百八十七話 曹昂のすべき事

春になれば花も咲く、この時期は女の子を外に連れ回すのにいい季節だ


典黙が蔡琰を連れて城外で乗馬していた、低い草が丁度馬の蹄を超える高さでまるで絨毯の様だった


蔡琰と一緒に居ると典黙はいつも初恋の感覚を思い出す。

単純な彼女はいつも隣家の女の子のように欲がなく、世間知らずだった。


同じ様に臀を叩いても麋貞はすぐ体勢を変えるのに対して蔡琰はただ呆然と典黙を見るだけ...


「子脩兄さんが最近書院から紙をたくさん持って行きましたよ」

蔡琰は風に乱された黒髪を耳に掛けながらさり気なく言った


「紙をたくさん?何に使うんだ?」

蔡琰と同じ馬の後ろに跨る典黙が不思議そうに聞いた


「さぁー?そこまでは知りません」


「あっちゃー!忘れてた!丞相から注意しろと言われたのスッカリ忘れてた!」


やはり典黙は女の子と一緒に居れば何もかも忘れてしまう様だ


「何か大事な事?」


「いやっ、大した事ない」


「じゃ今から行きますか?」


「大丈夫だ、もう何日も経ってるし明日でも構わない。今の時間は僕と君だけの物だ」


蔡琰は少し嬉しそうに頷いて両腕を広げ春の風を感じていた


「長安に居た頃よりよく笑うようになったね」


「子寂と一緒に居ると毎日が新鮮で楽しいです!」

蔡琰が振り向いて、甘い笑顔を見せた


長安に居た頃の蔡琰はとても生きるのが大変そうで、生きる事にも執着が無くなりそうだった


今の彼女を見れば、当初彼女に対する哀れみも消えた。

歴史上の蔡琰に対する同情も慰められた典黙は違う感情が体中を駆け巡った。


「子寂、もう少し後ろにズレてもいい?」


「ん?どうした?」


「あの...当たってます...」

蔡琰の羊脂玉のような顔が赤く染まった


二人は夕方まで散歩をしてそのまま書院へ向かった。

典黙はもちろん無頼漢の様にあらゆる手を使い書院に寝泊まりした。


翌日、典黙は蔡琰の作ったお粥でお腹を満たしてから曹昂を呼び出して馬で城外へ出かけた

もちろん二人はそれぞれ別の馬で


二人はただ目的地も無くフラフラ歩いた


「昭姫ちゃんから聞いたが、子脩、紙を大量に持ってて何に使うんだ?」


「はい、先生が官渡の戦いで見せた戦局を操る計略に震撼されました!それらを記録として残せば勉強出来る上後世に伝えることもできます!」

曹昂は楽しそうに話した


やはり曹操の言うように、曹昂は勘違いをしてるな...

曹操の後継者である彼は兵法よりも他の事に専念する必要がある。

しかしいくら師弟関係と言っても曹昂は典黙より三四歳年上、年上の人に説教はその自尊心を傷つけるかもしれない


典黙は色々考えた挙句に世間話の口振りで話した

「僕の能力をどう思う?」


「先生の兵法は神業とも言えましょう!本当に戦況を自由に操れた!かの韓信にも引けを取らないでしょう!」

曹昂は真摯な顔で答えた


「じゃ、もし僕が袁紹を補佐していたら丞相は負けたと思うか?」


曹昂は少しビックリしたあと大きく頷いて

「間違いなく負けたでしょう!」


「違うぞ子脩、仮に僕が袁紹を補佐していたとしても丞相は依然官渡の勝利を手にした」


「先生はどうして自分を卑下するのですか?」

曹昂の印象で、典黙は笮融のように手柄を誇張する人ではないが常に格好付けていた

そんな典黙がいきなり謙虚に振る舞うのは少し意外だった。


「自分を卑下した訳ではないよ、正直に言っただけさ。田豊と沮授は北国の俊傑、その智略も僕と同じくらいでしょう。しかし袁紹は彼等を重宝しなかった。伯楽と千里馬、千里馬に比べれば伯楽の方が貴重だ。世間の目は僕に注目するが、僕を信頼した丞相が居なければこれらの成就も無かった。もしそうなら誰もこの麒麟才子など知らなかったでしょう」


馬に揺られる曹昂はしばらく沈黙したまま典黙の話を噛み締めた

「先生の言いたい事何となくわかりました!ありがとうございます!」


典黙が言った事は曹昂を教育する為だけの物ではなく、自分の本心でもあった


曹操の言う通り典黙は怠惰そのもの

主としての心労を知っていた典黙は朝から晩まで働くのが嫌だった

仮に皇帝になったとしても毎日は朝議に悩まされる、玉座に座って最初から最後まで参加しなければいけない。


典黙の中では生きるという事は内心の快楽を求める事だ

そして彼の快楽は、四五人の妻妾を侍らせて、無責任な侯爵として生きて、時が来れば天下を旅したい。

そんな簡単な物だった


曹操の配下に加わって、典黙は大事なものをたくさん手にした。

兄を二人、完全に信頼してくれる君主、自分を敬う生徒、曹仁や張遼等の友、郭嘉や賈詡等の好敵手を得た

これらは皇帝では到底手に入ることの無い大切な者。


「何がわかった?」

典黙は少し過去を振り返り、曹昂に聞いた。


「主としての人を見る目やそれ等の使い方を誤れば失敗する事です」


典黙は満足した顔で頷いた

「本来ならば兵法を勉強する事はいい事だ、しかしそこに時間を費やすよりも信じられる人を使った方が効率がいい。少なくとも僕がいる間はね!それよりも丞相の権術や帝王学を勉強なさい」


ここまで言われた曹昂は典黙に呼び出された目的を理解した

「僕の愚鈍さで先生に苦労をかけました」

曹昂は少し申し訳ない顔をした


「フフフッ、今はまだ説教できるが子脩が丞相の跡を継いだらもうできないね」


典黙は冗談のつもりで言ったが、曹昂は急いで馬から飛び降りて拱手した

「先生!この曹昂は一生先生を師と仰ぎ、死ぬまで変わりません!信じてください」


「そこだよ、丞相との違いは」

典黙は肩を竦み、馬から降りて

「丁度いい、歩き疲れた。あの丘の麓で少し休もう」


「はい、馬を引きます」

曹昂が典黙から手網を取り、二頭の馬を引いて典黙の後ろを歩いた


二人は麓にある岩に腰掛けて、典黙は拳大きさの岩を拾い上げてじっくり見た


「先生、その石に何か問題が?」


「石灰石みたいだ、あとで欧鉄に焼かせてみる、石灰が出来れば何か役に立つかもしれない」


確信は無いが、もしコンクリートや鉄筋等の建材を創り出せたなら天下を安定させた後建築に使えるかもしれない


曹昂は理解できない事でも言われたらはとりあえず完璧にこなす

典黙も曹昂のその点がとても気に入った


「それと、硝石等の準備を任せたがどうなった?」


「全て先生の言いつけ通りに準備しました!」


典黙は満足して頷いた

硝石、火油等は安い物だが予め用意して置かないと安心できない。

諸葛亮との戦いはいずれ起きる。


戦いが始まってから準備するのは手間がかかるので今のうちに硝石、火油等に加え、耕牛に至り、全て管理しておく必要がある。


もし目の前の石が石灰石ならいざと言う時に使える物がまた一つ増える。

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