中秋の名月は誰と見る。
ろくろわ
月を見ながら
今年の九月は夜だと言うのに、まだじんわりとした暑さが身体にまとわりつき、じっとりとした汗に服がピタリとくっついた。
秋虫の声が聴こえる縁側に腰掛け、星々に囲まれて見える月が、明日にでも満月になろうかとしている頃、隣に座る彼女がまた間の抜けたことを言い出した。
「
唐突な事を言い出すのはいつもの事なので特に驚くこともない。
「さて
「だから、今年の九州の名月は奮発して鹿児島に行きましょうよ?」
あぁ、何となくわかった。
彼女は中秋の名月を九州の名月と聞き間違えているのか。
「灯さん、九州ではなく中秋ですよ?」
「えっ、中心の名月?」
「いやいや。確かに月がメインですが中心ではないですよ」
灯さんはフフフと笑いながら「冗談ですよ」と人差し指を唇に立て微笑んだ。
「月見の中心はやっぱりお団子ですものね。それに聴衆の名月!中心は満月を眺め、虫の音を聴く私たちですもね」
やはり、どうにも灯さんは中秋の名月を分かっていないようであった。鼻歌交じりにリズムつけて話し、夜空に一際大きく見える月を見上げて、気分良さげであるが何処かズレている。
「灯さん、中秋ですよ中秋。それに中秋の名月とは満月とは限らないのですよ。今年は丁度満月と中秋の名月の日が重なるだけです。灯さん、中秋の名月は満月だと思っているでしょう?」
「えっ、そうなの?私は名月と言えば満月だと思ってたよ」
これに関しては本当に知らなかったのだろう。灯さんの目は大きく見開き、口が少し開いたままになっていた。
懐かしい表情だった。
そうそう、灯さんが驚く時はいつもこんな表情をしていたなと僕は思った。
「信二さんは何でも知っていますね」
「えぇ、僕は何でも知っていますよ。灯さんが何処かズレている事も、名月も満月だと思っている事も。そしてどうしようもなく優しい事も」
「やっぱり信二さんは何でも知っているのですね」
「どうです灯さん?見直しましたか」
「最初から呆れたことなんて、無いですよ」
「そうでしたね。そうだ灯さん、九州の名月。鹿児島って良いですね」
「そうでしょ?食べ物だって美味しいんだから」
「どうせなら温泉にでも入りながら月見もして」
「それでお酒と美味しいものを食べましょう!」
「灯さんは食べ物ばかりですね」
「見ると食べるは別物よ」
そう言って笑う灯さんと僕は、虫の音が心地よく聴こえる縁側に腰を掛けて、明日の中秋の名月に合わせて満月になろうとしている月を見上げた。
いや僕だけは月を見上げる灯さんの姿を見つめていた。
「信二さん。少し寒くなってきましたね。そろそろ中に入りましょうか」
沢山の話を灯さんとしていたような気もするし、静かに月と灯さんを見ていたような気もする。一体どれくらいの時間を縁側で過ごしていたのだろうか。灯さんは僕の方に顔を向けニコッとした笑顔を向けてきてそう話しかけてきた。
もうそろそろか。
「そうか、そんなに時間が経っていたのか」
「えぇ、早いものですね」
「鹿児島、行けば良かったな」
「またいつでも行けますよ」
「あの時じゃなきゃ意味がなかったんだ」
「やっぱり信二さんは何でも知っているのね」
「あぁ僕は何でも知っていますよ。…灯さん、今日も有り難う」
「どういたしまして。飲みすぎはダメですよ?」
カランと氷が溶け、グラスに当たる音で、僕は微睡んだ意識の海から少しずつ目を覚ましていく。
縁側に腰掛けている僕の手には、汗をかいたグラスが握られている。虫の音も少し小さくなっているようだ。
さっきまで灯さんが居た所に人の気配はない。
そう、全ては優しい彼女が見せた昔の記憶。
明日は満月の重なる中秋の名月。
どうせ来てくれるなら、その日に来てくれたら良いのに、前日に来ちゃう所が灯さんらしい。
僕は一人、今は亡き妻の事を想い、縁側に腰をかけ、溶けた氷で薄まったお酒を飲みながら月を見上げる。
きっと隣で灯さんも同じ月を見上げている。
そう感じながら。
了
中秋の名月は誰と見る。 ろくろわ @sakiyomiroku
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます