スクラップヒューマン

鍋谷葵

スクラップヒューマン

 暮れ方の団地に籠る不気味さに勝るものは無いと思う。薄暗くてかび臭い昇降階段に、新聞や広告が入ったままの玄関扉。狭い台所と時代遅れの冷蔵庫と洗濯機。タイル張りの和式トイレに洗面所。黒カビに溢れた風呂場。申し訳程度の綺麗さを保ったほとんどニスの剥げかけた床板に、半ば腐ってるんじゃないかと思われる畳と埃かぶった吊り電灯の汚らしい和室と、六帖程度のこれまた汚れた洋室。そんなところに紫がかった赤い陽が入ってくるんだからおどろおどろしい不気味さが満たされるに決まっている。

 とはいえそうした住居に住まざる得ない状況もある。収入が低かったり、そもそも収入が無かったり、そういったある種の貧困に陥っている場合がそうだ。また、孤独を避けるために集団生活を強要される住居に住む場合もあり得るのかもしれない。もっとも、昭和中期の匂いに焦がれて住む様な物好きも居るのかもしれない。

 様々な状況の人が団地に住んでるだろう。私もまた人の考える幾らかの状況の中の一つに当てはまるのだろう。

 鉄臭さとカルキ臭さが混じり合ってほとんど吐き気を生じさせるような生温い水が、喉をするすると通ると私は自身の貧しさを思い知らされる。同時に満足な水を供給することの出来ない水道管を放置している行政に腹が立つ。もっともこのような状況に陥っているのは単に私のせいだ。そう思うとむかむかと胸を満たしてきた怒りは失望へと変わり気は急に落ち着く。生ぬるくて湿気に富んだ居心地の悪い秋の室温は私の失望を絶望へと変えていく。エアコンさえ満足に利かない団地の一室に籠り切っている現実が私に突き刺さるのである。

 曇りガラスのコップを鉄臭いシンクに置き、憂鬱な空気が充足しているように思える薄暗い台所から、不気味な陽が差している和室に引き返す。このかび臭くて埃臭い部屋が果たして憂鬱ではないのかと聞かれれば異なるだろう。この部屋にだって暮れ方の団地を包み込む不気味さが籠っているのだろうし、私の生活の雰囲気が充足していて、それらは混ざり合うことによって憂鬱な雰囲気を織りなしているのだろうから。しかしながらこの部屋には光が満ちている。暗い陽であろうともそれは陽であり、いくらか気を明るくしてくれているような気がする。そう、あくまで『気がする』だけなのだ。ただし、思い込みの力はすべからく視界と思考に作用する。暗い場所に居るよりかは幾らか状況は好転しているように思えるのだから。錯覚による認知を現実として思い込みながら私はぼうっとすりガラスの向こう側を眺める。

 現実の全てが一瞬にして好転することはない。現実を変えるためには、例えばこの古ぼけた住居を変えるとするのならば、絶え間ない努力が必要であるし、段階的に変わっていく状況を認知し、そこにある小さな幸福を噛みしめなければならない。おおよそこれを手助けしてくれるのは、宗教あるいは自らの一切を捧げても良いだろうと思える存在であろう。祈りは日々を振り返るにはうってつけの時間であるし、盲目になることはそれ以外を見えなくするのだから。したがって、苦しい生活の中やままならない現実においてはこういったものを見つけることが肝要と言えよう。

 果たしてそういったものが、自我を忘れるほど熱中出来るものが人間には作れるのだろうか。あるいは、自我を忘れるほど熱中しているものが他人によって他人のそれと同程度の存在として認められることがあるのだろうか。個々人の趣味嗜好に適した自らを盲目的にさせる概念、物質、あるいは行動が押しなべて他人のそれと同じ価値をもつのだろうか。いや、そんなことはありえない。昨今、多様性が騒がれているが、自らを盲目にさせるモノの価値を誰もが一様に認めることはありえない。理解には範囲があり、その範囲は本能の躊躇によって制限されているのだから。もしも、この鄙びた地方の汚れた団地に好き好んで住んでいる者が居たとしたら私はその人のことを理解することは出来ない。どういった思考をもってして汚らしい住居に住んでいるのか分からないのだから。ただ、そういったとき、人は歩み寄って互いに分かり合おうと言う。けれども、これはさっき言ったように本能の躊躇によって妨げられる。つまり、互いに異なった価値観を持つ者たちは互いに互いの思考を交えることを躊躇する。例えこれに対して躊躇を持たない勇気ある人間居たとしても、実際には確実にある程度の躊躇を持っている。自らを盲目的にさせるモノにはある程度の快楽、自分でも分からない不可解な悦楽を含んでいるはずだろうから。そのようなおぞましい感情までも赤裸々に語り、その魅力を一切の躊躇なく紡ぎ出すということは不可能である。人間の防衛本能によってそれは難しくなるのだ。

 さも自分が高尚な人間であるかのように、私はここまでぺらぺらと頭の中で自分の理論を述べてきた。しかし、既に気付いているかもしれないが、私は労働忌避者に他ならない。それもこれも徐々に暗くなっていく外を見つめながら語っていたことに依拠している。つまるところ私は私自身を盲目にさせるモノにあまりにものめり込みすぎて、それ以外のことができなくなっているという状況にあるのだ。本と机と原稿用紙の束とシャーペンと消しゴム、これら以外私の世界には不要だと私は本気で考えてしまっているのだ。当然、この和室にはそれ以外のものは何もない。私の世界にはそれだけであり、それ以外の物は全て排除してしまった。

 生活には衣食住が必要である。これを獲得するためには自らの時間を他のために消費し、金銭という対価を得る必要がある。もちろん、私も最低限の生活を営むために幾らかのアルバイトをしている。しかし、そうであったとしても、その最低限の生活のほとんどは私を盲目的にさせるものである。

 生活をある行為に支配されるというのは、生活の多様性を奪うことであるし、視界を狭め、世界を狭めることである。だからこそある行為に熱中することはほどほどにし、外の世界と、他の価値観を持ち合わせる人と付き合うことが必要なのだ。しかし、私は先ほどの下らない考えの中で言ったように、人と人とが価値観を理解し合うことが不可能だと言った。これは私の生活の中では絶対に覆らない理論である。したがって、私はこの理論のために外の世界と関わり合うことを止めてしまった。これに応じて、私に残ったのは自分の偏屈な思考にのみ影響を受けた歪んだ視界と歪んだ世界であり、それ以外のものを私を盲目的にさせる行為に注ぎ込むことができなくなってしまっている。

 青白い光がLINEの通知音と共にパッと薄暗い部屋に輝く。この数少ない友人から連絡は、ほとんど無色に近い私の生活に色を与えてくれる。しかしながらそれは理解とは異なる。もはや私と友人と住んでいる世界は異なるのだから理解など不可能である。友人はいわゆる普通の道を歩んだ。もっともありふれた価値観に浸ってきた善い人間だからこそ、その道を、健全な世界を躊躇うことなく歩めたのである。

 私にはこれができなかった。私は友人が歩んでいる普通の道を戸惑って歩むのを止めてしまった。そのせいで私は親を悲しませた。そのせいで私はこの部屋で一人、歪んだ視界と歪んだ世界に毒され、誰にも共感されない世界を創っている。そして、友人からの他愛の無い遊びの約束でさえ断ってしまうのだ。

 スマートフォンを畳の上に放り投げると、私の胸には苦々しさが満ちる。それはさっき飲んだばかりの水と同じような不快感だ。おおよそ、友人であったとしても共感を得ることができないということへの苛立ちが原因だ。何度も覚えているからこそそう思える。

 理解し合うことが不可能だとしても共感することくらいは可能である。他人の価値観のごく一部に自分の価値観の近似を発見することは何ら不思議ではないのだから。一方でその近似が誰にもあるという訳ではない。人間の価値観は経験によって育まれるものなのだから、近似した経験をしたことがない人間にそれを見出すことは不可能なのである。ことさら稀な経験しかしてこなかった人間は、価値観の近似による共感を他人に見出すことができず、孤独を味わってしまうであろう。もっとも、外部に対して自らの価値観を晒している人間であるのならば、この孤独の必要も幾らか解消されるのであろうが。ただ、この価値観を晒すという行為をごく一般的な方法で行わない者はそれすらも得られない。それは価値観を晒すことなく孤独を味わっている者と同様である。しかしながら、この孤独は自業自得と言えよう。時流に乗った表現を用いないのは自らの判断であるし、その手法によって自らの価値観が伝わると思っているのは傲慢の他ならないのだから。

 伝え方に含まれる傲慢さを改善し、自らの孤独を癒すためには、他人の模倣が必要である。それは時流に乗った手法を真似することであり、最も惨めな人間の持つ最も下らないプライドを段階的に放棄することである。ただ、こういったことを何の躊躇いも無く弱者が行うことは不可能である。弱者はどこまでも自らのプライドに絶対的な価値があると信じており、それに共感してくれる者がどこかに居ると信じているのだから。しかしながら、そんなことは絶対にありえない。まずもって共感を獲得するためには多くの人々に見てもらう必要がある。そのためには分かりやすい表現が必要であり、自分なりの表現など必要ないのだ。むしろ、自分なりの表現、つまり無価値なプライドというのは相手を困惑させてしまうだけなのだから。ことさら歪んだ視界と歪んだ世界を持つ人間はこういった間違いを往々にして起こしてしまう。いつか自分の価値観が、相手を困惑させてしまう手段によって共感される時が来ると思い込んでしまっているのだ。私もまたそうである。だからこそ、私たちのような弱者は一刻も早くプライドを捨てる必要があるのだ。醜いだけのプライドを捨て、私の友人が歩んでいるような普通の道を歩く必要があるのだ。盲目的にさせるモノ、現実を忘れ去るためのモノにもまたそれを適応させる必要があるのだ。

 さて、陽も段々と青みがかってきた。また鄙びたこの地方の団地にも夜が来るのだろう。この不快感に満ちる体はまた明日を迎え、また私自身を盲目にさせるのだろう。そして、共感を得られない苦々しさを覚え、不快感を覚え、それらを自分のせいなのにもかかわらず他人に依拠するものとして惨めにも恨みを覚えるのだろう。

 光の消えた一室でこうしてものを考える時間が果たして本当に必要なのだろうか。努力と適応のみが状況を好転させるものだと理解しておきながら二十六にもなって、自らを慰め続けるだけであってよいのだろうか。親を悲しませたままでよいのだろうか。善き道に戸惑っていてよいのだろうか。自らを盲目にさせ続けていてよいのだろうか。

 この回答はおおよそあと四年もすれば分かるだろう。その間、私は少なからずこの部屋から私の歪んだ世界を創り続けよう。そうして、この可能性の低い盲目の手段が共感される時を待とう。

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