それがセクション・マネージャのベネディクトだと分かるまで少し時間が掛かった。「君はまだ正気か?」その問いの訳が分からぬまま、大きな声で「イエス」と答えた。私達は速足でオフィスの出入り口に向かっているようだ。

 ボックス席が並ぶ通路。みな踊りを誰かに見せている。ある者は両指を耳にあてヘッドバンキングを繰り返す。別のある者は、左のマブタを小指で持ち上げ、右手を突き出して回しながら、左足だけで立ち、ぴょんぴょんと跳ねる。それらは唐突に終わる。すると見せられていた相手が踊り始める。

 出口前にたどり着く。踊り合う一団がいる。幸いこちらには気づかない。こんどは、忍び足に変え静かに、外につながるもう一つの扉に向かう。ガラス張りの会議室の前を抜けようとする。そのまま進むか悩んで様子を伺う。

 中では数名が会議しているようだ。彼らは正常なのか。どんな手段で意思疎通が成り立つのかと思った。ホワイトボードの前に、アフリカ系のスタッフが進み出ると、左目をつむり、出した舌を右手でつかむ。そしてその場で足踏みをしながら左手を大きく回す。一連の動作が終わると、着座していたアジア系のスタッフが立ち上がった。おもむろに別の踊りを始める。

 ベネディクトと私は思わず顔を見合わせた。彼らは、何度か踊りを見せあった後、ノートパソコンで何かを記入したり操作したりを始める。

「見たまえ、開発アプリを開いている。感染者たちが『オルド』を改変するかもしれない。この状況は予想してなかった。私は自分の執務室に戻るべきだ。一人で脱出できそうか?」

 その時、向かっていた出口の方から、グシエラが歩いて来た。私と目が合う。にっこり笑って駆け寄ってくる。安堵から思わずハグしようと手を広げた。だが彼女は一歩手前で立ち止まる。顔全体をしかめて、右目を上に左目を外側に向ける。人差し指を右の鼻孔に入れて出し入れしはじめた。

「逃げよう!」

 手を引いて走り出すベネディクトの後を追う。踊る人々を避け、仕切り壁が並ぶ角を何度か曲がる。目の前に現れた彼女の執務室に逃げ込んだ。振り返ると何名かがゆっくり追ってくる。私は直前でガラスの扉を閉めて鍵をかけた。扉の向こうでは、顔全体をしかめて、右目を上に左目を外側に向ける。人差し指を右の鼻孔に入れて出し入れし始める。なぜか目が離せない。それを遮るように視界が白く曇る。

 執務室の透明の壁が曇りガラスに変わっていく。入口横にあるスイッチをベネディクトが操作する音で我に返った。

「いったい、どうしてこんなことに」

 私が吐き捨てる。ベネディクトはデスクに移動して、ノートパソコンを開いた。窓の外は日が暮れている。普段よりは少ないが、ビルの窓には明りが灯っていた。

「ヨーナスが投稿した動画を見たか?」

「フランス・アシシラが映っていたアレですか。冒頭で見るのを止めました。何を言っているのか分からなくて」

「懸命だな。オリジナルは感染者のソレ以上に、目が離せなくなるようだ。私はあれをとりあえず「ファースト・トーク」と呼んでいる。最後まで見ていたら感染していただろう」

「なぜ、それが分かるんですか」

「途中まで見たからさ。引き付けられて身を乗り出した。その時ペットボトルを倒して、慌てた勢いで呪縛から解けたんだ。アシシラは進化認知脳言語学とか、非言語言語学と呼ばれる分野を研究していたらしい」

「なんですか、それ?」

「発話や文字意外の手段で情報を相手に効率的に伝える方法の研究らしい。ヨーナスは彼に師事していた」

「では今回の騒動はアシシラによるテロで、みんな精神を汚染されて操られていると考えているんですね」

「NSAがそんな研究をしているとう噂がある。ありえない話じゃない」

 しばらくして、ベネディクトはノートパソコンの操作を終えた。

「さぁできた。これで日本支社では、君と私しかコードを修正できない。投稿されていた動画も既に消してある」

 私たちの沈黙の間にも、執務エリアで踊る人々の足踏みやジャンプの振動が伝わって来ていた。また、唸り、のどを鳴らす音や奇声も聞こえる。

「次はどうします」

「国務大臣経由で機動隊なり自衛隊。つまり、しかるべき機関につないでもらうべきだろうな」

「それには復旧させないといけませんね。貸してください」

 私は開発アプリで例のライブラリを開く。画面に、聖書のさきほどの一節が表示される。

「こちらを」

 ベネディクトが覗き込む。少し微笑む。

「創業者のセデルか書いたモノだ。ただのジョークだと聞いている。何を入れても開く」

 キーを叩いた彼女の表情が変わる。何度も入力してエンターを押す。

「なぜ開かん。こんなハズは」

 つづけて「Genesis 11:1-9」であるとか「G1119」などを打ち込んでいるが、ライブラリは開かない。

「障害の原因はコイツだと思っています。いったん整理しましょう。全世界同時障害が起きた。同日、社内に精神を汚染する動画が共有された。これは偶然でしょうか?」

「計画されたものだと言うのだな」

「ヨーナスが手引きしたとお考えですね。彼もこのジョークを知っていたでしょう。これぐらいの皮肉は思いつく」

「だとして、アシシラの目的は?」

「そこまでは流石に」

 沈黙と共に、振動や奇声が止んでいることに気付く。とたん部屋が暗くなる。曇っていたガラス壁が素通しになった。外には何名ものスタッフが立ってこちらを見ている。解き放たれたヨーナス。ワナや、アフマドも混じっていた。不自然なぐらいに自然な表情を浮かべている。

「見るな! やつらブレーカーを落としやがった」

 ベネディクトが絶叫する。慌てふためく我々の前で、外のスタッフは踊り始める。咄嗟に目を閉じて難を逃れた。

 しばらくすると、足踏みや奇声が止んで静寂が訪れる。

「前回見たとき以上に抗い難かった。人数の問題かもしれない。感染したと思う」

 驚いて目を開き、彼女の方を見る。

「私は外に出る。すぐにドアを閉じて鍵を掛けろ。あとは頼む」

 そういって扉に向かって歩き出した。手前で立ち止まる。しばらくして振り返った。

「分かった。そうか、これは福音なんだ」

 私の目を見て言い放った。

「どういうこと?」

「大丈夫だ。踊りを最後まで見れば問題は解決する」

 私には精神の汚染が浸透したのだとしか思えなかった。ベネディクトは外を向いてガラスの壁越しに短く踊って見せた。進み出たヨーナスがそれに応じる。

 私に向き直って言う。明瞭な英語だった。

「バベルの塔からこっち、人類は統一された言語を持つことはなかった。だが神はお赦しになられた」

 「ファースト・トーク」が部屋の中と外で始まる。こんどこそ、引き付けられ目をそらせなかった。終わるとしばしあたりは静まり帰る。だんだんと幸せな気分になってきた。今までのことがバカバカしくなった。私もつい照れながら、新しい言葉での会話を始めた。

 

 ヨーナスは社内で唯一のフィンランド語話者であった。後から分かったのだが、自分自身も事態の解決に何かしらの貢献が出来ないか考えた。そこで誰とも会話出来ない状況の改善を思いつく。大学時代師事しており、個人的に親交もあった、フランス・アシシラに相談した。アメリカで「オルド」の停止による惨状を目にしており事態に緊迫感を感じていた彼は動画を送った。新たな言語は人間の進化心理学的に共通する脳の部位に効果的に働きかけ、より沢山の情報を従来の言語より効率的に伝達可能である。また容易に内容が相手の記憶に定着した。

 アシシラは復旧に必要なコミュニケーションを取るのに必要最低限の人数にしか言語を教えてはならないと言い含んでいた。だが習得にともない高揚感と伝播への欲求が引き起こされるとは認識していなかった。彼自身は研究課程で耐性が出来てしまっていたからだ。結果ヨーナスがチャットに共有した動画により日本のほとんどのスタッフが習得する。

 新たな言葉を得て、相互コミュニケーションを回復した日本支社の東アジア運用部であったが、創業者セデルの「謎かけ」は解けなかった。運用チームのメンバーは高揚と伝播の欲求から緊急処置として動画の拡散を選んだ。それには「オルド」のインフラが使われた。

 翌日のフロリダでの説初日。後の合衆国大統領は、まず顔全体をしかめて、右目を上に左目を外側に向けた。以降、公的にも「ファースト・トーク」の名で呼ばれる教育用の踊り。それは全米に向けて言語を行きわたらせた。彼はそれから静かに原稿に目を落として、遊説を新しい言葉で行った。

 事態の発端になったシステム障害。こちらはセデルの死後、時間の経過で発生。かつライブラリが開けなくなる仕掛けであった。事態の大きな変化により、解答を得られたのは三日後である。

 ラテン語とヘブライ語、アラビア語で、バベルの一節を入力する。つまりよく考えれば他愛無いモノである。「今さら、レッシングの『賢人ナータン』かよ」社内では一様にそう毒づいた。理念は良い。だがいまや実際の歴史はそんな単純化できる話ではないのはみなが知っていることだ。ポリグロットである彼が、母語でない言語を学ぶ重要性を説いた。世界的な成功で自我が肥大し神を騙りたくなったのだ。などと様々にその動機が議論された。もちろん新たな言葉で。



<了>

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ファースト・トーク 秋吉洋臣 @lesaria

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