七十三話 享受
夏侯淵が五百の衛兵を連れ、典黙の指示通りに要塞へ旗と武器を運び入れた。
少なくともこの要塞に数万の兵がいるように装わなければいけない。
その間許昌城内も慌ただしく動いていた。
相手に狙われてる以上、綿密な防衛作戦も練らなくてはならない。
昼過ぎ、典黙は直々に各所を細かく見回った。
幸いな事に李典は典黙の指示を完璧にこなしていた。
「やれる事は全部やった、帰って昼寝でもするか…」
見回り終えた典黙は自宅へと向かった。
典黙「あれっ!糜家のお嬢様ではないか!奇遇ですね!」
糜貞「あらっ、典軍師!奇遇の意味分かります?ここはあなたの家よ?」
糜貞はぷいっと横を向き頬っぺを膨らませた
「あなたの補佐で曹操将軍が彭城を手に入れたと聞きました。約束を守ってもらいます!」
典黙は真っ直ぐ机にある急須を手に取り、注ぎ口から直接ゴクゴクと冷めたお茶を飲み
「いいよっこの典黙、約束は必ず守る。もう帰ってもらって結構」
「ありがとう…」
こんなあっさり?糜貞は大きな目をパチパチさせて呟いた。
典黙「あぁ、せっかく知り合ったんだ、一つだけ言っておくぞ」
「何ですか?」
糜貞は足を止めて振り向いて聞いた
「君の兄貴、あれはなぁ…君が濮陽と許昌に囚われてる間に劉備と仲良くしていたよ、聞けば財力も援助したそうだよ」
典黙は揺り椅子を揺らし、足を組み背もたれに深く寄りかかって言った。
「まぁ、でもいくら主公は激怒してもお兄さんへの怒りを君に向ける事は無いでしょ…精々お兄さんだけ処刑すれば事は済むでしょ。さよなら、帰り道気をつけてね!」
糜貞は泣きそな目で典黙を見つめていた。
一ヶ月前に糜竺からの手紙でこの事について記されていた。
糜家が劉備への援助で恨みを買っているなら、典黙を取り入れて許しを乞うとも書いてあった。
最初は劉備が逃げれば自分たちへの怒りも治まるだろうと糜貞は思っていたが、典黙の言い方から察するにそうでも無いみたいだ。
糜貞「典軍師、貴方からお願いすれば兄さんを助けられるんでしょ?」
典黙「お嬢様、そのくらいの事僕なら容易く出来ると思いますよ」
糜貞はえへへっと笑って頷いた
典黙「だがしかし、何故僕がわざわざ、知りもしない…一度しか会ったことのない糜竺を助けねばならないのですか?」
そう聞くと糜貞は胸を張り
「私を助けると思えばいいでしょ!」
典黙「えっ?なんで?」
「じゃ五十万出すわ!足りなければ更に出してもいい!」
糜貞は怒りで顔を赤く染めた
典黙「金ね…僕の青塩商売だけで毎月幾ら入ると思ってるんだ?お金で僕を動かせるとでも思ったのか?」
お金で解決する事に慣れた糜貞は確かにそれ以外の方法を知らないで居た。
よく考えてみれば典黙の収入は青塩だけで毎月二十万銭だ、金で動くわけが無い…
糜貞「じゃどうすれば助けてくれるんですか?」
典黙「僕も助けたいのは山々ですが、親族でもない人を助けるのにそれなりの理由は必要でしょ?」
いくら間抜けな糜貞でもこの言葉の意味は理解出来た。
このスケベ、よくもこれだけの大がかりな仕掛けをしたな!
典黙を目の前にすると糜貞も少しは悪くないと思った。
優しい類人猿みたいな劉備と比べれば、典黙は少し意地悪いが顔たちは良い。
そして劉備との政略結婚が免れても、次の相手はもっと嫌かもしれない…
それならここで典黙を選ぶのも良い選択に思えた。
糜貞は恥ずかしそうに俯いて顔を真っ赤にして
「じゃ徐州へ行って、縁談を持ち込んでください…」
典黙「縁談?なんで?」
典黙は急須を机に置き糜貞を上から下へと見て
典黙「いやいやっ、君がウチに残り下女として働けば一応身内になるし、助けてあげられなくもないと思ってだな」
糜貞「下女?!お茶で酔っ払ってるんですか?私が下女の仕事など出来るわけないでしょ!?」
典黙は何も言わずに小手先でどうぞのジェスチャーをして見せた
糜貞はプンプンに怒って出口に向かったが出る直前に立ち止まった。
今ここで出ていけば自分は確かにスッキリするでしょう、しかしそうすれば兄さんたちが処刑されると思って典黙の前へ戻った。
糜貞「分かりました」
典黙「じゃお湯を沸かして来てよ、見回りで疲れたからお風呂入りたい」
ダルそうに伸びをすると典黙はばを離れた。
典黙の後ろ姿を見ている糜貞の目には似合わないが殺意しか無かった。
糜貞は慣れない下女の仕事に取り掛かった、お湯を沸かし、その桶に花弁を散らせ、典黙の上着も脱がした。
意外にもたくましい典黙の体は糜貞の目を逸らさせた。
糜貞は慣れない手つきで典黙の背中を流していると、そのひんやりしている手が程よく気持ち良かった。
コレこそ転生者の享受すべき生活だな…
典黙「あぁ、肩凝ってるから揉んでくれよ」
この時の典黙の顔は弛みきっていた。
典黙「もう少し強くできないのか?お兄さんを助けたい気持ちはそんなものか?」
糜貞は我慢できずに思いっきり典黙の肩を拳で叩いたが、典黙からしてみればそれがちょうど良かった…
典黙は達成感に満ち溢れていた、その達成感はまるで暴れ馬を手懐けたようなもので、又は高い山にやっと登頂した様なものだった。
糜貞「ね!いつまで下女すれば気が済むのですか?」
典黙は振り向いて糜貞の可愛い顔を見てニコリと笑って
「一年くらいかな、そんなもんでしょ」
糜貞「振り向かないでよ!」
糜貞は恥ずかしくて目も合わせられなかった。
糜貞「言っときますけど、下女してる間は変な事しないでよ!」
典黙は曹操の口ぶりを真似て「安心せい」
それを聞くと糜貞は少しホッとした。
そしてすぐに典黙は続けて言う
「変な事してもちゃんと責任取るから!」
糜貞は再び全力で典黙の肩を殴りつけた。
この日の夜、典黙はとてもよく眠れた。
翌朝、欠伸をしながら糜貞は大人しく典黙の着替えを持って来た。
今日は勝敗が決する日、典黙はいつもの漢服ではなく白の肌着に鎧を身に付けた。
パッと見て、確かに戦場を駆け巡る少年英雄の面影があった。
その面影に糜貞も少しドキドキしたものを心に感じていた。
「参ります!」
典黙は出口の方へ振り向き、いつもと違う毅然とした態度で出て行った
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