二百十八話 飴と鞭
「この大雨が無ければ末将も包囲網を薄く広げる事をしませんでした、突破されても追いつくと思いまして…先生、申し訳ない」
叶県城に報告をしに行った曹仁と夏侯淵はまるで悪い事をした子供のように典黙の前に立っていた
将軍府内、薄着の典黙は寝床に腰を掛けて灯台の芯を弄っていた
「仕方ないよ、天意なら誰もどうすることもできない。君たちは休んでから戻りなさい」
「…はい」
曹仁と夏侯淵が去った後典黙もため息をついた
さすが臥龍と言った所か…毒兵糧の策で誘い込めば確実に仕留められると思ったのに…
それなのに数日前から穎水を堰き止めて再び掘り返して門の役割を持たせた策を練ったか!
兵力の差が大きく離れた時に使えるのは確かに天の時と地の利くらいしかないが、諸葛亮のような必ず当たる天気予報の能力が無ければここまでの効果を発揮できない
あの状況では兄さんたちが束になっても劉備を捉えられなかったでしょうね
…寝よ
諸葛亮の策に感心したあと典黙はとても良く眠れた
次の朝空は晴れ渡り、典黙も眠たい目を擦りながら身支度をしていた
黄忠が李厳によって招かれたので、典黙は彼に会うために朝早くから捕虜営へ向かった
捕虜収容所に李厳と黄忠が緊張した風で並んで座っている、その様子を見ればこの二人は昨夜典黙ほど眠れなかったのがわかる。
典黙が笮融と曹昂を連れて入って来たのを見た二人は急いで立ち上がり拱手した
「あっ、いいよいいよ。座った方が良い」
典黙がそう言いながら座ろうとしたら笮融が自分の袖で典黙の椅子を拭った
「正方、確か前に僕は君が帰順すれば城内の六千捕虜を解放すると約束した。しかし状況が変わってしまって、捕虜がどんなに増えたかわかる?」
李厳と黄忠は首を横に振って、返す言葉も無かった
二人とも死を恐れないが、荊州の捕虜を考えるとどうしても不安になる
「子脩、統計は取ってあるか?」
「はい先生、全部で二万飛んで八百七十四人です」
曹昂の返事で典黙は思わず笑ってしまった
「いや〜二万超え?これを僕一人が解放すると決めて良いのかな?残しても食料が減るだけでいい事無しだね…困ったね、漢昇?」
黄忠はゆっくり立ち上がって藁にもすがる気持ちで話した
「己吾侯様、彼らを解放して頂ければ彼らは二度と朝廷に楯突かないと、この老骨が命で保証しましょう」
典黙は笑いながら黄忠を見詰めた
「君のこれからの処遇を決めるのも僕だ、つまり君の命は僕の物。僕の物で彼らを保証するつもりか?」
黄忠は愕然として椅子に座り落ちた
典黙の話を聞いた李厳も口を閉ざしたままで居た。
確かに、自分の命すら救えないのにそんな保証ができるか…
「軍師殿、彼らもただ命令を受けただけです、悪いのは劉備です。軍師殿が彼らを解放すれば荊州は皆必ず、軍師殿のご恩を肝に銘じます!」
「己吾侯様、良くお考え下さい。彼らを全て処刑すれば荊州は皆朝廷を憎み、いずれ丞相の兵が南下する時は皆必死に抵抗するでしょうか!」
「ナメるな!先生を脅迫しているつもりか?」
笮融は我慢できずに飛び出た
「先生の前では袁紹軍四十五万すら指を弾く間に消し飛ばした!このお方が自ら兵を率い南下すれば荊州の民が全て武装したところで何ができる?!」
典黙が笮融を抑えている間に横隣から曹昂も出て来た。
黄忠は深くため息をついて、とても落ち込んだ
反論する言葉がない、何故なら曹昂の言った事は全て事実だから。
以前の戦いなら李厳の言う通り劉備に才能がないとしか思えないが、今回諸葛亮の策が全て利用されるのを見て黄忠は典黙の実力をハッキリとわかった
目の前の少年がその気になれば荊州は瞬く間に火の海と化すだろう
しばらくの沈黙が過ぎ、黄忠は再び立ち上がって拱手した
「己吾侯様!侯様さえ良ければこの老骨の残り少ない人生を捧げます!捕虜たちの罪をこれからの武勲で帳消しにして頂きたい!これからは犬馬の労を尽くします!」
「末将もです!」
典黙の予想通り、捕虜たちのためならこの二人は帰順するつもりはある
典黙も最初から捕虜たちの命を奪うつもりは無かった。
この人たちも言ってしまえば読み書きすらできないので大義とかどうせ考えてないから、あくまで劉備に唆されただけだ。
しかし簡単に承諾する事もできない、この方法で帰順する人は少なからず不服を思っている
典黙が黙り込むのを見た黄忠が続けて話した
「先ず一つ、功労を献上します!」
「ほう?」
典黙は首を傾げて黄忠を見た
「どんな?」
「はい、公子が数回に渡って朝廷に楯突いたのは劉備の唆しを受けた結果です、罪将はたった一人で南陽へ向かい公子に劉備を追い出すよう説得します。ご存知の通り、蔡瑁も劉備を嫌っております。これなら劉備は荊州には居れなくなります」
「そうだ漢昇!公子に劉備を追い出すよう言ってくれ!いやっ、仲業に劉備を殺させるべきだ!」
李厳は心底劉備を憎んでいた、追い出すだけでは物足りないと思って文聘に劉備を殺させようとした
「それは保証できません、劉備は腐っても皇叔の身分があり、公子の目上である。公子は劉備を手にかけるとは考えにくいです」
典黙が口を開く前に黄忠が李厳の意見に反論した
できない事は約束しない、デタラメを言わない、典黙は黄忠のその点を高く評価してた。
五虎将の黄忠は気に入ってるし、李厳と黄忠が荊州の軍民で重要な求心力を発揮できる
歴史のように曹操が荊州を占領してもその心を得られないのを回避するなら今は好機
典黙も立ち上がって李厳と黄忠を見た
「良いでしょう、一回だけ信じよう…ついでにこの二万の荊州兵も連れて帰りな、僕は許昌で良い報せを待つとしよう」
二人は自分の耳を疑ったのか驚いた顔で典黙を見た
「己吾侯様は…罪将が捕虜を連れて戻ったら帰って来ない心配をしないのですか?」
典黙は笑って首を横に振った
「漢昇将軍を信じてるからね」
「ありがとうございます!きっと侯様の期待に沿うような結果を持ち帰ります!」
黄忠は拱手して深くお辞儀した
典黙は一歩前へ出て黄忠の肩をポンと叩き、その耳元で囁いた
「もし本当に帰って来ないなら僕は大軍で南下する時城を落とす度に虐殺をするよ」
たった一言で黄忠は背筋が凍る思いをして、ゴクリと固唾を呑んで首を上下に激しく振った
「はい!承知しました!」
はったりだ、黄忠が未だ先生の人なりを知らなくて良かった
そう思うと曹昂はニヤリと笑った
先生すごい!飴と鞭を使い分けて調教しているね!あっ、しまった!感心していたら媚びを売るのを忘れた!!!
隣の笮融は悔しく悲しそうな顔をしていた
「子脩、あとは頼む」
「はい先生!」
これで良かった、黄忠が戻って来ない心配は要らない。
二万捕虜のために命を投げ出せる人が荊州全土の民を軽んじるはずもない
次の日、黄忠は二万の捕虜を連れて南陽へ向かった。
荊州に居れなくなった劉備は再起を企んでもその術がない。
そこから五日が経ち、典黙も大軍を連れて許昌へ向かった
叶県城での戦いは典黙の完勝で幕を閉じた
このような完勝はどんな武将や策士でも名を天下に轟かせられる物だが、典黙からすれば未だ心残りがあった
そして全軍もこのような勝利を収めるのが当たり前のように感じた。
彼らは皆、典黙によって齎される勝利に慣れてしまったから
馬に跨る典黙は心地よい朝日を全身に浴び、青釭剣も照らされて青い光を放っている
彼は深呼吸をして曹操が戻ったあと、どのようにして南下すれば良いかを考えていた。
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