百六十六話 曹操の小芝居

曹操軍本陣では朝まで戦場の片付けをしていた


統計によればこの戦いで得た戦果は二万三千の捕虜、戦馬七千匹、それと敵兵二万八千の殲滅


一回の戦闘でこれだけの戦果は圧倒的とも言える。


「子寂、この捕虜たちは君に感謝せねばならないな!」

要塞の外で曹操たちは勤しむ兵士たちを眺めていた


「どうしてですか?」


「君の発明した農具や水車が無ければ我々も余分な兵糧で彼らを養え無かっただろう。いくら我でも埋め殺しは趣味では無い......」


曹操の言う通り、歴史上の官渡の戦いでは曹操が武器を下ろした総勢七万の捕虜を埋め殺していた。

これも実は仕方の無い事でした。


当時の曹操軍自身も兵糧に余裕が無く、そのせいで程昱は周辺の百姓を捕まえ、人の肉で兵糧に当てていた。

程昱もその行いで汚名をずっと背負った


今は歴史と違って兵糧、財力、軍の備品等の面では曹操は既に四州の地を収める袁紹とほぼ変わらない


しかしそれでも捕虜たちが生き残れるかは彼らの選択結果にもよる

彼らが捕虜のままで曹操軍に加わらなければ見張りに人員を割く必要がある

兵力の差が激しい今では曹操にその余裕が無い


そこで袁紹軍の上将である張郃が役割を果たす


「行くぞ子寂、張郃を降伏させよう!」

曹操が手招きして典黙が後について行った


二人は趙雲の案内で敵将を収容する軍帳に入った

張郃は丸太に縛られ目を閉ざしていた。


死をも恐れずその様子は修羅場を潜り抜けた武将のあるべき姿だった


曹操も心の準備を済ましている

「儁義は忠義の人だ、何故袁紹と共に朝廷に弓を引いた?それでは反逆の汚名を背うぞ」


張郃は鼻で笑って

「フン!勝てば官軍負ければ賊軍!一思いに殺ってくれ!」


「儁義の才がここで散るのは実に惜しい事だ...行きなさい...」

そう言いながら曹操が前へ出て張郃の縄を解こうとした


この挙動は危険だ、張郃が急に反撃すれば命を落とす事もある

趙雲がそんな危険性を許すはずも無く、曹操の前に出て代わりに縄を解いた


「以前より儁義の才能に惚れていた、しかし残念ながら縁が浅く、会う事はできても残させる事が出来ない」

曹操は二杯の酒を持ち、一杯を趙雲から張郃に渡させた


「儁義、最初で最後の一杯付き合ってくれ!どうか帰ったらお元気で!」

曹操は酒を飲み干して杯を隣へ無造作に投げた


この人格魅力は袁紹では持ち合わせない物

少し戸惑った張郃も酒を飲み干し、周りを見渡すと誰も止める素振りを見せなかった。


張郃は外へ出ようとした時に典黙が口を開いた

「丞相、張郃の才能を惜しむならどうして彼を死地に送り出す?」


「子寂!我はいつ儁義を死地に送り出した?ここで皆の反対意見を押し切り帰そうとしただけでは無いか?」


演技力で言えば曹操も典黙も一流だった。

真摯な感情輸入、誇張過ぎない表情の現れ、それらによってもたらされる感染力が張郃の心を少しづつ打ち付けた。


「丞相!袁紹はどんな奴かあなたが一番知ってるはず!優柔不断な庸主、反復無常な卑怯者!儁義がここで帰ったらどう思われる?袁紹はきっと儁義が内通者だと思うでしょう!もっと言えば昨日の大敗も彼のせいにされるでしょう」


典黙が言い終わると曹操は一瞬で苦渋の表情に切り替わった

「あぁ!確かに本初は疑い深い......」


「丞相!百歩、いや一万歩譲って袁紹が仮に信じたとして他の人も信じますか?僕は郭図が黙っていないと思います、きっと全責任を儁義に押し付けるでしょう!」


二人の小芝居によって張郃も内心慌てた

張郃も袁紹をよく知っている、今帰っても曹操が自分に敬意を持って解放したと思われないだろう。


そして殺されなくとも信頼されなくなる

何よりも怖いのは典黙の言う通り郭図が全責任を押し付けて来る事が本当に起こり得る!


郭図と舌戦するくらいなら呂布と戦った方がまだマシだ......


躊躇していると見た典黙は張郃の説得を試みる

「儁義将軍は河北の豪傑で死を恐れないのは見上げたものの、価値の無い事で命を落とすのは勿体ない!今帰っても屈辱な最後を迎えるだけです」


張郃はやっと振り向いた、虚ろとした両目に複雑とした表情


機は熟した!

典黙は更に演説家のように張郃に対して洗脳をかける

「さぁ!心を入れ替え丞相に仕えよ!天恩に報え、国に忠義を尽せ、武勲を建て、自分の才能を生かせ!丞相は儁義の才能を重宝するが袁紹は違う!もう、迷う事は無いはずだ!さぁ!」


「儁義......!」

曹操も真摯な眼差しで張郃をじっと見つめた


張郃の目からはその気持ちの揺らぎが読み取れたが決定打に欠けていた

「家族の安否を気にしているなら任せてください!」


「安全を約束できるのか?」

張郃は初めて自ら言葉を発した。


家族の安否、この問題さえ解決すれば張郃は傘下に入る気はある

ここに居る全員がそれを理解した


「儁義の家族は河間鄭県に居ることは知っておる、大行山の張燕が近くに居る。張燕は我と交流がある、我が直に頼めば断わられる心配もない。精鋭を百姓に変装させて救出に向かわせる、袁紹は未だ警戒していないはずだ、問題無いだろう!」

曹操の提案で張郃の最後不安も消えた


張郃は片膝を地に付け拱手した

「末将張郃、犬馬の労を尽くします!」


「良し!儁義を得れば袁紹を討つのは確実になる!」

曹操は笑って張郃を起こした


軍帳の外で待ち伏せしていた典韋と許褚は曹操の笑い声が聞こえると互いに顔を見合せて

「出番がねぇ見たいだな、帰ろ」


典黙はなんの遠慮もなく張郃に質問をする

「儁義、袁紹の兵糧倉庫の場所を知ってますか?」


「先生が噂に聞く麒麟軍師ですね、今日会えた事は光栄です!しかし兵糧倉庫の場所は守りに当たる淳于瓊たち以外の武将が知り得ない事です」


「なるほどね...儁義も先ずは休みが必要でしょう」


「そうだな、子龍、儁義の案内を任せる」


「はい」


趙雲が張郃を連れて行くと曹操は少しため息をついた

「張郃は袁紹軍の上将、その彼ですら知らないとは......未だ滅ぶ時では無いか」


「ついでに聞いてみただけですよ、元々知ってると思ってませんし」


典黙の話で落胆していた曹操が再び目に光を宿した

「あれほど大掛かりして張郃を捉えたのは兵糧倉庫の場所を聞くためじゃないのか?」


「ええ、我が軍の倉庫も僕と奉孝を含め数人しか知りません。張郃を捉えたのは他に使い道があるからです」


「なら良い、なら良い!アッハッハッ」

兵糧倉庫の場所を知るために張郃を捕まえたと勘違いした曹操は少し安心した


「鍵が手に入った事ですし、こちらも動きましょう!」


「どうするんだ?」


「丞相、明日から我が軍の兵糧運搬を夜間から昼間に切り替えましょう」


「運搬の路線は命脈だぞ、それをわざと知らせるか?」


「虎子を得るには?」


「虎穴に入らずんば虎子を得ずか、好きなようにやるといい!」

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