第5話 エリザベス女王杯

 今まさに日付が変わろうとしているその瞬間、僕はゼーハーと息を切らし、街灯もまばらな暗い夜道を走っていた。外聞など気にせず、スーツ姿で必死に疾駆。

 まずい、非常にまずい。もう今日という日が終わってしまう。今日は……今日だけは、土曜出勤なぞ引き受けてはいけなかった。せめて定時に帰らなければいけなかった。


 乗っていた電車が駅に到着したのが23時56分。世界的なアスリートでもない限り、今日のうちに帰宅することは不可能なのだが、そう頭ではわかっていても、諦めることは許されない気がしていた。

 必死に足を動かしながら、ポケットからスマートフォンを取り出して時間を確認する。既に日付は変わっていた。


「あゝ……」


 夜道で一人、僕は切ない声を出した。

 自然と駆け足から並足へ、そして鈍重な歩行へと移り変わっていく。

 息が上がり、身体から汗が噴き出してくる。


「今日は早く帰ってきてね。24歳になる瞬間をあなたと一緒に迎えたいから」


 最愛の人がこんなに愛らしいことを言って送り出してくれた朝の光景が脳裏に浮かぶ。息を吐くように年齢を詐称するあたりもチャーミングと言えなくもない。

 しかし彼女の希望に応えられなかった。きっと弾む気持ちで待ってくれていただろうに。どれだけガッカリさせてしまうだろう。

 そして……どれだけ苛烈な折檻が待っているだろう。


 夜の空気で汗が冷えたか、それとも汗そのものが冷や汗に変わったか、僕はゾクっと身震いした。


 × × ×


「ただいま……」


 玄関ドアを開け、控えめに帰宅を告げる声を出してみたが、真っ暗な屋内からは何の反応も帰ってこない。静かで冷えた空気のみが僕を迎える。

 ドアにバーロックが掛けられ帰宅を許されないか、さもなければ開けた瞬間機銃掃射等の攻撃を受けるのではとの危惧は当たらなかったが、却って空恐ろしさを感じる。


「ただいま〜……」


 廊下の明かりをつけ、もう一度小さな声を出してみる。

 ひょっとしたらもう寝ているのかもしれないが、以前そう思って帰宅の挨拶をついしなかったところ、いきなり背後から丸めた新聞紙でぶっ叩かれ『黙って家に入ってくる奴は泥棒かゴキブリ扱いされても仕方ない』と言われたことがあった。

 既にやらかしが乗っかっている今回は、その凶器が角材や鉄パイプに変わってもおかしくない。


「たでーま〜……」


 敢えて浅草氏風のおどけた言葉に変えて発声してみて、リビングダイニングを覗き込む。

 ここも消灯しているが、僕のいる廊下側からの明かりである程度様子は窺えた。


 誰かがいる……いや、何かがある。


「……澤多莉さわたりさん……?」


 壁のスイッチで照明をつける。

 部屋のど真ん中、ダイニングテーブルの上にはあった。


「——!!」


 天井の照明に長い黒髪を艶めかせた美女が一人、微動だにせず仁王立ちしている。

 透きとおるような肌には生気というものが感じられず、見開いた目はまばたきすらしない。そして——身体中に無数の矢が突き刺さっていた。

 衝撃の光景にしばし唖然。


「……立ち往生?」


 やっとのことで言葉が出るまでかなりの間があったと思うが、その美女はピクリとも動かず、呼吸すらしている様子はなかった。

 無数の傷口から流れた血が、足元で血だまりとなっている。

 何でこんなことになっているのか。頭が混乱する。またしばしの間を要して、ようやく続く言葉が出てくる。


「……なぜに弁慶?」

典韋てんいよ」


 澤多莉さんはすぐさま訂正してきた。瞳もぱっちり開いている。別に事切れてはいなかったらしい。

 やはり動きも呼吸も止めているのは苦しかったらしく、ゼーハーと息をつきつき、どこからか取り出したハンカチで顔の血のりを拭ったりしている。

 そんな彼女の様子をしばし眺め、僕は素直に質問を変える。


「えーっと……なぜに典韋?」

「曹操が鄒氏すうしの肉体に溺れ、油断しきってしまったせいよ」

「典韋が死んだ理由を聞いているわけじゃなくて」


 澤多莉さんから渡された雑巾でテーブルを拭きながら質問を改める。


「どうして典韋の最期をこの場で再現していたのだろう?」

「知らないの? 今、巷では『家に帰ると妻が死んだふりしています』とかいうのが大流行しているのよ」

「それ十年以上前だし、一般家庭で真似をしていたって話は聞いたことないけど」


 ごく当たり前の指摘をした僕に、澤多莉さんは非難が込められているように見えなくもない眼差しを向けてきた。


「ま、退屈させられてたってことよ」

「う……」


 僕は言葉に詰まる。彼女の悪戯いたずらが強烈だったため、自分が約束を破ってしまったことを忘れていた。


「ごめん……どうしても残業断れなくて。日曜日休むんなら、目処がつくまで作業を片付けてから帰れって……」


 潔く謝りつつ、さりげなく彼女のバースデー当日である日曜日を一緒に過ごすためという弁解を入れてみる。


「そうなんだあ」


 彼女は笑みを浮かべながらうんうんと頷きながら言った。


「じゃあ牛裂きの刑とのこぎり引きの刑、どっちがいい?」


 残念ながら情状の酌量はしてもらえず、残虐な刑罰を免れることはできなかった。


「まあそれは冗談半分だけど」


 半分は冗談ではないらしい。


「それにしても勿体ないことをしたわね。私が23歳になった瞬間を共にするという栄光に浴するチャンスだったのに」


 しれっと朝よりも更に一歳サバを読むと、澤多莉さんは妖艶な笑みを浮かべた。


「二人であんなことやこんなことをしながら、その時を迎えられたかもしれなかったのに」

「あんなことやこんなこと……」


 思わずゴクンと生唾を飲み込んでしまう。


「そう……ベッドの上でくんずほぐれつ、ハト時計とか、クワガタの標本とか……」

「……どっちがゴンでどっちがチロか気になるところだけど、そんな身体能力は持ち合わせていないなあ」

「あとベトナムのバイクとか」

「それ三人じゃなきゃできないし」


 軽快にツッコミながらも、彼女のバースデーであり、二人の始まりとなった記念日である今日という日に、僕がやらかしてしまったことに変わりはない。

 どうすれば許してもらえるのか、それは聞くまでもなかった。


「エリザベス女王杯ね……今年は久々に京都に戻っての開催になるから、ここ何年かの傾向には惑わされないようにしないといけないわね」


 そう、GⅠでの馬券勝負。

 これに勝てば全ては許され挽回され、負ければよりどん底。それが澤多莉さんと僕が出会った頃からの暗黙のルールとなっている。


「そうだね……ここ三年は先行馬総崩れみたいなレースが多かったけど、またクロコスミアみたいに前で粘る馬がいるかもしれないね」

「クロコスミア……懐かしいわね。人気薄をものともせずに私が本命に指名したところ、2着に好走したのよね。我ながら何たる慧眼。才色兼備。全知全能」


 自画自賛を始める。

 なお、五年前に彼女がクロコスミアを本命に推したのは事実であるが、肝心の馬券は当てていなかった筈だ。

 それなのに、何故こうも鼻高々でいられるのかサッパリわからない。


「ま、過去の栄光はさておいて、今肝心なのは今年どの馬が来るかってことよ」


 言いながら、澤多莉さんはいつしか出してきていたタブレットの画面へと指を向ける。


「私も今年は逃げか先行の馬が最低一頭は残ると見ているわ」


 そう言って、画面に表示された出走表の真ん中あたりで、細く白い指が止まった。


「となると、前走逃げて勝ったディヴィーナを選びたくなるところだけど……これは罠ね」


 軽く弾くように指を動かす。


「そうかなあ。3戦連続で連対してるし、ヴィクトリアマイルでも好走してたし、侮れない一頭だと思うけど」

「何言ってるのよ。大方、この馬が勝って、友道調教師と榎本加奈子が抱き合って喜ぶ姿を見て性的興奮を得たいんでしょうけど、そうはいかないわよ」

「いや、そんな倒錯した趣味はまったく持ち合わせていないから」


 とんでもない難癖は即座に否定しておく。

 ディヴィーナが気になる理由は他にあるのだが、それを言ったら余計にキモがられる恐れがあるため黙っておこう。


「そうなると、先行して残りそうなのは……自ずとこの馬ってことになるわね」

「アートハウスかあ……」


 まあわかる。早くから素質は一線級と言われていた良血馬で、そもそも重賞2勝は今回の出走馬の中では上位の実績。怪我による長休明けではあるが、これまで休み明けは全勝とすこぶる鉄砲が効くタイプである。

 だが……


「わかってる。ずっと乗ってた川田が今回ハーパーに乗り替わってるのが気にかかるんでしょ?」

「うん。盟友・中内田の馬からこのタイミングで乗り替わるってことは、あんまり良い状態じゃないんじゃないかなって」

「ふふ、それこそ浅はかな考えよ。文系で血液型B型だから地頭が良くないのね」

「ひどい偏見だな」


 こちらの抗議に耳を貸す様子はなく、澤多莉さんはドヤ顔で白い人差し指を立ててみせた。


「考えてもご覧なさい。そもそもアートハウスは、オークスの時に川田がスターズオンアースを蹴ってまで乗ったところ、乗り替わった馬に勝たれた挙句、自身は2番人気で掲示板にも載れなかったのよ」


 まあ蹴ったとかそういう内情でもないような気もするが、とりあえず頷いておく。


「今回、そのアートハウスから乗り替わって、また捨てた馬にGⅠ勝たれたりしたら最高に笑えるじゃない。キャハハハハ!」

「…………」


 とってつけたような、わざとらしい高笑いをする澤多莉さんに気圧される僕に、彼女は更なるドヤ顔で言った。


「それが根拠よ」

「根拠っていうか、単なる歪んだ願望のような……」

「あの馬はやってくれる筈よ。捨てられた女の恨みをナメてもらっちゃ困るわ」


 ゾッとするようなことをサラッと言う。


「でもアートハウスかあ……」

「何よ。そこまでムキになって否定するんなら、あなたの本命馬を言ってみなさいよ。吐いた言葉飲み込むなよコラ」

「別にムキになってないし、紙面も飾ってないけど……まあ僕の本命はこれかな」


 1枠1番、ついでに1番人気の馬を指差す。もちろん彼女からの非難や罵倒は覚悟の上だ。


「ブレイディヴェーグね。ルメールが乗る1番人気だから勝つに違いないとか……」

「いや、そういうわけでもないんだけど——」

「残念としか言いようがないわ。思考停止どころか、ホモサピエンスから退化したエテ公ばりの予想しかできないのね。一刻も早く害獣としてマタギに駆除されるべきよ」


 ……思ってた以上にクソミソに言われた。


「ま、まあ、僕も安易かなとは思ったし、ゲートが下手なのは不安だけど、勝ったレースや前走のローズステークスの内容見る限り、ものすごい大物の可能性が高いのかなと」


 この馬が競うべきはスターズオンアースやリバティアイランド、更には牡馬の強豪たちではないかと弁を振るっていたところ、彼女は不意に可笑しそうに吹き出した。


「え? 何?」


 訝しがる僕に答える澤多莉さんの目は、慈愛に満ちているように見えた。


「何だか急に六年前のことを思い出しちゃって」

「六年前?」

「エリザベス女王杯の前々日だったっけ? 大教室の片隅で友達いなさそうな陰キャ丸出しの男子学生がコソコソ競馬の予想していたことを」

「…………」

「……何であんなのに声をかけようと思ったのか、未だによくわからないわ」


 そう言って、目を細めて微笑む。


 ——僕は、すぐさま本命馬を変えることを検討した。

 澤多莉さんと出会ったエリザベス女王杯で本命にしていた馬と同じ勝負服で、血縁も濃い馬が出ているのだから、そっちを応援したい気持ちが湧いてきたのだ。


「ま、時代は移り変わるもの。あの頃は影も形も存在しなかった坂井瑠星が、私の18歳の誕生日を勝利で飾ってくれる筈よ」

「その時、坂井瑠星はもうデビューしてたし、出会った時より若返っちゃってるし、そもそもその歳だと馬券買えなくなっちゃうし」


 彼女のおかしな発言を、僕は一つ一つ丁寧に指摘した。

 六年間ずっとそうしてきたように。


(つづく)



 ◆エリザベス女王杯

 澤多莉さんの本命 アートハウス

 僕の本命 ブレイディヴェーグ→ディヴィーナ




※二人の出会いは『UMAJOの澤多莉さん』第1話で描かれております

https://kakuyomu.jp/works/1177354054884422659/episodes/1177354054884422800

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