Ⅱ
ヨーナスは、それでも踊り続けた。なので抵抗する彼を何名かのスタッフで取り押さえた。警察に電話するが繋がらない。結局、ヨーナスは空のと水いっぱいのペットボトルを一本ずつ渡され、会議室に閉じ込められた。
仕切られたボックス席が広がるスタッフ室を見渡せるガラス張りの部屋。セクション・マネージャ、ベネディクトの執務室である。金髪碧眼で肩幅が広く豊満だ。彼女はオフィスで一人だけスーツを来ている。
「君も大変だったな」
勧められ座ったシングルソファ。その正面のデスクからそう私をねぎらう。
「彼は気弱で頼りないところもあるけど、優秀なスタッフでした」
「母国を離れ一人暮らしだそうだ。社内ではフィンランド語話者は他にいない。今回の騒ぎで孤独感とプレッシャーから錯乱したんだろう。あとのことは落ち着いてから考えよう」
彼女は立ち上がり、私に背を向けて、窓の外のビル群を眺めながら続けた。
「朝からこの国の国務大臣にネチネチと嫌味を言われたよ。翻訳されないから、何を言っているか分からないのに。小一時間ね。こっちも切る訳にも行かずそれを聴いてた」
おどけて見せる。
「それはお気の毒様です」
こちらも愛想良く聞こえるように応じた。
「翻訳されないおかげで、いつもよりやり過ごしやすかった。だが、そうも言っていられない」
急に真面目な顔を作り、復旧の目途を聞いてくる。チャットで聞けばいいだろうに。内心毒づきながら状況を共有する。ベネディクトは、会話での統制が取れないながらに、皆自発的にジェスチャーで意思疎通を計っていることを好意的に受け止めた。
定番になっている創業者の話を始める。セデル・リンクス。今では稀有なポリグロット。マルチリンガルで語学とプログラムの天才だった。有名な話だ。二十の言語を操り、深層学習を用い、ほぼ一人で「オルド」を作り上げた。精度は現在に至るまで他の翻訳AIの追従を許さない。
彼の意思を次いで、人類の多様性を社会インフラで吸収して、いつも誰もが個性的であれる世界を維持して行くのに貢献するように。いつもの叱咤激励である。大変に時間の無駄だ。
「世界的な混乱の回避こそが緊急の課題だ。だが明日はフロリダで大統領選の遊説が始まる。忘れていないだろうね」
言い足りなかったのか部屋でる時もこんな具合だ。
「なんとかします」
そう言葉を叩きつけて部屋を出た。
自分のボックス席に戻り「English-MTG」に目を通す。
〈成果なし。ブロンクスまで歩いて帰るよ。原因調査は日本支社で頼む〉
アレクは三十分前に、そう書き残して退勤していた。つい口ぎたなく「ガッデム」と呟く。太平洋時間の二十一時を回っている。それにこんな時の為に世界に運用チームがばらけているのだ。文句は言いづらい。だが今回は障害の状況がこうである。悪態の一言も出る。諦め半分でコードに向かい合う。粛々と確認するが遅々として進まない。再度全体の構成を読み取りなおす。本来助けになるはずのコメントが邪魔で仕方ない。
世の中の状況が知りたくなり、気分転換のつもりで、SNSを開いた。英語での発信を探す。アメリカは夜になって落ち着いたようだ。中国の飯店では言葉が通じなくても客は外食でさほど苦労はしないらしい。とはいえ大体の国では、オフィスに出社した数少ないスタッフは単に時間を潰しているだけだった。
オーストラリアでは、新興のショッピングモールやチェーンの飲食店が休業。ユーロは出勤しようにも地下鉄や路面バスが運休しているといった国が多いらしい。政治に関しては、議員にその国の言葉の話者が多い場合はある程度回っている感触である。だが行政サービスの中断や国ごとのインターネット上のサービスは英語じゃないので使えない。なので、これらに関するぼやきも後を立たない。致命的なのは医療だ。症状が伝えられない。電子処方箋が読めない。手術当日にサインすべき同意書類が読めないと言ったものもある。気分転換にはならず、むしろ精神的に追い込まれた。
作業に戻る前に、チャットを確認する。グシエラが、人が頭の上で手を輪にしているアイコンを付けて担当処理の略称をアルファベットで記してあった。ワナも作業の完了を伝えてきている。彼女は次の行に「ordo ordinis」と文字を並べ、最後に胸の前で手をクロスするアイコンを置いた。
「オルド・オルディニス?」
声に出してみる。それからコードを調べた。プログラムの構成図に乗らない形で、様々な箇所から呼び出されている同名のライブラリがあった。
再びチャットを見る。次の行にアフマドも寸分たがわない内容を書き込んだ。グシエラもそれに倣い、続けてスペイン語で何かを送って来た。その中に「Seder Links」のスペルが見て取れる。もちろん、わが社の創業者だ。次に「Conspiración」という単語を見つける。これは英語では「陰謀(Conspiracy)」だろう。眉を潜めながら開発アプリで開こうとする。だが、ダイアログが表示される。そこには聖書の一節が引用されていた。
「いざ我らくだり、かしこにて彼らの言葉を乱し、互いに言葉を通ずることを得ざらしめん」
その下には「三つの指輪」とあって入力欄。これを読んで何かを入れよと言うのか。結局、聖書のなぞらえかよ。そう思って舌打ちした。ガラにもなく親指の爪を噛んで考えた。頭に何か浮かびかけた時。ボックス席の壁をノックする音が聞こえた。
この日本支社で数少ないネイティブ・ジャパニーズである、リョウコ。映像翻訳サービスに属しているエンジニアのはずだ。
私は立ち上がって迎え、つい何か喋ろうとして黙る。目が合い彼女は微笑む。そして顔全体をしかめて、右目を上に左目を外側に向ける。人差し指を右の鼻孔に入れて出し入れする。そして原始的なリズムで両足を踏み鳴らした。左手を大きく広げてから、三度スクワットする。大きな唸り声で喉を鳴らしながら、染めた金髪を振り乱し頭をゆすった。
何故か見ていたい誘惑に駆られる。彼女を押しのけて誰かが何かを叫びながら私の手を引いた。それでようやく、その場から逃げ出せた。
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