百二十一話 一人の抑制力

笮融も八千人の部隊と合流した後隊列は再び西へ向かった。

典黙、趙雲、笮融と各営の百夫長以外は皆歩兵で鎧、朴刀食糧などの荷物のせいで行軍速度は速くない。

一日の行軍距離は四十里が限界。


「襄城だ、あと三日もあれば河口の関門に着く」

隊列が密林で休憩している時趙雲が水袋を典黙に渡しながら言った


典黙はゴクゴクと飲んでから

「今度は劉備との正面衝突、子龍はどんな気持ち?」


趙雲も一口飲んでから

「徐州戦の時子寂はわざと僕を呂布の戦線に配置したでしょう?天下万民のための大義は個人同士の義理より重く、僕はもう迷わない!」


典黙は頷いて

「なら良し、だって今度こそ劉備の息の…」


典黙が話の途中に趙雲が手をかざしてその話を途中で遮った、そして近くの茂みを警戒しながら竜胆亮銀槍を構えて

「何奴!?」


しかし茂みは虫の鳴き声以外は何も無く静かだった


典黙「聞き間違いでは?」


趙雲「僕の耳は百歩の離れても弓を引く音を聞き逃さない、五十歩以内の足音を聞き逃す訳が無い」


趙雲の言い分が相手にも聞こえたか、草むらの中から一人平民装束の婦人が出て来た


典黙は趙雲の肩をポンと叩いて

「平気だ子龍兄さん、僕の客だ」


典黙は満面の笑みで駆け寄り一礼して

「皇后様、ここまでお散歩ですか?民服を着ていてもその品格を隠せませんね!」


典黙の舐め回す視線が最終的に伏寿の胸あたりで止まった


「父上の諜報員にここまで連れてもらいました、私がここまで来る意味が分かりますか?」

伏寿はツンとした態度を見せた


典黙「ハァ…分かりませんねっ」

伏寿「前回話した内容を考えてくれましたか?」

典黙「僕は一向に構いませんが、皇后様こそ覚悟をお決めになりました?」


典黙は下卑たニヤケ面を見せると伏寿は顔を真っ赤にして小声で

「陛下の大業、漢室復興のため…仕方なく…」

伏皇后は後ろへ向いて典黙を視界から外した

「本当に私の事が好きですか?」


「うーん、どうでしょう?皇后様はとある人にすごく似ていまして……」


伏寿は閃いた、なるほど!好きな人に似ているから私を…

ならばその人さえ見つければ私は難を逃れる!


伏寿「言ってみてください、見つけてみせます!」


典黙は少し俯いたが目線は伏寿から離さなかった

典黙「無理です、その人はこの世に居ません」


伏寿「そうですか…」

亡くなったのかな?まずいことを聞いたのか…

それよりもこのままでは私が逃れなくなる!


伏寿は出発する前に劉協希望に満ち溢れる眼差しを思い出して、大きく息を吸い込み目を閉じて

「協力して貰えるなら、一度だけ…」


典黙「えぇーっ一度だけですか?」

伏寿「ふざけないで!何回ならいいと言うのですか!?」


典黙「僕が皇后様なら陛下のために何回でも身を捧げるでしょう!例えそれが何十回でも、何百回でもです、それこそが漢室のために犠牲になるという事です」


伏寿「良くも卑劣極まりない事をぬけぬけと、さも正義のように言えますね!図々しい人は見てきたつもりですがあなたほどの人は初めて見ました!」


典黙は天を仰いでニヤケた顔を見せないようにしていた

伏寿の言葉が少しも響いた様子も無かったのは典黙がただの図々しいからでは無く、彼はこの話し合いに対して絶対的な自信があったから。


典黙「それじゃ、僕は先を急ぎますので。また会える事を楽しみにしています」


何なのこの人?先まで駆け引きをしていたのにもう先を急ぐとか掴み所がないにも程がある…


だんだん遠くなって行く典黙の背中を見ている伏寿はそれを止めたいがそこまでの覚悟は無かった、典黙の出した条件は予想以上だった


「あっ、そうだ!皇后様、宮廷に戻ったら陛下に伝言をお伝えください!劉備の事はもう待たなくて大丈夫ですよ、この典黙が居れば劉備は多分生きて穎川から離れる事すらできないでしょう」

典黙は振り向き、伏寿へウィンクしてから満足気に再び歩き出した。


戻った典黙を趙雲はチラッチラッと見ていた


聞かれたのか?いやいやっまさか!結構な距離を置いたから、大丈夫よな……


趙雲「しっ、子寂お帰り!何も聞こえ無かったよ!ところで今朝の夕飯は美味しかったね!お昼の月も美しかったね……!」


趙雲はすごく気まずそうに夜照玉獅子に飛び乗った。


典黙「子龍兄!違うから!話を聞いてくれー」


二日後、典黙一行は河口関門に着いた。

幸いな事に曹仁たちは辛うじてこの最後の関門を守っていた!


「軍師殿!!やっと来ましたか!劉備軍の勢いが思ったよりも強烈でこの半月で我々は既に魯陽や三渓等の関門を突破されました!もう少してここ河口の関門も…とにかく良かったです!」

典黙を見れば曹仁はすごく安心できた。


曹仁も典黙に抱き着きたかっただろうが、それは曹操の特権だった。


夏侯淵「軍師殿!!」

曹昂「先生!」

賈詡「子寂!」


張遼と高順も集まって来て、典黙は皆と挨拶を交わした後曹昂の近くへ行き

「子脩、例の物は用意できたか?」


「はい、既に手配済みです!」

体中ホコリだらけの曹昂を見るとその大変さが伺える。


「ハッハッハッ、公子の持ってきたものを見れば君のやろうとした事がわかるよ。良い一手だ!」

タヌキ賈詡は笑っていた、ここから全てが典黙に任せれば自分はだいぶ楽になれる。

ここまでは手柄も過失も無い、理想的な状況だ


「うん!物があればこの戦いは楽になれる…」

典黙は続いて劉備軍の動向を聞こうとした時に関門の外から太鼓の音が聞こえて来た。


「劉備がまた挑発に来た!休む暇も与えないつもりだ」

曹仁はイラつきながら言った。


典黙「行ってみよう、ついでにここ数日の消耗状況が知りたい」


関門の城楼に向かう途中曹仁は戦況を詳しく報告していた


八千あった新兵は残りわずか二千、劉備軍も四五千の損失を出した。

五分五分に聞こえたが守り側が攻め側よりも損失が激しいのは典黙の予想を超えた。


関羽と張飛の調練を甘く見ていたか、荊州へ逃げてから大分時間はあったな…長い間泳がせた事がまずかったか…


しかし、陥陣営の消耗はやはり微々たるもの。

撤退の援護や殿軍の任に着いてもその損失は二十名ほどで隊としての機能は影響を受けていない


城楼へ登ると的盧馬に乗った劉備が目に入った

劉備は自信満々に城楼を蔑む目つきで見ていたが典黙の姿を見ればその目つきも変わった。


劉備の典黙に対する感情は複雑な物でだった。恐れ、憎み、怒り、欲しさが入り交じり、今まで受けた屈辱は全て目の前の少年によるもの!


やはり君はこの最後の関門に来ていたか、しかしここは徐州では無い、いくら君でもこの絶対的な状況を覆すことはできないぞ

「典黙…」


劉備が口から典黙の名前を漏らすと背後に居る荊州軍は初めて見る典黙を見て息を呑んだ

「あれが曹操の麒麟軍師典黙?」

「気をつけろよ、六丁六甲の妖術を使うらしいぞ」

「それだけじゃない、天気をも自在に操り、鬼神をも使役すると聞いたぞ」

「えっ?典黙は召陵に居るはずだぞ?なんでここに居る?」

「それじゃ……城攻めはまたやるのかな……?」

「………」

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