二百一話 いじめられっ子

叶県城の戦闘は完全に終わった。

火の壁が城門を塞いだ時から城内に残された数千の劉備軍は皆戦う意志が消え、捕虜となった


戦場の処理をする兵士たちの間を通り、曹昂はとある民家に足を運んだ。

その民家の中には十数名の護衛と共に典黙と徐庶が居た


曹昂はお茶を飲んでいる典黙の前へ行き、腰から青釭剣を解き、両手で典黙の前へ出した

「先生、戦いは終わりました。関羽の後に劉備もすぐ城内に入って来ると思いましたがまさか李厳がその間を繋いだと思いませんでした。予定より速く計画を実行せざるを得ません。劉備に逃げられ、代わりに李厳と陳到を捉えました」


典黙はお茶を下ろし、眉間にしわを寄せて青釭剣を受け取り、腰に差した

「あっちゃ〜、劉備を捕まえるつもりが関羽すら捉えられなかったか…」


諸葛亮の妙計を見破っただけでなくそれを逆手に利用した挙句こんなに悔しそうにするな…

典黙の自責は徐庶からして自慢にしか聞こえなかった。


徐庶もお茶を下ろした

「玄徳公と雲長を逃したが李正方も陳叔直も将才です、二人を見くびらないでください」


この評価には典黙も同意した。

李厳は遺言を託された重臣になったのはその実力の裏付け

陳到も白耳兵を作れるほど練兵の才能がある、そしてその才能は高順に引けを取らない


「人を残せても心を残せないなら意味が無い…ねぇ、元直?」

典黙はチラチラと徐庶を見て話した


徐庶も遠回しに言われた事に気付いて目頭がピクッとした

「軍師殿の才能は臥龍をも凌駕した物です。麒麟さえ居れば丞相には他の策士など必要ない」


コイツ自虐に見せかけた嫉妬なのか?

典黙は少し笑いそうになった

「元直は丞相に感謝すべきだよ」


「どうしてですか?」


「僕は曹仁や夏侯淵ほど甘くないからね」


徐庶はキョトンとしてから高らかに笑った

「いや〜孔明の敗北を見れば恐ろしいと理解したよ」


「なら仲間になるしかないね」


「軍師殿、私は既に丞相の軍門に下っていますよ?」


なんだコイツ、タヌキ賈詡と同じくらい腹黒いのか…

「あの二人を説得する方法はあるか?」

典黙はそれ以上無駄口をせず、本題に入った


「二人とも意志の硬い人、しかし李正方は荊州の出身で、そこを利用できるかもしれません。陳叔直は長らく玄徳公に使えたが重宝されなかった、彼も少なからず不満を持っているかもしれません」


典黙は頷いた、歴史の軌跡を辿って見れば陳到の功労も趙雲と同じくらいの物だった。

趙雲すら劉備の信頼を得られないなら陳到も優遇されなかっただろう。


「彼らを残したい」

典黙は深くため息をついた

「将来役に立つ…」


劉備軍は本陣に向かう道中、皆失望の顔色を隠せないで居た

この一戦で五千の騎兵と一万近くの歩兵、李厳、陳到をも失った。

士気が下がるのも無理はない


遠くから馬蹄の音が鳴り響く、音のする方へ見ると張飛と三千騎兵がこちらへ向かっているを確認できた


「翼徳だ!帰って来たんだ!」

張飛を見た劉備はやっと安心できた


張飛はいつも通りに劉備の元へ向かったのではなく、諸葛亮に向けて鞭を飛ばした


劉備は急いでその鞭を掴み

「翼徳!」


劉備が鞭を掴まなければ今頃諸葛亮の頬は裂けていただろう


「腐儒!お前のせいで雲長が危ない目に遭ったぞ!叔直もお前のせいで折れた!兄者止めるな!」


劉備は当然暴走する張飛を止めた

彼は諸葛亮の策に感心していた、霧が立ち上がったのを見た時は諸葛亮こそが仙術を操れる奇才だと思った


「孔明の才能が足りないでは無く、典黙の方が一枚上手だった…」


「ふんっ、敵の退路にも翼徳を配置したが、そもそも手の内を読まれた。臥龍先生は速く隆中へ戻って畑でも耕した方がいい、畑が廃るぞ」


「雲長の言う通りだ、臥龍なんだから大人しく寝ていろよ。徐庶もよくべた褒めしたな、お前ら腐儒は皆ホラ吹きばかりだ」


「翼徳、なんで徐庶はこんなに使えない人を進めて来ただろう?」


「雲長、そりゃあれだ、兄者が自分を離さないと思ったから代わりに農民を寄越しただろう」


関羽と張飛の嘲笑を受けた諸葛亮は顔が赤くなり、内心の悔しさが涙になって目の中に留まった

彼は関羽と張飛が自分に不満を持っているのを知っていた。

失敗してこうなる事も予想したがその対策は無かった、少なくても暴言を吐き返しても何も変わらない


「いい加減にしろ!」

劉備が遂に口を開いて、関羽と張飛を睨み付けた

「孔明を軍師としたからにはどんな結果でも受け入れる!二人はこれ以上言葉を謹ま無ければ許さないぞ!」


「兄者…」

叱られた関羽と張飛は暴言を吐くのをやめたが諸葛亮を睨み続けていた


「翼徳、これから鞭を使うなら私の体に打てばいい」

劉備はガッカリしている諸葛亮を見てから張飛に向かって冷たく言った


「悪かったよ、兄者…」

張飛は下を向いて劉備の直視から目線を逸らした


関羽も張飛も劉備を前にすれば飼い慣らされた猛獣のようだった


「主公、本陣へ急ぎましょう、ここで長話をしない方が良いかと…」

諸葛亮の話の途中、遠くから馬に乗った人影が向かって来るのが見え、よく見るとそれは黄忠だった


「大変だ!皇叔!趙雲が我が軍の格好に着替えて数千の騎兵を連れて我々の本陣を襲った!本陣に残った弱兵三千が一瞬で壊滅、本陣も燃やされた!」


おっと!大変だ、本陣すら無くなった!

本陣は兵糧の屯所ではないが武器や鎧などの資材は全てそこに置いてあった、それらも焼かれてはこれからは戦すらできない!


やっと鎮静した張飛は環眼を見開いて諸葛亮を睨んで鞭を持った手で指さした

「腐儒め!俺ら皆お前のせいで死ぬぞ!」


劉備が張飛を一睨みすると隣の関羽も張飛の袖も引っ張り、首を横に振った


劉備はため息をついて

「典黙とは何度か矛を交えたが、奴はいつも…」

劉備は自分が情けなくてこれ以上言葉を口にできなかった。


「孔明、これから私たちはどうすれば良いのですか?」

困りきった劉備は助けを求める目で諸葛亮を見た


「大軍が野原に居るのは危ない、一先ず兵糧の屯所へ向かいましょう…」


兵糧の屯所は本陣から南へ十五里、兵糧や他の輜重を置く場所である、本陣を失った今そこ以外に身を寄せる場所も無くなった


劉備も深いため息をついた

「行きましょう……」


諸葛亮は振り向いて叶県城の方へ眺めた

「典黙、未だこれで終わりでは無いぞ…!」

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