九十話 荊州の議論

荊州の襄陽城内は平和そのものだった、商人達が商いをし、往来の百姓たちもここ以外の戦乱など知らなかったのように皆活気に溢れている。


「至る所に狼煙が上がる中、このような平和な所が未だ存在するとはな…」

徐州から逃げて来ていた劉備は心の感想を呟いた。


事実、ここ荊州は後漢十三州の中でも最も栄て、富にも人材にも恵まれていた。

兵力だけで考えれば袁紹と曹操にも引けを取らなかった。


その総兵力は十七万で内訳は陸兵十万、水兵七万、戦艦二千隻。

それらを率いる将軍たちは黄忠と文聘、謀士には蒯良(かいりょう)、蒯越(かいえつ)、龐季(ほうき)らが居る。

その実力は少しも諸葛亮、周瑜より引けを取らない。


そして劉表は部下に対して礼儀正しく、民間からは水鏡先生である司馬徽や雛鳳龐統を既に見つけていた。


この文官武将の豪華な面々に加え、荊州の地理位置は水路陸路共に発達していた。これらの資源を有効活用出来れば天下を目指すのはそう難しくなかった。

だがしかし、その主である劉表にはそのような大きな志は無く、自分の庭さえ守れれば良いと思っていた。


劉備、関羽、張飛の三人は繁華街を通り抜けて州牧府に辿り着いた。


五十をすぎた劉表は白髭を手櫛で整い、劉備を見ると優しそうに椅子を出して三人の着席を許した。


劉表「玄徳か、さぁ座りたまえ」

劉備「ありがとうございます」

ここでの劉備は分を弁えて拱手し大人しく末端の席に着座した


人が揃ったのを見た劉表は口を開いた

「先日、袁術から一通の手紙が届いてのう…内容によると曹操が天子陛下を人質にして朝廷を牛耳って中原を戦乱の渦に巻き込んだ。これにより百姓は住む家を追われた、この戦火を止めるべくしてこのワシと手を組み許昌へ攻め込む事を提案して来た。皆の意見も聞きたい」


皆顔を見合わせるが誰も簡単には口を出さなかった。

蒯良と蒯越が代表する蒯家、龐が代表する龐家、蔡瑁と蔡中が代表する蔡家は荊州では大勢力を誇る氏族、お互い他の出方を伺っている。


誰も口を開かないのを見ると蔡瑁が先に口を出した

「主公、曹操は賊軍かどうかはさて置き、袁術も善良な輩では無いはずです。口実は高尚なものですが、袁術は曹操から領土を奪うつもりで我々に協力を要請したと思います。そんな奴を無視して、主公は山に囲まれたこの自然要塞を利用し、長江を股に掛け、十数万の精兵が守るこの土地を大事に治めることが先決かと思います!」


蔡瑁の言う事は劉表の気持ちと共通していた、それに蔡瑁の姉が劉表の奥さんである以上彼の意見もそう簡単に反論されない。


それに劉表は袁術のこと自体あまり好きではなかった、はっきり言って反董卓連合の時から袁術と袁紹兄弟の事が嫌いだった。


今の劉表は齢五十をすぎ、晩年の事しか頭に無かった。


蒯越が立ち上がって反論をしようとすると蒯良がその腕を抑えて止めていた。

荊州では氏族たちがお互い仲良く暮らすために暗黙の了解があった、それは"自家の利益に関わる時を除き他家の提案を否定しない事"だった。


弟の蒯越は天子奪還に賛成するが蒯良は荊州氏族の取り決めに従う事にした。

それに劉表の身内である蔡瑁の意見を否定するのは得策では無い。


劉表「德圭の言葉は一理ある、袁家の事はあまり関わりたくないのう」


後ろに立つ関羽も一歩前へ出ようとしたが劉備に止められた。


劉表は杯を持ち上げ皆に酒を勧めた。


劉表「玄徳、荊州の地をどう思うか?」


劉備「はい、まさに乾坤の才が集まる地!才能有る秀才が集まるここは天下の中心に相応しく思います!」


劉備のお世辞に劉表はすごく喜んでいた

「いい所であろう!ここの木の一本、花の一輪、軍民共にワシが心血を注いで作り上げた物よ!」


「景昇殿の言う通り、荊州はいい所です!恐らく曹操もそう思うのではないでしょうか…」

劉備は本心を隠して遠回しに曹操の脅威を悟らせようとした。


「何が言いたい?」

劉表は杯を下ろして劉備を見た


「景昇殿、曹操は今丞相と名乗っていますがその実は天子陛下を人質として他の諸侯に攻め入り、その土地を我が物にしています。政治手段、兵法、覇業をなす志どれをとっても後々の脅威となるでしょう。そして今では麒麟の才典子寂を軍師に据え、その補佐により曹操は今まで一度たりとも痛い打撃を受けること無く、縦横無尽に豫州、徐州を手に入れました。今の内にこれを叩かなくてはいずれ揚州を手にした曹操はここ荊州を狙うでしょう!」


劉備は冷静に今までの事をまとめてから将来の危険性を提示した。

そしてそれを防ぐ打開策を講じ始める

「ここ荊州を狙うのは必然なら受身を取るよりも、今は袁術と手を組み精兵猛将で力を付ける前の曹操を打つのが上策かと思います!今なら、否!今しかできません!」


劉備の演説は心を打つものだった、ここで下手に袁術を褒めるよりも曹操の野心を危険視した方が説得力が有るから。


劉表の気持ちが揺らぎ始めた、自分の利益に関われば考え直す必要があると思ったからだ。


「劉備!お前が徐州で曹操に大敗したのは知っているぞ!お前の復讐に我が主公を利用するつもりか?そのために荊州百万の軍民に戦火を浴びせるつもりか!」

蔡瑁は怒りの眼光を劉備に向けた。


君主が意見を発する前に部下が出しゃばることは本来礼儀に関わり、叱られるのが世の常だが劉表は何も言わなかった。


劉表に実権がないのか?いや違う、劉備自身の存在感自体が軽すぎる。

一兵卒も持たない自分では何を言っても劉表の眼中に無かったんだ!

劉備は反論する前に場に居る全員を見渡し、味方につけるべき人を選び始めた。


そして劉備の目に止まった人選はその隣に座る劉琦だった。

劉琦は長男でありながら腹違いの弟劉琮に跡取りの座を奪われかけている、今なら自分の力を証明するために武勲を挙げたいはず!


そして劉琦もここぞの時に名乗り出た

「父上!僕も同意見です!私たちは漢皇の血脈でありながら曹操をのさばらしては民間では父上を誤解しかねます!それにここ荊州は天下の富が集まる場所、曹操が狙わない理由もありません!公私共に、動くべきかと思います!」


劉備の意見は無視しても構わないが劉琦は自分の長男、それにここ数年蔡家が劉琦にした仕打ちも劉表は見て見ぬふりした、後ろめたさがないと言えない。


「良かろ、三万兵を率い南陽を駐屯地とし、曹操と袁術の動向を観察せよ!覚えておけ、君に課した任務はあくまで南陽を守る事、ワシの命令無く南陽から兵を動かすでないぞ!」


「あっ、ありがとうございます!」

劉琦は驚きと喜びが入れ交じり、拱手して礼を言った。


劉表「玄徳、この子は戦を知らない、お願いしても良いか?」


劉備「承りました!」

機嫌が良くなった劉備も拱手し、礼を言った。


命令無しに兵を動かすな…南陽に着きさえすれば場合によってはそれを守る必要もなくなる!


何よりもここで劉琦と仲良くなる事が自分にとって価値のある事だった!

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