ファースト・トーク

秋吉洋臣

 キッチンには大学院生のタデアーシュ。タンクトップにゴツイ体を縮こまらせて、共用の冷蔵庫からカレーパンを取り出す。次に牛乳パックの中身を喉に流し込む。一息ついてこちらを向き、早口でまくしたてた。何かしら同意を求めているみたいだ。だがチェコ語なので理解できない。私は両手を表向けて「分らない」とジェスチャーする。彼も同じしぐさで応じ苦笑い。キッチンを出て行く。入れ替わりに冷蔵庫を覗き込む。作り置きのレモネードとサンドイッチを取り出した。

 TVの声が聞こえる。朝九時のモーニングショーのはず。それを見ている家主のチェンが北京語で何か叫ぶ。私にだろうか。リビングに向かう。

 彼女はTシャツにホットパンツ姿だ。ソファーの上から「リディア」と私の名前を呼んで自分の両耳を指さした。〈トランス・イヤフォン〉を使えということらしい。ジーンズのポケットから取り出して左右の耳にはめる。チェンはひとしきり何か喋る。だが翻訳されない。すぐさまスマフォで確認するが、バッテリ残量は十分だ。

 次にリモコンを渡された。チェンはTVをさす。いつものモーニングショーではなく、深刻な顔をしたネイティブ・ジャパニーズのアナウンサーが映る。原稿を読み上げていた。

 北京語で表示されるTVのメニューを勘でたどる。翻訳設定から「English」の文字を探して選択した。本来これで番組は英語で聞こえてくる。だが、相変わらず日本語のままだ。チェンは「分かったでしょ」という表情を浮かべた。これは独占的翻訳サービス「オルド」が全世界的に停止している証拠である。頭が真っ白になった。私はそのアジア向け文章翻訳サービス運用チームを仕切っているのだ。

 

 サンドイッチを詰め込んだ。化粧もおざなりにシェアハウスを飛び出す。駅のホームに滑り込んでくる上り電車を見て、交通インフラが生きているのに安堵する。行先表示が漢字のままで読めない。

本来なら、〈トランス・グラス〉と〈トランス・イヤフォン〉によって視覚と聴覚どちらから入る言語もリアルタイムに母語に翻訳される。スマフォやパソコンなどの電子装置だけではない。あらゆる方法で「オルド」は全世界的に、言葉に由来する多様性の緩衝を担っているのだ。

そのため移住の敷居は下がった。どこの国でも都市部は人種の坩堝となっている。東京も例外ではない。世界的に教育も文化背景や言語的多様性に配慮されている。アメリカにルーツを持つ私は親の世代から首都圏に住んでいるが日本語は分からない。


 つり革に捕まったまま、スマフォのアプリを開く。メニューの項目は英語。なのだが、ネット上の記事はライターの母語で書かれている。イギリスやアメリカのニュースサイトですら読めない有様だ。仕方なしにSNSを開きタイムラインを眺める。こっちもだめだ。多種多様な文字で溢れている。意味を成さない。

 プログラム的に、言語でのフィルタは「オルド」の翻訳サーバを介さないハズと推測した。SNSに機能を探したが、もはやアプリに実装されてなかった。諦めてコツコツと英語での発言を確認した。今回の障害と関係ありそうな投稿は北米や南米が中心だった。

 本も資料も読めない。重要な商談が出来ない。裁判が延期された。大学で抗議が成り立たない。言葉が通じず警告なしに市警が発砲した。州議会で議員が会話も出来ないのにののしり合い。乱闘に発展したなど様々だ。

 朝を迎えたオーストラリア勢も、ちらほらとぼやき始めている。時間的にはイギリスや欧州は深夜だ。これから中国が出勤時刻を迎える頃合いである。現代では誰しも母語しか話せない。どうにも社会機能の維持が心配になる。

 社のある虎ノ門駅が近づく。だが電車のアナウンスも翻訳なしだ。乗り過ごさないように、ホームに入るたびに車窓の外を念入りに確認した。

 

 オフィスに出勤し、スタッフとすれ違う。ドレッドだったり、赤銅色の肌を持っていたり、ヒジャブを被っていたりする。みな困り顔を苦笑いに変え、手のひらを表に向けて降参のジェスチャーをした。

 スタッフ・エリアは160センチ程の壁で細かく仕切られている。一つ一つがボックス席となっている。奥行や横幅も同じぐらいだ。自分のスペースにたどり着く。デスクに向かいノートパソコンを立ち上げた。社内チャットを開く。業務は大抵コレで意思疎通を行う。祈りながらルームを一つずつ確認する。こちらも開いたタイミングで翻訳される仕様だ。当然「オルド」がちゃんと動いていた昨日の会話すら読めない。コンピュータが許す限りのあらゆる文字が踊る。混沌の限りだ。つい「ジーザス!」と口に出る。

 英語での発言を追うと事件が起こったのは二時間前。東海岸の二十時、太平洋標準の十七時頃のようだ。一時間前には「英語話者は『English-MTG』に集合」と、投稿されている。よく見ると、チャット一覧にもその名前が増えている。少し安堵しルームに参加した。そこには私を入れて数名参加している。中には日本支社のセクション・マネージャのベネディクトもいる。かつては、ほぼ公用語であった英語話者が社内にこれだけしかいない。仕方ない。多様性は社の方針でもある。キーボードをタイプする。

〈おはよう。オフィスよ。状況を教えてくれる〉

〈日本は鉄道が動いているんだな。NYでは止まっているらしいぞ〉

 そう応じたのはLA本社、北米文章翻訳サービス運用チームのアレクだった。細く背の高い彼の面長な笑顔。黒い肌と陽気な声が想起される。すぐさま状況を尋ねる。

 予想した通り、全サービスが世界同時ダウンとなっているそうだ。つまり別の地域向けのサーバで代替出来ない。悪い報告は続く。ログ、つまり稼働状況の記録からも原因が特定できなかった。ハッキングされた様子もない。テスト用の環境に一つ古いバージョンを再現したが同じ症状。

〈ほんと、大統領選の遊説中だというのに笑える状況だな〉

 皮肉っぽく、しめくくるアレクに尋ねた。

〈コードには目を通してないわけ?〉

〈やりかけたんだ。だけどな、アレを読むのは難物だぞ〉

〈分かった。日本側で目を通してみる〉

 彼は首を振ってから応じた。

〈まぁ頑張ってくれ〉


 最新のコードを自社製の開発アプリで呼び出した。覚悟をして読み始める。何万行に及ぶ、プログラム。つまりコンピュータ向け命令の羅列。それ自身は、アルファベットで表記される。読み解く為に、コメントと呼ばれる「説明」が書かれる。なのだが、ただでさえ複雑な「オルド」のコード。そこには社内チャットと同じく、あらゆる文字が踊る。混沌の限りだ。読める気がしない。

 社が「ダイバージェンスな社会」を理念に全世界的な多様性を翻訳サービスで吸収して成り立たせてきたツケがこれである。

 東アジアの文章翻訳サービス運用チーム。思い出すに英語を話せるスタッフは私だけだったはずだ。だが一人じゃ時間が掛かりすぎる。ボックス席を回った。出社出来ていたのは三人。ガテマラから来ているワナ。メキシコ出身のグシエラ。イスラム系のアフマドだった。ジェスチャーで調査箇所をどうにか割り振る。問題を発見したら、手を胸の前でクロスしているアイコンをチームのチャットに送るように伝わったと思う。だが不安しかない。

 

 席に戻り自分の担当部分を開く。私も開発経験はある。だが管理職で他社から移籍して来た。普段は無縁の「オルド」のコードから障害の原因を探す訳だ。正直検討がつかない。

急に社内チャットから通知がある。運用メンバー全員が参加しているルーム。そこに動画がアップロードされていた。

 白人男性が映っている。去年メディアに散々出演したスタンフォードの言語学者フランス・アシシラのようだ。気難しげに何かを説明する。何を言っているか分からない。英語話者では無かったようだ。すぐに閉じる。

社内の資料を漁るが、その言語多様性から諦めた。着任時に受けたレクチャーの記憶を頼りに、問題となりそうな「命令」や「呼び出し」を検索する。その前後を丹念に読み解いていく。

 ボックス席の仕切り壁をノックする音がした。振り返ると、スタッフの一人ヨーナスがいる。音声系のチームである彼に仕事は頼んでいない。この状況化で何の作業に関して尋ねに来たのかも分からない。だが彼は思いつめた顔で何か説明しはじめる。もちろん全く意味がわからない。しばらくして黙る。緑の瞳で私を見つめる。少し照れ臭さそうな表情を浮かべた。

 急に顔全体をしかめて、右目を上に左目を外側に向ける。人差し指を右の鼻孔に入れて出し入れする。そして原始的なリズムで両足を踏み鳴らした。左手を大きく広げてから、三度スクワットする。大きな唸り声で喉を鳴らしながら、黒髪を振り乱し頭をゆする。口を開き、右手を前に突き出した。気が付けば私は悲鳴を上げていた。

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