二百七話 落ち込む孔明

劉備軍本陣の中央軍帳内、再び作戦会議が開かれた

李厳と陳到が不在のせいか、軍帳内はいつもより少し広く見えた

正面に劉備と諸葛亮が並んで座っていて、両側に関羽張飛黄忠が立ち並んでいる他に影の薄い主簿の簡雍も居た。


そして軍帳内の雰囲気は息が詰まるほど気まずい物だった

草履売りだった人が今度こそ典黙を捕まえて雪辱を果たそうと夢を見ている

豆を売っていた人と肉を売っていた人が農民だった人を見下している

一番の年長者がが曹操軍に囚われた捕虜の事を考えている


「漢昇将軍」


「はい」


諸葛亮が先に口を開いてこの気まずい空気を打破した

「公祐の行軍速度から見て、輜重物資は遅くても後日の夜に到着する。その前に運搬路を密書にて典黙軍に知らせてください」


「はい!」

黄忠は拱手して列に戻った


諸葛亮は立ち上がって羽扇で背後の地図を指し

「漠林、十里坂、回龍坳の三箇所が伏兵に適している上、運送部隊も必ず通る。それらを過ぎると横林に入るため典黙軍はこの三箇所のいずれに伏兵を仕掛けるはずです。雲長将軍は八千兵を率い漠林、翼徳将軍は八千兵を率い十里坂、漢昇将軍は八千兵を率い回龍坳で待機してください」


「はい!」

返事したのは黄忠一人だけだった、関羽と張飛は何も言わずに諸葛亮を見ている


しばらく沈黙の後に関羽が一歩前へ出た

「前回の作戦で本陣を典黙に奇襲された、また兵力を全て外に出すのか?再び本陣を狙われたらどうするつもりだ?」


諸葛亮は羽扇を扇ぎながら再び席に戻った

「それなら心配ありません、既に手を打ってあります」


「どんな準備だ、ハッキリ言ってもらおう!」

関羽は依然と冷たく言った


劉備はただ関羽を見ているだけで止める素振りも見せない


「既に本陣に硝石や木炭火油を仕込んでおり、典黙軍が来れば火の海で消えるでしょう」

諸葛亮は関羽の圧力に負けて全てを正直に言った


関羽は諸葛亮の言い分に少し納得したか、それ以上何も言わずに吊り目を閉じた


「本当かよ?嘘じゃねぇだろうな?」

張飛は相変わらず諸葛亮を信用しなかった


「孔明が軍師の職についてるなら私以下…いや、私も含めその命令に従うべきだ」

劉備は関羽と張飛を見向きもしないまま厳粛な顔で話した


張飛は劉備の言う事であれば絶対服従、そのまま引き下がったが関羽は未だ食い下がる

「お前は一度典黙に大敗した、又敗れたらどうする?」


諸葛亮は羽扇を机に置き、関羽に注目した

「関将軍は何が言いたい?」


「軍令状を立てよう、もし典黙軍がこの三箇所に来なければ軍法に従ってもらう!」


「雲長!」

劉備は一喝したが、関羽は二尺の髭を撫で下ろしながら話を続けた

「俺も軍令状を立てよう!もし典黙軍が来て、俺が負けたらこの首を差し出す!」


普段の関羽も劉備の言う事を聞くが、意地を張る時は劉備にも止められない

そして劉備自身もこの条件が不公平ではないと思い、関羽を止めなかった


しかし諸葛亮は劉備の対応を見て嫌な気分になった

彼は最初から北上する事に対して否定的な意見だったが劉備の意地を尊重して叶県へ進軍した、その後軍の消耗を考えて撤退を進言したがそれも否定された


全ては劉備の意にそうように協力したにもかかわらず、肝心な時に自分を守ってくれない。


二通の軍令状が二人の前へ届けられ、二人はそれぞれに署名した


関羽と張飛は満足そうな笑みを浮かべるが諸葛亮は筆を無造作に置き、羽扇を手にして軍帳から外へ出た。


別号臥龍の諸葛亮は自分が奇才であると自負している、なのに一度の敗北で関羽と張飛からこれだけの悪意を向けられる事に対して納得できなかった。


この戦いに勝てば印を封じて隠居しよう…

諸葛亮は劉備の元を去る事を心に決めた


叶県城内

「女施主、その眉間に黒いモヤがあります故恐らく悪霊に取り憑かれています。放ておけばその命、長くは持ちません」

笮融はいつも通りに路地で自分の仏法を広めていた


「和尚様、どうすれば良いですか?助けてください」

婦女は少し怯えながら聞いた


「うん、この悪霊はあなたの体内深くまで潜ったので通常の仏法では追い出せない。これも何かの縁だ今夜二更時城西にある将軍府の近くへ来れば私の全身の仏法を注入し、悪霊を浄化してあげよう!」


「ありがとうございます!」


「礼には及ばない、そういえばあなたは未亡人ですよね?」


婦女は頷いたのを見て、笮融はとても嬉しそうにしていた

「では時間と場所をお忘れなく!」


典黙と陳到は巡視を終え、笮融がいつも通りに叶県で未亡人に仏法を説くのを見かけた


「徐州にいた頃から末将はこのような卑劣な輩を見下していた。アイツはいつか自分の口から招く災いで死ぬものだと思っていましたが、まさか軍師殿の元で九卿にまで登りつめるとは思いませんでした」


典黙は少し笑った

笮融のような媚び売りの達人は誰かを気分よくするのはお手の物、たまに典黙自身もその媚びの虜になってしまう

しかし笮融は未亡人を誑かす以外の悪事をしない、それも大方曹操の影響を受けただろう

何せ九卿である今の立場なら笮融はどんな女性も簡単に手に入れられるのに未亡人以外見向きもしない


典黙が笮融に良くするのは彼を広告塔にするためでもあった

その目的は士族以外の実力ある者を掻き集めるにある


「功名は馬上で勝ち取る物、君もいずれ彼をも凌駕するでしょう」


「ありがとうございます」

陳到もそれ以上笮融の悪口を言わなかった、帰順して早々に嫉妬深い印象を典黙に与えたくなかったから。


策略だけでなく笮融のような卑劣な廃物をここまで利用できるのか…

陳到は心底から典黙に感心した


自分の実力が笮融より上だと自信を持っている陳到は典黙の話を信じて疑わなかった


話しているうちに二人の背後から曹昂が走って来た

「先生、黄忠からの密書です」


曹昂は典黙に布を渡しながら報告を続けた

「既に各将軍を議政庁に呼びました」


典黙は頷いて目線を陳到に戻した

「叔至、一緒に行くか?」


今の李厳は毎日荊州捕虜と寝食を共にしている、典黙の要求は戦いが終わるまで捕虜を解放しない。

李厳も頑固者で、捕虜を解放して貰うまでは帰順しないと言い放った


「末将は少し気まずいですので府邸へ戻ります」

陳到は拱手して立ち去った


典黙も陳到の忠義に義理立てしたつもりで彼を止めなかった


忠義の心を持つ人は尊敬される、関羽も五関六将の逸話を残せたのは曹操からその忠義の心を敬ったからである

対して五将軍の于禁が節操無き命乞いの行いで自分の英名を壊し、終いには曹丕によって辱めを受け、自害に追い込まれた


なので典黙はその点で陳到に無理を言うつもりは毛頭にない

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