この手を、失いたくない
薄目を開けると、川の上には朝靄がただよっていた。
……寒いです。もう朝ですか? まだ二度寝余裕の早朝ですね、おやすみなさい……。
無意識に温かさにすり寄ると、ちょっと湿った感じの毛皮が頬に触れた。
むむ、獣くさい。抱き枕のメェ~エちゃんは安眠ラベンダーの匂いがするの、に?
「……こんなことをお願いするのは恐縮ですが、次から遠慮なく引っぺがしてください」
膝上までめくれあがったマントの裾を下ろしつつ、わたしは虎さんにお願いした。
昨夜の今朝で、生脚剥き出しで虎さんの脚に絡めているとは……乙女の恥じらうハートが真っ二つです。
自分から縋りついたらしいのはマウントポジションで握り締めていた胸毛で一目瞭然。胸毛といっても毛足は長くて襟巻のようにゴージャス、触り心地もこれまたやわらかでアルパカ、は言いすぎですが。
のそのそ虎さんから這い下りた。羞恥心と申し訳なさに目を瞑れば、川原の砂利より断然寝心地が良かったです。もふ。
ああ……朝になっても夢が覚めなかった。
朝日に照り映える虎さんの毛並み。地となる毛は根元が金色で先に行くほど赤くグラデーションがかかり、太く細く、虎独特の横縞が漆黒で描かれる。お腹あたりの毛は淡くて白に近い。二足歩行の獣人さんは、日本どころか世界中を探してもいないだろう。
待てど暮らせど世界が見慣れた顔を見せることはなく、ついにここがわたしの生まれ育った地ではないことを受け入れるしかなくなった。
……異世界だって小説やDVDの中にしかないと思っていたのに、何の因果でしょうか神様。始終ご縁がありますように、と四十五円しかお賽銭をさし上げなかったからでしょうか。ゼロの数を間違えましたか。
日頃の行いが悪いとおっしゃるなら悔い改めます。ですからどうか……。
両手を組んでブツブツ呟くわたしに、若干引き気味だった虎さんが何か言った。
「○○×? ……□×、○□△」
「あいかわらず、さっぱりわかりません」
首を傾げてみせると、虎さんがわたしを捕まえた。
……移動ですね、わかりました。
ぶらんと小脇に抱えられ、森の中の行軍が始まった。
行動が言葉になるのは言語コミュニケーションが成立しないから仕方ないにしても、うら若い乙女を捕まえて完璧荷物扱いですよ?
昨日から薄々思っていましたが、わたしに対する扱いを改善してほしいです。
淑女とは言いません。わたしも自分をしっていますから、エッヘン。せめて人らしく、猫の仔を運ぶようにじゃなくてですねー。
――自分の足で歩かせてもらったところ、躓く、すっ転ぶ、はぐれると、虎さんの足を引っ張るまさにお荷物でした……いきがってすみません。
木の根にぶつけた小指に悶絶していると、虎さんがぽとりと掌に乗せてくれたのは野苺だった。頬張ってニコニコするわたしを抱え、森をかきわけかきわけ、さらにかきわけ、もいっちょかきわけ。
再び日が暮れかけたとき、木立が途切れた先に見えたのはザ☆農村だった。
おおお、建築物だー。
煙突からもくもく白い煙が出ている。
ご飯ですか? 晩ご飯ですね! 野苺だけじゃないってわたし、わかってました!
ニッコニコするわたしに呆れた視線が突き刺さった気がしますが、抱えられたお腹がぐうキュルごろキュルと激しく自己主張しているので、期待は隠せたものではありません。
暗くなった村を出歩く人はいないようで、どの家も扉が閉ざされていた。
虎さんは家々を見渡し、一際立派な家に向かった。警戒するようにそろりと扉を開けたのは、身形の整った中年のおじさんだった。
おおおおおっ、人間だー!
驚いているのはおじさんも一緒で、虎さんとわたしを交互に見てなんだか怯えた顔をしていた。おじさんもその中年腹をまさぐられることを恐れているんでしょうか。
「△□×××○」
「○!? ……△××××△」
交渉とおぼしき会話がなされているけれど、乏しい知識を総動員させても単語の意味ひとつわかりません。
お腹空いたなぁ、とぼんやりしているとおじさんが一度奥に引っ込み、しばらくしてお皿に待望のご飯を乗せて戻ってきた。
虎さんが上着から黄金色の硬貨をおじさんに渡し、お皿を受け取って踵を返した。
すぐ後ろで勢いよく閉まった扉に驚いた。
わたしたちを追い払いたがっているみたい。
家に入れてもらうこともなく、さっさと去れと言わんばかりのおじさんの態度。ちらっと仰ぎ見た虎さんは怒るでもなく黙々と歩いている。
わたしでも嫌な感じがしたのに、どうして?
……慣れて、るんだ。
ふいに理解する。
どの家も玄関は虎さんに比べて小さい。頭を下げないとくぐれない扉は、必然的に中に住むのが人間サイズだと知らせている。
ここは人間の村で、虎さんは“他所者”なんだ……。
人に会えて嬉しいはずの心が、ぎゅうっと締めつけられるようだった。
おじさん宅の裏手に回った虎さんは、納屋の戸に肩を当ててグッと押し、カギを破壊して侵入した。
両手がふさがっているからって力技な……言ってくれれば自分の足で歩きます。
ぴかぴか金色に光る瞳は暗い納屋も支障ないようだ。わたしがおろされた場所は地面じゃなく、草っぽいものの上だった。これが藁ベッドでしょうか、おしえてーおじいさん。
「△□○」
「ありがとうございます」
虎さんに渡されたスープはまだ温かかった。木椀を齧る勢いですすると、じんわりと喉から胃へ、身体中に熱が広がっていく。山間の農村で塩は貴重品なのだろう、あとひとつまみ塩を足してくれたらと願う減塩食でしたが。
温かい食べ物って緊張をほぐしてくれる力がある。
ホッとしたら力が抜けてしまって……。
ぽと、と膝を叩く水音。
湯気、のせいで……視界が霞む。
ああ、鼻水も。
……なにもこんなもので塩気を補いたいわけじゃなかったのに。
「…………あり゛がど、うっ……」
ぐしゃぐしゃと力強く頭を撫でられ、視界がグラグラ揺れてます。
追加で渡された虎さんの木椀で両手がふさがり、涙も拭けないわたしはグズグズ洟を啜りあげた。
誤解です。泣くほどお腹が空いていたんじゃないんです。
虎さんのやさしさはスープと違って、胸を熱くしてくれた。
+++++++++++++++
どうして気づけたんだろう。
誰かの手がさっと眠気を払ったみたいに、その瞬間目が覚めた。
「――どこへ行くんですか」
戸口へ向かう背中に問いかけた。
暗い納屋でも目が慣れればある程度物を判別できる。黒い獣の輪郭は身じろぎもせず、耳だけが機敏にわたしの方を向いた。
用を足すのに断る必要があるのはわたしだけで、虎さんはいつもふらりと姿を消していた。声をかけるのはエチケット違反だと普段なら思っただろう。
直感が働いた。
呼吸にさわさわと膨らんだ毛が、宙でくねる尾が、虎さんの静かな緊迫を表していた。
低く唸る声が返答を紡ぐ。何を言われているかわからない、わからないけれど。
立ち上がって虎さんに駆け寄った。袖口を掴んでも振り向いてくれない。
「虎さん、虎さん」
観念したようにわたしを見下ろす金色の瞳。目を皿のようにして見つめ返した。
「わたしをここにおいていく気じゃありませんよね?」
無償の親切がいつまでも続くと信じるほど子供じゃない。
先日デパートで見つけた迷子をサービスカウンターに預けたように、より適した者へ任せるのは当たり前だ。
移動も食事も虎さんに頼り、何倍も効率を落とす足手まといを延々と連れ歩いてくれるわけがない。
だけど、森で見捨ててもよかったわたしを村まで連れて来てくれた。
強靭な肉体も鋭い牙と爪も、人が恐れを抱くのに充分だろう。知恵を得た獣は野の獣より抗し難い。
虎さんだけなら食事にも不自由しない森から、わざわざ非友好的な村へ来た理由。
なにかを頼める立場じゃないけれど。
ただお礼を言って、この指を解くべきだとわかっているけれど――。
「おいていかないでください。おねがいします。……おいて、いかないでっ……」
強く握りしめた指が震える。ピンと張った布地から持ち主にも伝わったようだ。
虎さんがわたしの頭に手を乗せた。迷いのある手はそれ以上動かない。
悲しくて涙がわいてきた。
この毛むくじゃらの手は、離されてしまうのだろうか。
「○○。……△□×」
緩く引き寄せられた。
今度は頭を撫でてくれた手に心底安堵しながら、わたしは軍服に顔を埋め、抑えきれなくなった嗚咽をこぼした。
まだ傍においてもらえる。もう少し、一緒にいられるんだ……。
再び藁のベッドに戻ったわたしは、渋る虎さんの上着をしっかり掴んだまま眠った。
虎さんとわたし riki @ri_ki
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