百三十四話 才媛の名分
活字印刷はそこまで難易度の高い物では無い、言ってしまえば小さいハンコをたくさん作って並べ直せばいい物。
もちろんこれらの作業は欧鉄にかかればすぐにできる事。
欧鉄はまず二十字ほどの試作品を完成させた
製造過程を見ても使い方まではわからなかった蔡琰が困惑している中で典黙が紙を一枚取り出しで墨を使って文字を刷り込んだ
「一瞬で二十字も!」
蔡琰は目を見開いて驚いた、頭脳明晰な彼女ならこれは何を意味するかをすぐに理解できた。
書物を全部刷り込みで作れば確かに典黙の言う通りに一日で数万か数十万が出来上がる
それにこの印刷の仕方は典黙の創った紙でしかできない、前までの紙ならすぐに墨が拡散するか紙自体が崩れてしまう
つまり典黙が紙を創ったのもこの印刷を見越して創った物という事になる
「通りで子寂兄さんは千年一遇の才能と言われる訳ですね!兵法や陰陽術に通じるだけでなく機械仕掛けやこのような印刷奇術までも発明できるなんて!凄いです!」
「それだけじゃないでしょう?僕は物語を語るのも上手かったでしょう?」
ニヤついた典黙の顔を見て、蔡琰は西門慶の話を思い出して顔を赤く染めた
「確かにすごい才能ですけど……スケベな所だけはちょっと……」
欧鉄が居る手前蔡琰は急いで話題を切り替える
「この二つさえあれば本当に知識を天下に広める事もできますね!」
「いやっ、未だ最初の一歩を踏み出したに過ぎないね……」
典黙の答えは少し悲観的だった、蔡琰も意外そうに典黙を見ていた
もちろん典黙の悲観的な言葉は根拠に基づいた物だった
印刷の技術を開発しても根深い氏族の学識独占を断つのは難しい事
氏族の独占を断つには先ず階級制度と固定観念を崩さなければいけない
そしてそれらをするには曹操に天下を取らせなければいけない、更に百姓たちに安泰な生活を約束しなければ百姓たちも知識を得る余裕も無い
で無ければ幾ら書物が多く出回ったところで何も変わらないから
そして教育には学識のある人が教えなければいけない、やる事はまだまだたくさん有る。
典黙はその事をも考えて見越した
将来の事を考える典黙の横で蔡琰はすごく喜んでいた、彼女からしてみれば印刷の技術があるだけでも大きな進歩だった
そして蔡琰はその日ずっと欧鉄と印刷器具を作ることに没頭していた
夜になって典黙は作業に耐えられなくなり
「昭姫ちゃん、もう帰ろうよ。書院まで送るから」
「はい、わかりました…」
蔡琰は少し名残惜しそうに典黙と考軍処を離れた
曹操は蔡琰に屋敷を用意していたが蔡琰は書籍を書き出すためにしばらく書院に住んでいた。
書院に戻っても典黙は帰ろうとしなかった、スケベ典黙はもちろん麋貞不在の隙を逃す訳もなく書院に居座った。
油灯の火が踊り、蔡琰はあくびをして横目で典黙をチラッと見て少し気まずそうにしていた。
二人が無言のままでしばらく座っていると典黙が立ち上がって蔡琰の背後へ回り込んで彼女の肩を揉み出した
「昭姫ちゃん、今日疲れたね、肩を揉みほぐしてあげよう!」
この時蔡琰の緊張感は最大に達した、恥ずかしさで離れたいが少しもったいない気もする
まるで体に蟻が一匹這い回るような感覚になっていた。
蔡琰の照れてる清純な姿を見た典黙は思わず前世の初恋の気持ちを思い出した
僅か数分前後だった揉みほぐしが蔡琰の中では何年もの長さを感じた
典黙は蔡琰の耳元で軽く語りかける
「助けた恩を返すために我慢しなくてもいいよ、嫌なら言ってね!」
耳元から伝わる典黙の吐息が蔡琰を硬直させた、先までの蟻の感触が大群に増えたかのように全身を痺れさせた
「いっ、嫌っと言ったら帰りますか?」
「帰らない帰らない、言ってみただけだよ」
「もう……」
笑うべきか怒るべきか、蔡琰は自分の気持ちも分からなくなっていたが、嫌な気持ちにはなっていなかった
蔡琰はゆっくり大きく息を吸い、目を閉じた。
降参した捕虜のように典黙の好きなように一夜を過ごすと決めた。
油灯の火も自然と消え、夜風に吹かれたか帳が揺れ動いた
"相思一夜情多少,地角天涯未是長"
一夜の情熱はどのくらいの物だろうか、恐らく天地の狭間まで届くだろう。
典黙は前世の高校で習った古詩に共感した。
歴史上の蔡琰の結末に釈然としなかった典黙は今度は自分でその結末を変えられるかは分からないが今はできる事をしようとしている
翌日の昼間、典黙が起きると蔡琰の姿は既に居なかったが書院からは学生たちの朗読の声が聞こえて来た。
典黙はもちろん邪魔するつもりもなく、簡単に身支度を整えてから書院を離れた。
「このまま出て来なければ我が起こしに行こうとしたぞ」
路地から出て来た典黙の目の前には曹操が現れた
「丞相、奇遇ですね!!」
「奇遇ね、フッ。一夜の色恋は千金に値する、今まで寝ていたという事は昨夜は張り切ったな!フフフッ」
曹操は髭を弄りながら笑って言った
「丞相に比べれば僕はまだまだですよ」
典黙は欠伸をしながら曹操の皮肉を返した
すると曹操は真剣な顔で典黙に説教を始めた
「器が大きくしとやかな女子は、男なら皆求めるだろう。しかし責任を取るべきだ、名分をくれてあげな」
「ええ、そのつもりです」
曹操は頭を傾け、典黙に付いてくるように指示した。
「彼女の亡き父は我の恩師だ、一人許昌に居て頼れる親も親戚も無い、名分をあげることで頼りになる存在になってやれ」
「名分ね…正妻ですか?」
典黙は試すように言ってみた。
確かに今の典黙の上司は曹操しか居ない、言い換えればこの国では典黙は曹操以外誰よりも高貴な人。
しかし典黙の身分は未だ平民、儒教の大家である蔡邕の娘とは釣り合わない。
なので典黙は最大限の誠意を見せて"正妻"と聞いてみた
曹操は典黙をチラッと見て
「そんな事は君が決められるわけが無いだろ、子盛が帰ってくれば我が話す、子盛が出れば一応父母の令という形になる。」
父母が居なければ長兄が父の代わりになる、この道理を典黙も知っていた。
典黙も異論は無かった。
昭姫ちゃんが正妻か!いいね!
「ん!兄さんたちはどうしてますか?」
「呂布は子盛と仲康に追われて長江を渡った、約一万前後の残党を率い丹陽を占領して孫策と対峙している。概ね君の読み通りだ」
曹操は満足そうに頷いた後に話の続きを口にした
「子盛と仲康は既にこちらへ向かっている、あと何日かしたら着くだろう」
兄さんたちが帰ってくる、これはいい報せだ。
今は大戦も終わり、急いで練兵に取り組んで袁紹との戦いに備えなければいけない
「止まれ!」
典黙が考え事をしてる時に背後から重厚な声が聞こえて来た
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