月の下のセレナーデ

滄 未泥

月の下のセレナーデ

 足元をうごめくヒトの頭を少女は冷たく見下ろした。

 明るいグレイの瞳は何の感情を灯すこともなく、ただ水晶体を通った光が機械的に或いは自然にその網膜の上に上下さかさまの像を結ぶ。それは言うまでもなく何一つ特別なことはない生物の眼球というものがおりなす生理現象ともいうべきものであった。

 おおよそ七百平方メートルほどの縦に長い面積の四分の一を占めるのは、のぼるにつれて徐々に面積を狭め、一段の形が半円に近づいていく階段状の祭壇だった。室内には中にあるものをくっきりと照らすことができないほどの力の光源が天井と壁にぽつりぽつりと散りばめられている。仄暗いなかで祭壇の下、床面積の残りの四分の三を埋めているのは人だった。呆然と、縋るように祭壇の上を見つめる人。その視線の先、祭壇の最上段には一つの椅子が置かれていた。

 背の丈が一メートルは軽くありそうなその大きな椅子は光の当たり具合で臙脂にも朱殷にも見える革に覆われた座面も背凭れも艶々と輝いている。肘置きや周囲の装飾は鈍い銀に彩られており、その雰囲気は重厚という言葉がふさわしいだろう。

 そしてその上に、一人の少女が腰掛けている。

 光が足りないなかでそれでもはっきりとわかる白髪にはいあおの瞳。ころりと色素を落としてきたような胡粉ごふん色の肌。目が醒めるほどに整ったかんばせは十代半ば、高く見積もっても十代後半であることが窺える彼女に大人びた印象を植え付けている。いっそ神々しさや神聖な印象を与えるその風貌は間違いなく典型的な先天性白皮症――アルビノだった。けれど、それがどういうものであるかを理解しているものはここにはいない。無思考に彼女を仰ぎ見る群衆には彼女のその容姿がひどく特別なものに見えていた。

 歳だけを考えるといたいけともいえる少女が重苦しい雰囲気を纏った椅子に座り、少なくとも十や二十では収まらない人々に仰がれている光景は間違いなく異常だ。けれども、確かに人々の視線が向けられているのは、縋られているのは、彼女だった。たったひとりの年端もいかない少女。多くの大人が、そしてそれにつれられた幾人かの子供が彼女に真剣な眼差しを向けている。しかし彼女は前述したとおり、そのことに関してなんの感情も見せることもない。単なる風景として群がる人々に目をやっている。そのことが当たり前のように。日常であるかのように。

 神子みこさま、不意にそう群衆の内の誰かが発する。それは波紋のように人々の鼓膜を振動させ、人々の声を共鳴させる。たちまちに仄暗い室内は少女に向けて発せられる「神子さま」という音で満たされた。それでも仰がれた彼女は眉一つとして動かすことはない。じっと椅子に座ったまま微動だにせず、慣れた様子でそこにいる。

 数分にも思うほどの数十秒が人の声に浸かりながら過ぎ去り、そこで少女はようやく瞬きをひとつした。おもむろに立ち上がり、右の手を掲げるように差し出すと煩いほどの人々の声が嘘のように静まりかえる。

「加護を」

 そんな一言だった。彼女が発したのはそれだけだ。しかしながらたかっている人々にはそれで十分だったらしい。ほんの一瞬時が止まったかのような沈黙が場を支配する。そして更なる蝉騒せんそうを伴って静寂は弾け飛んだ。

 ああ、だの、おう、だのそんな意味のない声に混じって少女を指す「神子さま」という言葉が飛び交う。騒々しいなか、彼女はそれに一瞥をくれると心底どうでも良さそうな顔をして再度、くだんの椅子へとその身を預けた。

 そうして今度はもう、視線のひとつすら群衆に与えようとはしなかった。



 道景みちかげあさひは神子である、というのは霄(みぞれ)にとっては心底当たり前のことであり、揺らぐことの無い真実であった。

 他のものが持つことのない白。艶やかな髪も滑らかな肌も美しい白蓮の人。瞳は少しばかり青みがかった灰で、彼女の持つの雰囲気を際立てている。信者を見る目にはほんの僅かの感情も無いが、大衆に向けて放つ「加護を」という道景旭の言葉には淡い慈愛のようななにかを霄は感じていた。彼女の感情といえるなにかを、彼女を崇める人々に振りまく姿はまさに神の子だった。

 それが彼女の望むところであるかないかはさておいて。

 兎にも角にも霄にとって道景旭は「神子」であった。そしてそれと同時に彼女は霄の友人でもある。それも少しばかり話したことがあるだとか、二回会っただけだとか、そんなものではない。道景旭は霄のことを「白刻霄しらときみぞれ」という一個体として認識し、その芯のある美しい声で「霄」と呼ぶ。そして霄も彼女のことを「神子さま」とは呼ばずに当たり前のように「旭」とそう呼んでいる。間違えようもなく、他に選ぶ言葉もなく、二人の間に転がる関係性は「友人」だ。それ以外にない。

 霄と旭の出会いは普通、と位置付けるには少しばかり特殊だった。なにせ新興宗教の神子さまとその教徒の子である。出会いは当たり前に新興宗教の定期集会の時だった。

 白刻霄の両親はもともと何かしらの宗教に傾倒するような人たちではなかった。真面目にコツコツと努力を重ね、地道に日々を生きる。確かに暮らしが豪勢というわけでもなかったがその日暮らしというわけでもない。緩やかに家族三人で暮らすには十分だった。父親の勤める会社の倒産、殆ど時を同じくして母親の勤務先では上役が不祥事を起こし成績が低迷した。父親は当然のように失職し、母親も派遣社員という肩書が首を軽くした。両親の同時期の失業は当時幼かった霄が未だその雰囲気を鮮明に思い出せるほどに白刻家を暗くさせた。そんな彼らが救いを自分たちの外に求めるのは時間の問題だった。なにが最初に彼らのなかで「救い」だとされるかだけが彼らの運命を左右する。

 そして、最初に彼らの目に手を差し伸べたように映ったのは当時やっと両の手で齢を数えられるようになった道景旭を「神子さま」として崇めるその新興宗教だった。

 はじめは慈善活動の皮を被っていた。いや、正しくそれは彼らに施された慈善活動であったし、新興宗教団体にとってもそうだったのだろう。少なくとも白刻家の生活は改善された。霄も彼女の両親も団体から支援と称された衣食住の提供によってその日一日の生活を心配することも無くなった。正しく救世主となった団体に彼女の両親が心を許すのも自然なことだろう。その日から彼女たちの生活の一部をその団体の活動が侵食するようになった。真面目な彼女の両親は敬虔な教徒になり、その活動を広めるために精力的に動く。彼らは団体に高く評価されそれに喜びを覚えた彼らはより強く積極的な活動を示した。その結果として、特別な集会への出席が許された。それが団体の中でそれなりの成績を収めた優秀な教徒しか出席を許されないという「神子さま」への謁見だった。

 彼らにとっての。霄は両親に連れられてその集会へ出席するために団体の本拠地を訪れていた。幼い彼女は何のことかもよくわからないままに両親の間にぽつりと立って、呆然と多くの大人たちが見つめる先を同じように見る。この世でまだ十年足らずしか生きていない幼子の乏しい知識と旺盛な好奇心ははるか高くの椅子に置物のように座る同い年くらいの少女の姿にその矛先を惹きつけられた。見たことがない自然な白。仄暗い室内で輝いているようにすら思えるその姿に霄の脳裏には白い羽が舞い降りた。てんしさま、とそう呟いた霄の頭をそっと撫でた彼女の母親は霄に彼女を指す言葉を耳打ちする。「神子さまだよ」と。

 発している言葉の意味が分かっているのかも定かでない「加護を」という真っ白な少女の声を自身の親も周りの大人もひどく貴重なもののように受け取る姿に疑問符を浮かべながら霄は「みこさま」と負けず劣らずつたない口調で呟いた。大人たちの不可思議な行動を横目に霄はそっと祭壇の間を抜け出す。みこさま、をもっと近くで見たかった。できれば話してみたかった。きっとこのまま階段状の祭壇を駆け上がったとしてもすぐに大人たちに捕まってしまうだろう。下手を踏めば二度とこの場所に入ることができないかもしれない。だから彼女は薄暗い部屋から滑り出た。神子の姿に意識を吸い寄せられている大人たちの誰も、幼い子供が集会を抜け出し神子のもとへ向かおうと画策していることに気づかなかった。

 果たして彼女があてずっぽうに進んだ先の部屋にはいた。暗い部屋で見るよりももっとずっと綺麗に光って見える髪の毛は霄の脳に本当の美しさというものを教え込む。幼さゆえかその衝撃からか実のところ霄はその時のことを詳細に思い出せない。ただいつの間にか霄は彼女の名前を知っていたし、彼女――旭は霄のことを「霄」と呼んでいた。

 それからずっとふたりはともにいる。最初は大人たちの目を掻い潜っていた彼女たちの密会は徐々に明らかなものになっていった。抑制ばかりでは反発を生むとした大人たちはそれを容認。彼女たちが一緒にいる時間は長くなっていく。

 

 日々が過ぎ去り、二人は高校生になっていた。

 

 深まる秋に流されながらふたりは、ふたりきりで並んで足を進めていた。手を繋ぐことができる距離で、けれど決して触れることなく。足並みだけを揃えて。お揃いの制服にお揃いのローファー。スカートの丈だけが少し違う。こきの光に照らされて、ひび割れたり一部が隆起したアスファルトの上に少女の影が二つ落ちていた。

 霄は視線を横に寄せて隣の彼女を見る。黙ったままの彼女と歩くこの道が霄は好きだった。けれどもなんだか彼女の声が聞きたくなって、旭、と霄は呟くように隣の存在に呼び掛ける。

「ん?」

 朝の光よりも目に眩しく、けれども月の光のように自然と目が惹きつけられるような綺麗な顔が横から覗き込むように霄の表情を窺った。

「霄? どうしたの、そんなに眩しそうにさ」

 鈴の鳴るような、なんてそんな細く頼りなく美しいだけの声じゃない。きっといろんな人が思い描く美少女の声なんかじゃない。少し低くてほんの僅かに掠れていて、それでいてひどく耳障りのいい声。冷たい空気と霄の鼓膜だけを揺らすやわらかな音。それに霄は細めていた目を開いた。

「旭が、あんまりきれいだから」

 ぽかり、とそんな文字が旭の後ろに浮かんだようだった。白く長い睫毛に彩られた瞼がするりと持ち上がり、灰青の瞳が見える面積を広げる。白い肌に馴染みながらも滑らかかつ鮮やかなまそが数回はくりはくりと息を吐き出した。溜息のような、呆れた笑いのような呼吸音。霄、とほのかな音が紡がれた。

「霄はいっつもそれだ。旭はきれいだ、ってそうやって言う。……白いばっかでさ、私、あんまり好きじゃないんだけど。でも、でもさ。霄がそう言ってくれるから、まあいっかって。そう思ってるよ」

 今度は霄が息を吐くように笑う番だった。大きく一歩を踏み出して、旭の行く手を阻むように霄は反転した。蝋色ろういろの髪を揺らして、旭の瞳を真っすぐに霄の黒鳶くろとびの瞳が見つめる。

「――ばかだなぁ、ほんと。こんな言葉ひとつで旭が生きやすくなるなら何度だって言ってあげるのに」

「だから霄はいっぱい言ってくれてるって。これ以上言われたら耳に胼胝ができる、どころか霄がいなくても幻聴で聞こえ始めちゃうよ」

「え、いいじゃん。わたしがいなくても旭がわたしのこと感じてくれるってことでしょ。めっちゃいい。もっと言っちゃおうかな」

「やめなって。誰もいないところで霄のこと探してたらどうすんの。不審者確定だよ?」

「大丈夫大丈夫。旭はきれいでかわいいから許されるよ、多分」

「多分って言っちゃってんじゃん。それにまた言ってる。ほんとに霄ってば、もう」

「……仕方ないなぁ! じゃあ、ずっと傍にいるから。ね、それでいいでしょ?」

「責任取ってくれるってことね。いいよ、それで手を打とう」

 旭はほんとわたしのことが好きだねぇ、と茶化すような言葉に旭は迷いもせずに頷いた。

 私、霄のこと好きだよ。そんな言葉を恥ずかしげもなく真っ直ぐに吐き出す旭の目の力に霄は思わずたたらを踏む。霄を追い越すように歩き出した旭の手がふらついた霄の手首を掴んだ。

「え、あっ、旭! あぶなっ、危ないって!」

 思いがけず後ろ向きに数歩歩く羽目になった霄の悲鳴のような慌てた声に旭は年相応の悪戯めいた笑顔を返す。それから、しょうがないなぁ霄は、とわざとらしいため息と共にそんな言葉を口にすると霄の手首を離して振り返るように左手を差し出した。

「じゃ、ちゃんと繋ご」

 霄は躊躇うように辺りを見回した後、ゆっくりと右手を伸ばす。それに焦れたのか旭はぐいと勢いのままにその左の掌を霄の右の掌に重ねた。ほとんど同じ、けれど旭の方がほんの少し低い体温はするりするりと肌を介して伝ってくる霄の体温に近づいていく。ぴたりと同じぬくもりを携えるまでほんの数秒。その数秒が、その数歩程度も歩けない時間が、彼女たちには長く思えてしまう。やがて掌の境目が分からなくなったころ、ふたりはどちらからともなく安心したような息を吐いた。

「あーあ、旭に捕まっちゃったなぁ」

「もう逃がさないよ、霄」

「逃げる気もないっての。さっき言ったじゃん、ずっと傍にいるって」

 旭は霄の顔をじっと見つめていたかと思うと、徐にぎゅうと掌に、そしてその細い指に力を入れた。だからといって霄の手を握り締めるというようではない。霄に痛みを感じさせないギリギリの力加減で旭は霄の手に縋っているようにも見えた。

「旭?」

 霄の少し大人びた声が旭の名前を象る。霄の黒鳶の瞳が繋がれた手から滑るように旭の白髪へと移り、灰青へとたどり着く。その視線から逃れるように、或いは誤魔化すように、旭はほんの一瞬俯くと次の瞬間にはその目を真っすぐに前に向けた。その手の力はそのまま、彼女は一歩を踏み出しながら繕ったような軽い口調で言葉を紡いだ。

「このまま、どこにだって行けちゃいそう。霄と、ふたりで」

 ぱちりと霄の瞼が一度素早く上下した。旭につられるように足を進めた霄はほんの僅か先を歩く旭のことをそっと見つめる。何度見たって、何秒見たって、霄の目に映るのは美しい白に覆われたつるりとまるい後頭部だった。もちろん、視線がかみ合うことはない。けれど霄には今この瞬間の旭の表情が手に取るようにわかる気がした。

 きっと、諦めと後悔とそして隠し切れないほんの小さな小さな期待が入り交じった表情を浮かべている。

 それを分かっていて、霄は旭、と静かに彼女の名前を呼んだ。

「ね、旭」

「……なに」

「逃げちゃおっか。このまま、ふたりで」

 ぴたり、旭の足が止まる。

「旭」

 霄が再び彼女の名前を呼ぶと旭の肩が一度小さく跳ねた。

「むりだよ」

 震えた旭の声がそう空気を揺らす。無理矢理感情を抑え込んで、繕った無感情を絞り出すようなそんな声だった。重ねられたてのひらから旭の微かな震えが霄に伝わる。

「むりなんだよ、霄」

 少しずつ旭の声が「神子さま」のそれに近づいていくような感覚が霄を襲う。繋いでいる手から旭がするりと抜け去ってしまう、そんなふうな錯覚を覚える。胸の内にじわりじわりと湧き上がる焦燥のままに霄はてのひらに力を込めた。丁度数秒前に旭がそうしたように。

「ただの高校生が、たったふたり、いなくなったってだれも、なにも、気にしやしないよ。わたしも旭も、誰にも気にされやしないよ」

「だってさ、霄だって知ってるでしょ。私は、神子さま、なんだって。ただの高校生に今更戻れない。私がいなくなったら気にする人がたくさんいる。教徒も、霄の親も、父さんも。みんな。今更、いまさらさ、逃げたいなんて」

 言えるわけない、と悲鳴のような声が霄の鼓膜を揺らした。

 


 道景旭の家は最初は間違いなくただのひとつの家だった。なんの特別性もない、ありふれた、極々一般的な家庭。ひとりの男とひとりの女が恋に落ち、未来を誓い、共に生きていた。少なくとも第一子であり彼らの唯一の子供が産まれるまではそうだったのだ。

 そのすべてが狂うきっかけはたった一つの出来事、「旭」が産まれたその瞬間だった。

 冬の夜明け、彼女は文字通り母親の命を削ってこの世に産まれた。色を落とした彼女は髪も肌も白い。ただ、母親の血液の赤だけがひどく鮮明だった。彼女は母親を夜の世界に置いて、「旭」という太陽の名を背負った。

 愛する妻を失った男は形見の一人娘を大切に育てた。できる限り気を使い、努力をし、父親として愛情を注いでいたが一人では限界がある。彼女が歳を重ねるにつれ、どうしても彼女をひとりにしなくてはならない時間が生まれていく。それは旭が学校から帰ってから父親が帰ってくるまでの時間であったり、彼女の学校が休みの日であったり、どうしても彼女の父親がやらなくてはならない仕事で急に呼び出された時もそうだった。そんなときはいつだって彼女の父親は彼女の頭をその大きな掌でそっと撫で、「ごめんな」と言った。彼女も幼心に父親ひとりではどうすることもできないことを悟っていたのだろう。俯くようにこくりとひとつ頷くと小さな声で「わかった」と聞き分けのいい言葉を返すのが常だった。

 一人ぼっちで父親を待つ彼女は最初は家の中でだけ遊んでいたけれども、少しずつ外へと繰り出していた。家の前、近くの公園、もう少し遠くの商店街、原っぱ。風に流され、気の向くままに走る。人ごみの中も、自然の中も。真っ白な肌も髪も自然光や人工光に照らされて美しく輝く。どこにいても彼女はその容姿からとてもよく目立った。

 そして「目立つ」ということは良いことばかりを招くわけではない。彼女を見る大人の目は気味の悪いものに向けるものであったし、それを見ている子供たちの目も同じもの。そして、そんな幼き日の旭を見つけたのは今となっては、彼女にとって「わるいもの」であったのだろう。けれども彼女以外の人からすれば彼女を見つけたことは吉報であった。

 その日、旭は新たに開拓した人気のない公園で遊んでいた。彼女は一人で遊ぶことが苦ではなく、自然と戯れることも好きだったからむしろ人がいないところは居心地が良いとすら感じていた。確かに人っ子一人いなかったはずだった。

 ミコサマ。

 突然後ろから聞きなれない言葉が彼女の耳に届く。旭が振り返るとそこには複数人の大人が妙に涙ぐんだ瞳で彼女のことを見つめていた。数秒前とは違った声でまたミコサマという言葉があたりの空気を振動させる。幼さゆえの警戒心のなさで彼女が返した反応はただ首をかしげて大人たちを見つめるだけだった。そのことに大人たちはさらに高揚した。嬉しそうに笑いながら、もしくは泣きながら、少しずつその距離を詰めていく。三度目にミコサマと話しかけられたとき彼女はようやく言葉を発する。

 旭はミコサマじゃないよ、とそんな言葉を。

 たったひとりの幼い少女のたったひとつの言葉に大人たちは騒めきたった。太陽の子だ、と。やはり神の子だ、と。この子が神子さまで間違いない、と。

 彼女を見つけた大人たちが巧妙だったということは「彼女を保護した」という名目で彼女を家まで送り届けた初手から窺えるだろう。その日珍しく早く帰ることができた彼女の父親は彼女の行く先が分からず家の前で途方に暮れていた。そんな父親の前にお菓子を食べながらにこにことしている娘を伴った年齢も性別もばらばらの大人たちの団体が現れたとき父親の心を占めたのは紛れもなく純粋な感謝と安堵だった。幼い娘を保護して家に届けてくれた大人たちを疑うほど彼女の父親は警戒心が高くあれなかった。ただでさえ頼ることのできる人もおらず、たったひとりですべてを背負いこんでいたところに現れた思わぬ救いの手だったのだ。彼女の父親の口が少しばかり軽くなったとてなんらおかしくはない。彼は妻を娘が生まれた時に亡くしたことを、男手一つで彼女を育てていることを、彼女が年を重ねたことによって職場で満足な配慮を受けられなくなってしまったことを、ぽろぽろと吐露した。それは紛れもなく彼女の父親の悲鳴であり、救いを求める声だった。

 救いを求めているものを、そして自身の努力を認めてほしいと思っているものを、宗教というものは容易く呑みこむ。

 柔和な表情で、穏やかな言葉で、彼らは旭の父親を労い肯定した。彼が心の底でほしがっていたものを的確に彼に贈る。そうして緩やかに彼は宗教へとその身を染めていった。少しずつ、本当に少しずつ。まるで氷が融けるかのような早さで。

 しばらくして彼女の父親はすっかりと信心深い教徒へ変貌していた。自身の娘が信仰対象である神の使い、神の子であるという言葉に喜ぶほどに。神子さまとして祭壇の上の豪勢な椅子に腰かける娘を崇めながら跪いてしまうほどに。旭の名前を口にすることが減り、旭を呼ぶときは「神子さま」とそう呼ぶようになるほどには。

 そのころにはもう、旭の「お父さん」という声は彼には届かなくなっていた。

 父親が自分の名前を呼ばなくなっても、旭は父親のことが好きだった。たった一人の家族がよく笑うようになったということは旭にとってもひどく嬉しいことだった。もともと彼女はずっと自分のせいで父親が苦労しているのだろうと、そう考えていたのだ。

 自分が神子さまとして言われたとおりに振舞っていれば父親はもっと喜んでくれる。父親だけではなく、他の大人だってにこやかだった。「神子さま」の意味も彼女がそう振舞うことが何を意味するのかもなにもかも彼女にはわからなかった。ただ父親が笑ってくれるとその一点だけを理解した彼女にその役割を拒否するという選択肢はない。彼女は集会のたびに祭壇の上に在り続けた。

 そしてあるとき、旭は霄に出会った。

 初めて出会った自身のことを「気味の悪いもの」ではなく「興味深いもの」としてみる同世代の子供。旭に向かって「神子さま」と言うのではなく「てんしさま」と言う子供。旭にとってその子供が、霄が、とても特別な存在のように映った。そんな子供が自身の言葉を取り消すように頭を左右に振って旭に向かって「神子さま」と呼びかけたことに「違う!」と叫んだのは殆ど反射だった。これはおそらく死にかけていた旭の生存本能の叫びだったのだろう。旭のなかで何かが「この機会を逃してはいけない」とそう繰り返していた。

 だれかに「旭」という名前を、「道景旭」という存在を覚えていてもらうために。神子さまでない自分の生き残らせるための機会を逃してはならないのだとそんな思考が旭の無意識下で回っていた。

「神子さま、じゃない」

 旭の言葉に少女は心底不思議そうな顔をした。

「だってお母さんがそう言ってたよ」

「違う、違うもん。そんな名前じゃない。神子さまなんかじゃ、ない」

 じゃあなんていうの。いっそ無邪気な質問に旭の時は砂時計の砂が数粒落ちるほどの時間、静止した。ねえ、と続きを急かす少女に旭ははくりはくりとその唇を音もなく開閉させる。そのことに何を思ったのだろう。少女ははっと気が付いたという様に口を開いた。

「わたし! 霄!」

 旭が怯んでしまうほどの音量でそう告げた少女、いや霄は期待に満ちた瞳を旭にぶつける。自身が名乗ることできっと旭も名乗ってくれるだろう、とそんな思考がはっきりとその顔に書かれていた。

「……旭」

 ぱあっと一瞬にして霄の表情が輝く。彼女の小さな体が旭に急接近した。旭が目を見開いている間に霄の両手が旭の両の手を包み込むように摑まえる。

「あさひ、ね! 覚えた!」

 花が咲いたような笑顔で彼女は自身の手ごと旭の両手を激しく上下に振った。うれしい、とそんな感情が分かりやすくあふれている。旭、旭、としばらく呼んでもらえなかった自分の名前を彼女がなんども確かめるように呟いてくれることが旭に強い喜びをもたらした。旭、とそう呼んでくれる彼女になにかしてあげたくて旭はゆっくりと口を開くと、霄、と彼女の名前を象る。瞬間、霄の手にきゅっと力が入り、彼女の瞳がきらきらと光る。

「!! 旭! どうしたの!?」

 霄の勢いに再度たじろぎながらも旭は彼女の目を真っすぐに見つめた。

「なにかしてほしいこと、ある?」

 旭の言葉に霄はきょとんとした表情を返す。黒鳶色がより大きな面積で光を反射していた。それからほんの数秒の沈黙のあと、霄はまた花咲くように笑った。

「一緒にあそぼ!!」

 旭は霄をじっと見た。少なくとも、いや確かにこの霄という少女は旭が神子であることを知っている。彼女の母親が旭を指して「神子さま」だとそう言ったのならば彼女の母親はかなり信仰の強い信者であるはずだった。そんな教徒の娘が信じているものに対して「してほしいこと」が遊ぶことなんて、そんなことがあるとは思わなかった。けれど視線の先、霄の表情に嘘は一切ないように旭には見えた。

「あそぶ、だけでいいの?」

「どうして?」

「だって、ほら。神子さまだって、知ってるんでしょ?」

 そんなことを言われるとは思わなかった、とそんな文字が霄の顔に堂々と書かれていた。それでも彼女は旭の言葉の意味を理解しようとしたのだろう。わかりやすく首をかしげて数秒唸っていた。一定の高さの音が途切れ、霄は目を見開くとはたりと呟く。

「やっぱりわかんない」

「神子さまってカミサマみたいなものでしょ。色々お願いしたいことあるって、オトナはみんな言うよ」

 旭の言葉に霄は再度首を捻る。唸り声は先ほどよりも長く続いたが十数秒後にぱたりと途切れる。

「なにか思いついた?」

「ううん」

 そんなことより、と霄は本当に旭が神子であることなど、そしてその神子になにかを願うということなど、どうでもよさそうに言った。旭の片手を引いて、部屋の外へと飛び出そうとする。

「ど、こ行くの?」

「遊び!」

「え?」

「こんな部屋の中じゃ遊べないよ。外にいこ! 広いからきっと楽しいよ」

 導かれるままに飛び出した外の光はもちろん人工的なものではなくて、旭の目にはひどく眩しいものに映った。繋がれた手が、幼く旭と同じくらいの大きさの手が、とても頼れるものに感じてそっと目を閉じた。




 霄は旭の過去を全部知っている。

 教祖の右腕を名乗る知らない大人が鼻高々に語ってきたからでもあったし、旭が霄に直接話してくれたからでもあった。そしてなにより、霄が神子さまに興味を持って旭を探し出したあのときからずっと旭と霄が時間を共有してきたからだった。

 だから霄は分かっている。旭がただの高校生になりたいことも。父親に「神子さま」としてではなく「道景旭」として接してほしいということも。旭が望む生活をするには今更遅すぎることも。そして、旭が持って生まれた白が旭の望みを難しくしていることも。

 旭のことを旭と呼ぶのはもはや自分だけだということも。

 逃げたいなんて言えるわけない、という旭の言葉は間違いなく彼女の悲鳴だった。そんなささやかな悲鳴すら旭は霄にしか零せない。霄が「逃げよう」と言ってようやく引き出せるほどに旭はそれを彼女の奥深くに押し込んでいた。彼女の中に確かにある小さな小さな期待だけを微かに表面に残して。

 霄はそれがもう我慢できなかった。大事な友人が、霄にとって大切なひとが、これ以上自分を殺すところなんて見たくなかった。旭を神という運命から逃がすことで防げるのならばそうしたかった。それがたくさんのひとを絶望に落とすことでも。自身の親が信仰する対象を失ったとしても。自身の中に確かにいる「神子さま」を殺すことであっても。それでも旭が静かに、まるで首を絞められるように緩やかに死に向かっていくくらいならば――。

 それを阻むためならば霄にはなんだってできた。たとえ、それが誰かを殺すことでも。

「言ってよ、旭。逃げたいって、もういやだって、そう言ってよ。そう言ってくれたら、ちゃんと旭の意思でそう言ってくれたなら、わたし。わたしは、なんだって」

 てのひらのなか、同じ温度の違うぬくもりを離さないように霄はそれを引き寄せる。瞬きの間に霄と旭の距離が埋まり、やがてゼロになった。解かれたてのひらよりももっと広い面積で霄は旭と密着する。ほとんど同じ高さの身体に精一杯覆いかぶさるようにして霄は腕の中に旭を閉じ込めた。体温が移る速度が早まることを願う様に霄は旭の肩口に額を押し付ける。

「みぞれ、」

「わたし、なんだってできるのに」

 旭の言葉を遮るように霄は声を発した。霄は自分の声が震えていることを自覚している。ともすれば縋っているようにすら聞こえることも知っている。それでも言わずにはいられなかった。旭の身体を抱きしめずにはいられなかった。

「みぞれってば」

 霄に抱きしめられるままだらりとその体の横に垂れていた旭の腕が徐に持ち上がり、そっと霄の背中を撫でる。同時にやわらかな声が霄の鼓膜を揺らした。彼女の方から触れてくれたことに、なめらかに広がるあたたかさに、鼓膜を擽る耳障りのいい声に、霄は不意に泣きそうになった。

「霄はさ、私といっしょに逃げてくれるの」

「旭がいっしょにきてくれるなら、どこにだって」

 するりと背から旭の手が滑り落ち、軽く霄の腕をたたく。促されるままに静かに力を抜くと旭は静かに身体を離した。霄、とまた旭の声がそんな音を象る。灰青がやわらかに緩みつつ、霄の黒鳶色を射抜いていた。

「ね、霄はどうしてそこまでしてくれるの。どうしてそんなふうに言ってくれるの。私が神子だから、」

 違う、と霄は反射的に叫んでいた。いつかの幼い旭が霄にそうしたように。

「違う! 旭は旭だよ。今、わたしの隣にいるのは神子さまじゃない。神子さまなんかじゃない。わたしの、わたしの大切な、ただの旭なんだよ」

 信じてよ、とそう言う霄に旭はそっと微笑んだ。知ってるよ、と頷いて歌うように言葉を続ける。

「私が神子だから、じゃないよね。霄は私のことを旭としてみてくれる。そんなこと、私がずっとそれに救われてきたんだから一番よく知ってる。でも、でもさぁ霄。私、本当に霄から色んなものをもらいすぎだと思うんだ。私は霄になんにもしてあげられないっていうのに」

 それから少し押し黙ったあと、旭はゆっくりと口を開いた。あの日のように。

「私が、霄になにかしてあげられることはある?」

 ひゅう、と霄の喉が鳴った。はくはくと息だけを吐き出しながら彼女の唇が上下する。数回音を吐き出そうと試みて、すぐには無理だと悟ると霄は首を左右に振った。霄? と不思議そうに尋ねる旭に一度大きく深呼吸して音を取り戻した霄は「そんなことない」と掠れた声を紡いだ。

「旭がわたしになにもしてあげてない、なんてそんなことない。絶対に、ない」

「霄」

「旭はわたしに色んなものをもらってるって言うけどさ、わたしだって」

 霄の手が彼女自身の胸倉に皺を寄せる。わたしだって、と繰り返された言葉はいくらか落ち着いた声で作られていた。そしてその手が脱力したかと思うと、ふわりと旭の心臓のうえに触れる。

「旭は、光なんだよ。わたしにとって。それは旭が神子さまだからなんかじゃ絶対になくて。……わたしはさ、旭に笑っていてほしいんだよ。ずっと、きれいに笑っていてほしい。でも、無理してほしいわけでもない。旭が泣きたいときは泣いてほしいし、怒りたいなら怒ってほしい。それで、できるのなら旭の隣にいるのはわたしがいい。なにができるのかもわからないけれど、旭の隣にずっといたい」

 あさひ、わたしさ。そんなふうに言葉は続く。真っすぐな芯のある声で、迷いなんてものは一切ないように。

「わたし、ずっと、旭といっしょにいられたらそれでいいんだよ」

 きゅうと霄の指がひそやかに旭の心臓の上に触れる。

「堕ちてきてよ旭」

 するりと旭の手が霄の手をゆるやかに撫で、重なった。

「ばかだなぁ。霄は」

 そっと大切なものを抱え込んでいるようだった。慈愛に満ちた、いっそ宗教画に例えられそうなほどに柔らかな声と表情。そのまま優しい手つきで旭は霄の手を自身の胸に押し付けた。鼓動を感じさせる距離に。

「私だって。私だって、霄がいればそれでいいのに」

 ね、霄。そう言って旭は一瞬視線を下に彷徨わせると、霄のことを上目がちに窺った。頬を薄い珊瑚色に染める姿はどこからどうみてもかわいらしいという文字が似合うものだった。

「いっしょに逃げてよ、霄」

 霄の空いた手が旭の髪を彼女の耳にかける。そのまま頬をなぞる。触れられたてのひらに旭はそっと擦り寄った。

「いいよ。ずっと遠くまで、行こう」

「ずっと?」

「そうずっと。ずっと、ずっと遠く!」

 旭が輝くように笑う。美しく、無垢に、無邪気に。きっと彼女のその綺麗な笑顔のためならば万人が持ち得る全てを投げ出してしまうとそんな予感すら覚える。

 霄は例えこの世で生きたすべての記憶を失ったとしても、今この瞬間自分の目に映った旭の表情を忘れることはないだろうと、そう思った。

「なんにも分からない場所に行こう。私たちふたりがお互いのことしか知らないようなところに」

「まっさらな世界へ?」

「いざ、冒険の始まりだ! ってね」

 目が合う。灰青に黒鳶色が、黒鳶色に灰青が、はっきりと映った。

 もう一度どちらからともなく、ふたりのてのひらが重なり合う。

 空の端では竜胆色が深紫に変化していた。そして今日最後の太陽の光が空に一筋、紅を引いた。

 すっかり太陽が落ちた世界で少女二人の影はない。踵も革もすっかり擦れてしまったローファーが劣化したアスファルトを叩く。かつかつと緩やかだった音は少しずつ速くなって、やがてリズミカルな曲を奏で始める。軽やかに、自由に。それと同時になめらかに彼女たちの口から晴れやかな笑い声が零れた。

 遠くへ!

 霄が叫ぶ。

 遠くへ!

 旭が叫ぶ。

 遠くへ!!

 ふたりの声がぴたりと揃う。大きく一歩踏み出す。ほんの一瞬ふたりの身体は空中に放たれた。とっとん、と硬質な音をたてて四つの踵がそれぞれ地に触れる。旭も霄も自然に顔を見合わせるとより一層大きな声で高らかに笑った。心底楽しいと言わんばかりに、おかしくて仕方がないとばかりに。

 この世の中には彼女たちふたりしかいないのだと、そう主張するように。

「ねえ、霄!」

 長く一緒にいる霄すらもほとんど聞いたことがないような旭の跳ねた声が霄の鼓膜と辺りの空気を震わせた。繋がっている手に促されて旭よりもたったの一歩先にいる霄もその足を止める。振り返った先、星明りと月の光に寵愛された白蓮の人が霄の前に立っていた。

「どうしたの、旭」

 「霄、私さ」と真朱の唇から芯のある声がまろびでる。

「いま、すっごく、自由じゃない?」

 快活な調子で告げる旭に霄は頷いてみせる。それを見た旭は確かめるように叫んだ。

「もう私、神子さまなんかじゃないんだ」

 旭のその言葉はふたりの鼓膜を揺らした。霄と、もう一人。すっかり浮かれてしまっている彼女たちが気が付くことができなかったもうひとりは、彼女たちのすぐそばでその言葉を聞いていた。

 神子さま、と旭を呼ぶ声がする。

 男の、低い声だった。旭も霄も聞きなれてしまった声。そんな声が再びふたりだけだった世界の空気を揺らす。神子さま、と呼ばれたとき旭の肩が怯えるようにピクリと跳ねたのを霄は見逃さなかった。

 とうさん、と震えた少女の声が男を呼ぶ。蚊の鳴くような声だった。そしてこの声に何が返ってくるのかを霄は知っている。旭の一番隣にいた霄が、その言葉を旭とずっと聞いてきた霄が、知らないはずもなかった。

「俺に娘はいない」

 やっぱり、と霄はそう思う。

 彼の男は。旭の父親は。彼はすっかり狂ってしまっているのだ。旭のことを娘だと思えない。信仰対象の「神子さま」としてしか捉えることができない。少しずつ宗教に染まり、のめりこみ、心の拠り所にした男は一番守るべき相手を見失ってしまっていた。

「神子さま、集会のお時間ですよ。帰りましょう。たくさんの信者が、」

「私は神子さまなんかじゃない!」

 旭の叫びが男の声を遮る。反射的な行動だった。生き物が自分を守るために取る、原始的な防衛反応。それは明らかに様子のおかしい男の感情を爆発させるのには十分だった。

 だから、それと同時に霄は旭に飛びついた。

 ほとんど同じタイミングで、けれど確かに少しずれて、二度の衝撃が旭を襲う。霄によるものと、男によるもの。そして、旭の耳元で霄が呻いた。

 衝撃とともに勢いで地面に倒れこんだ旭は濡れた感覚に視線をやった。そこには、背中から鈍い銀色を生やした霄がいた。旭に覆いかぶさるようにある彼女の胸からもほんの少し銀が覗える。

「霄!」

 旭の大声に驚いてか、はたまた彼の手を染めた赤に驚いてか、どちらにせよ男はなにか訳の分からないことを叫びながら霄の背に生えた銀色を引き抜いてどこかへと走り去る。そんなことは旭にはどうでもよかった。今、彼女の頭の中を占めているのは目の前で少しずつ赤に塗れていく霄のことだけだった。

「みぞれ、霄! どうして、」

 霄の身体が崩れ落ちそうになるのを支えようと旭は咄嗟に体を起こした。座り込むような格好の旭に霄はぐったりともたれかかる。それでも、旭の耳元に囁くように霄は言葉を発した。

「確かにわたしだけの、だったんだ。わたしの隣にいる間、旭は神子さまじゃなくて、わたしだけの旭だった。――旭は今、わたしの隣にいたでしょ。だから、わたしのなんだよ。わたしのものをわたしが守るの。当たり前でしょ」

「みぞれ……」

「ね、旭。旭はさ、ちゃんと逃げられるよ。わたしが隣にいるかどうかは問題じゃない。ひとりで、旭は生きられる」

 霄の声は少しずつ弱まっていく。流れ出る茜色は徐々に蘇芳すおうに変わってしまう。胸の動きはゆるやかに小さくなっていく。それは彼女がなだらかに、けれど確かに彼岸へと送られていることを意味していた。

 それでも彼女の声は未だその輪郭をしっかりと保っている。まだ生きていると旭に伝えるために。まだ旭は独りじゃないのだと教えるために。そして、これからひとりになってしまう旭に言葉を残すために。

 そのために霄はまだ、瞼を閉じてはいない。

「あさひ」

「いやだよ。私、いや。ひとりでなんて生きられない。生きたくない。霄がいない世界なら、私――」

 それでもさ、と霄は旭の言葉を遮った。ゆるやかでやわらかな、まったくと言っていいほどこの場にそぐわない声色。その口元は僅かに持ち上げられているようにすら見える。

「それでも生きててよ、旭」

 霄の言葉は正しく、呪いだった。

 ひとりがいやだと泣く子供に、その先を、と。慈しむような表情とは裏腹に、それが霄自身の我儘であることを知っているかのような音。そして、旭ならば自分の残した呪いを祓ってしまおうとは決して思わないのだろうという自信は閉じかけた黒鳶色に強く反映されていた。

「霄は、」

「うん」

「みぞれは、ひどい」

「うん、ごめん」

 ぎゅう、と旭は霄の胸から流れ出る赤を握り締める。その白い手に赤はひどく映えた。

「霄は、さ」

「うん」

「私のことが、きらいなの」

 思いがけないことを尋ねられた、とばかりに霄の瞼が少しばかり持ち上がった。それから眦を緩め、やさしい溜息をひとつ吐き出す。

「ばっかだなぁ、旭は」

 もうすでに多くの命の水を流してしまった身体では持ち上げることすら難しいのだろう。それでも霄は十数秒かけて血に塗れた彼女自身の左手を持ち上げると、そっと旭の頬に触れる。つう、と白い頬に紅が引かれた。

「あいしてるよ、あさひ」

 だから生きてね。

 その言葉を最期に霄はほそく息を吐いた。旭がちいさく、けれど確かに頷いたのを見ることもせずに。

 

 

 無機質な音がする。人の声から零と一のデジタルデータに変えられた音。

「先月中旬の早朝、娘の友人である女子高生を包丁で刺したことによる殺人の容疑で逮捕された道景――」

 不快な音を遮るように少女は白い両の手で耳を塞いだ。ごうごうと自身のなかに流れる血液の音だけを聞いて、美しい灰青が窓の外を眺める。朝、というには少しばかり高い位置にいる太陽の光に照らされた彼女の髪は雪のようにきらきらと輝いていた。

「――」

 真朱の唇だけを動かして、空気を揺らさない言葉が象られる。唇の動きからして、おそらく三音。そっと伏せられた瞼が妙に痛々しい。

 彼女のほか、だれもいない部屋のなかで彼女の鼓膜だけを「旭は綺麗だよ」とそんな声が震わせていた。

 

 祭壇の上、しばらく誰にも座られていない重厚な雰囲気の椅子は次の主が決まることを静かに待ち続けていた。


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