、丁度良かったわ、蓮子粥を作ってもらいました。この暑い時に飲めばいくらか涼しめます」


劉協が入って来たのを見て、伏皇后はとても優しく気使ったが劉協の恍惚した雰囲気に気付かなかった


伏皇后は蓮子粥を劉協の前に持って行くと劉協は突然何かを思い出して、急に獰猛な表情を浮かべ

「おい!典黙を説得したと言ったではないか!なら何故劉備の行く手を阻んだ!何故だ!」


蓮子粥を持ったまま伏皇后は固まった、そのまましばらく劉協を見てからやっと我に返り

「陛下…典黙がまた…?」


伏皇后は懸命に首を横に振った、水から出た芙蓉のような顔は悔しさでいっぱいだった

「いいえ、有り得ません!彼はあの時…」


「何が有り得ないんだ!」


怒りを爆発させた劉協は伏皇后の持った蓮子粥を叩き落として再び手を振り上げた


「劉備は追い返されたよ!典黙も凱旋している!自分の…その目で確かめて見れば?!」


「そんな…嘘だなんて…説得に応じたはずなのに…」

伏皇后は避けようとしなかった、ただ落胆した顔で呟いた


挙がった手は振り下ろされなかった、劉協はただ恍惚したまま独り言を零した

「何故だ…何故、希望を見せてくれるのに掴ませてはくれない…朕は最初から知らない方が良かった…もう、操り人形でもいい…」


諦めた。

いつもなら臥薪嘗胆で自分を励み、秦王の境遇と自分を重ねて足掻く事を止めなかった彼は遂に諦めた。


劉協がここに来たのも怒りを発散するためだけだった

「朕の呼び付けが無ければ、朕の所へは来るな…その顔もう見たくない」


劉協の勅令を聞き入れる数少ない者の一人に対して、彼の勅令は絶縁だった


典黙…何故約束を無にした…会って説明を聞かなければ!

伏皇后は何も言わずに、典黙への反感が強まった

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