百七十九話 大地は我々の足元

袁紹は五万の精鋭を連れて急いで曹操軍本陣へ向かった。

「曹丞相にお会い願います!曹丞相にお会い願います」

曹操軍本陣の外、袁紹軍は声を揃えて叫んでいた


すぐ曹操も典黙たちを連れて城壁に現れた


袁紹は曹操を見かけると、すぐ怒りを露にした

「曹操!二日前約束した兵糧三十万石はどうした?あの時は陛下の顔を立ててお前を見逃すと決めたぞ!速く渡さなければ死戦あるのみ!」


袁紹の恐喝を聞いた曹操は皆と目を合わせてニヤリとした

「ゴホンッ…賢兄!数日ぶりですな!今の賢兄に何やら困難が訪れてるように見えますね!しかしご心配なく!天は人に乗り越えられる試練しか与えません!その試練に対する解決策を見つける事が大切です!そしてその解決策を見つける時にも新たな困難が出て来るでしょう!そして数多くの困難を乗り越えれば人は更なる成長を遂げるでしょう!愚弟は賢兄の健闘を心より祈っております!共に精進致しましょう!ではまたお会いしましょう!」


言い終わると曹操は振り返ってササッと立ち去った。


おいおい、でしょうでしょうって……

何かいっぱい話したようで肝心な兵糧について何も言わなかったぞ……

曹操は姿を消すと袁紹軍の五万人はポカンとして微風の中に立ち尽くす


「なっ、何を訳の分からない事言ってんだ!兵糧はどうしたと聞いておる!」

諦めがつかない袁紹は力を振り絞って再び叫んだ


「落ち着け、落ち着け」

典黙の見守る中笮融が前へ出て来た

「袁紹大将軍先程丞相の話ちゃんと聴いてました?困難に立ち会った時は解決策を見つけましょうね!ただ叫んでも問題は解決できませんよ」


「解決策って、お前らが約束通り兵糧を渡せば問題は解決する!」

笮融を見れば袁紹の怒りはより一層強くなった


「あっ、なるほどね!はいはいっ、わかったわかった。じゃあれだ、とりあえず戻って待ててね、一日二日後に届けるよ。もしかすると一二年かもしれないけど。南無阿弥陀仏」

笮融は指で数珠を転がしながらあしらった


実の所、曹操が無駄話をした時点で袁紹は自分が弄ばれたと気がついた、しかし信じられなかった。


軍勢で恫喝すれば兵糧が貰えると思った袁紹は笮融が出て来たのを見て現実を悟った。


笮融が出しゃばっても誰も止めなかった。

これにより袁紹の自尊心が完全に打ち砕かれた


袁紹は心臓が締め付けられたような痛みに襲われた


傲岸不遜な彼は兵力を半数失い、武将も狩り尽くされた、終いに自尊心を媚び売りしかできないと見下していた笮融に蹂躙された


この時、数日に渡った心の浮き沈みに苛まれる袁紹は出発する前の事を思い返した


あの時の自分はまだ四十三万大軍を従わせ、曹操を斬って中原を支配下に置くと誓いを立てていた

しかし今では、見下していた曹操からは相手にすらされない……


自分がまるで人に笑われるための道化だと気づいた袁紹は人生初めて惨めな思いをした。


考えれば考えるほど、抑圧された醜い感情が捌け口を求めようと袁紹の口から噴き出した


プーッ!

口から血煙を噴き出した袁紹は脱力のまま、馬から転げ落ちた


「主公!」

「父上!」


皆が駆け寄り、沮授が再び袁紹の鎧を脱がしてその胸元を摩った。


「父上!もう総攻撃しましょう!」

「主公!ご命令とあらば刺し違えてでも曹操を討つ!」

「父上!死など恐れません!それよりもこの屈辱は受け入れられません!」


数多くの戦場を経験してきた袁譚はもちろん自分の命を投げ出す覚悟があった。


袁尚も自分を溺愛してきた父が屈辱を受ける事を許せなかった。


周りの将兵たちも焚き付けられだのか皆雄叫び上げ、殺気立っていた。


やめようよ…一回落ち着こう!話し合おう!話せば分かる!

袁紹軍の中で今一番冷静なのが郭図だった、しかし彼は今進言よりも自分の存在感を消す事に集中していた。


地べたに寝転がる袁紹は何も言えずに袁譚と袁尚の手を握り、曹操軍の本陣を睨み付けていた


そこにたっているのが自分で地面に寝ているのが曹操ならどれだけ良かったか……


袁紹軍が慌てているところを見ると笮融は更なる追い討ちを掛けた

「皆さーん!慌てないでください!ご法事ならこの笮融にお任せ下さい!すぐ成仏させますから!」

言い終えると笮融は自分の従者から木魚を受け取り、お経を唱えながら叩き始めた


本来精神的苦痛を我慢していた袁紹はこの言葉に刺激され、全身がピクピクっと震えた後、ゆっくりと目を閉じた…


「おいおい、袁紹死んじまったじゃねぇか?」

典韋は少し残念そうに呟いた


「殺れ!全軍突撃だ!」

袁譚の怒号で袁紹軍がアリの群のように曹操軍本陣へ迫った


何の準備もしていない戦闘は当然嵐のような矢の雨と落石、巨木、金汁を前に為す術もなく。

曹操軍本陣の前は再び死体の山ができた


今の袁譚を止められるのは袁紹しかないとわかった沮授は必死に袁紹を揺らし、起こそうとしたが袁紹が目を覚ます事は無かった


「公子!意地を張っても意味は無い!速く北へ戻らなければ皆犬死するだけです!」

袁紹が起きないなら自分で止めるしかないと、沮授は袁譚の足にしがみついた


「行くなら勝手に行け!屈辱を受けるくらいなら死んだ方がマシだ!」

袁譚は沮授を引き剥がし突き飛ばした


「公子!将兵たちの事を考えなくても主公の事を考えてください!未だ息をしている!速く医官に見せなくてはならない!」


「父上……」

袁譚三兄弟は袁紹の真っ青な顔を見て涙を堪えた

「退け!」


唐突な攻城は唐突な撤退で終わった


「丞相、俺に行かせろ!袁紹の首を持って帰るぜ!」

混乱した袁紹軍を見た典韋は胸を躍らせた

典韋の一言で許褚、楽進等も皆雄叫びを上げた


両手を城壁に掛けた曹操は逃げ惑う袁紹軍を黙って見て居るだけだった

ここ数日の優勢が典黙の布局によって完全な勝利になった事を、曹操は確信した


しばらくしてから、曹操は腕を大きく振り

「その必要は無い!半日の休息で英気を養え、袁紹軍の撤退を見計らい全軍で追い討ちせよ!騎兵で陣形を崩し、歩兵で捕虜の捕縛、必ず袁紹の首級を持って来い!」


曹操が言い終わると無意識的に典黙を見た


「ご英名な判断!」

典黙の同意を得て、曹操は口角を上げ

「良し!準備に取り掛かれ!」


「はい!」


皆が去った後、曹操は遠くを眺めながら腕を広げた。

まるで天地の間を泳いでいるかのように痛快な気持ちになった。


「子寂、この戦いの後、青州幽州并州冀州兗州徐州豫州の七州を手に入れる事が出来る!天下の三分の二だ!その後は残りの諸侯を逐一あの世に送ってから我は……」


最後まで言わなかったが、典黙は曹操の言いたかった事を知っていた。


典黙は微笑み何も言わなかった


曹操はそんな典黙を一目見てから目を閉じて

「子寂よ!感じるか?」


典黙は目の前の屍山血河を見てから遠くの雄壮な山河を眺めて答えた

「ええ、大地は丞相の足元にある」


「違うぞ子寂、大地は我々の足元だ!」

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