第4.5話 アルゼンチン共和国杯
他に誰もいない空間で、僕は思わずうーんと声に出して
窓のない部屋にいくつかの丸テーブルと椅子を並べた会社の休憩室は、曜日や時間帯によっては顔見知りの社員たちが押し寄せ相席を余儀なくされる地獄部屋と化すが、営業している部署が限られる土日祝日には閑散とした快適な空間と化す。今現在のように自分以外誰もいないというケースも珍しくない。
競馬民にとっては災厄でしかない土曜出勤の、数少ない(唯一かもしれない)利点と言えるだろう。
一時期の混沌からは抜け出したものの、今なお時間外勤務や休日出勤を余儀なくされている我が部署において、文化の日から始まる三連休をフル享受することは到底不可能だった。
さいあくどこか一日は出社すべきとの無言の圧力に屈し、泣く泣く京王杯2歳ステークスとファンタジーステークスのリアルタイム観戦を犠牲にして土曜日に出勤してきたわけである。
尤も、休みを死守した昨日のJBCデーの馬券は惨憺たるもので「こんなことなら会社にでも行っとけば良かった!」と叫んでしまったりもしたのだが。
気を取り直して、僕は明日の重賞でのリベンジのため、弁当つつきながら目の前のタブレットに表示された出走表を凝視している。
これがまた極めて難解で、ついつい唸り声も出てしまう次第だった。
非常に渋い、渋すぎて決め手に欠ける馬名ばかりが並んだ出走表を見て頭を抱えていると、ドアが開放されている入口の方からコツコツとヒールの足音が近づいていることに気がついた。
チラリと見やると、入ってきたのは
「お、おつかれさまです……」
社内随一の有名人の登場に幾ばくか驚きつつ、僕は挨拶をして軽く頭を下げた。
伊鷲見さんは挨拶を返してはこず、一瞥だけ寄越すとコツコツと僕とは離れた位置のテーブルへと向かう。
ほぼ無視といえる感じの悪い振る舞いである。が、僕は彼女の歩き姿に一瞬見入ってしまった。
後ろできっちりとまとめられた髪型に
入社初年度から花形部署の開発事業部にて辣腕を振るい、僕と一歳しか違わないらしいのに既に主任職に就いており、次の定期異動では会社創立以来最年少で管理職に抜擢されるのではと噂されているあたりも、まるでフィクションの人物であるかのようだ。
伊鷲見さんと休憩室で出くわしたのは初めてだった。社内ですれ違ったりすることはたまにあったが、気軽に声をかけられない雰囲気があり、また僕も他人に気軽に声をかけるタイプでもないため、せいぜい会釈する程度で言葉を交わしたことはなかった。
そんな彼女はなぜかテーブルに着こうとせず、コツコツと室内を一周するかのように歩き、僕の方へと向かってくる。
「……え、え?」
動揺する僕の傍らで立ち止まる。腰に手を当てた立ち姿がまた堂に入っている。
「な、何でしょうか……?」
おそるおそる尋ねる僕をしばし睥睨。
「あの……?」
「……不潔な男」
彼女は見下しきった表情で、吐き捨てるように呟いた。
いきなりとんでもない言葉をぶつけられ、脳の処理が追いつかない。
「あなた管理部の人よね? 欠員が出て忙しいと聞いているけど、こんなところで何てことをしているの?」
僕は慌てて、現在の我が部署は多少落ち着いた状況になってきており、休憩ぐらいはとれるようになったことを説明しようとした。
が、彼女はみなまで聞かず、テーブルをバンと叩いた。その手までがしなやかに美しく、ビクッとしつつも思わず見入ってしまう。
「シャラップ! そんなことを問題にしているわけではないの!」
それなら何故怒られているのか理解できず、そして日本語を公用語にしている者どうしの会話で、シャラップと言ってのける人が実在することへの驚きで、僕は上役に対してポカンとした表情を向けてしまう。
「何、いやらしい顔で見ているの! まったく最低の人間ね!」
「いやらしい顔なんて……」
「今だって、仕事サボっていやらしい動画を見たりして……見下げ果てたゴミ虫だわ!」
どういうわけかわからないが、とんでもない誤解をされているようだ。
「い、いえ、そんなことは……」
「そうに決まってるわ! あなたのような
恐ろしい偏見と思い込みである。てか今日びタブレットを持っている人間なんて特に珍しくもないと思うのだが。
理不尽かつ滅茶苦茶ではあるのだが、立場上相手にしないというわけにもいかない。
「ち、違いますよ!」
「
「いや、僕はただ食事しながら——」
「こっちのオカズとそっちのオカズを同時に楽しんでいたってこと? 器用な男ね! マルチタスクに向いているわ!」
「いや、競馬の——」
「ゲイバー? ロリコンアニメを観ていたのみならず、ゲイバーの予約までしようとしていたと言うの!?」
激昂してまた机を叩く。
完全に僕が仕事中にふしだらな営為にふけっているものと思い込んでいるらしい。途中微妙に褒められたような気もするが、ともあれ誤解は解けそうにない。
このままでは僕の上司におかしな報告をされかねないし、そうでなくとも、小児性愛者かつ同性愛者と思われてしまうのは、多様性の時代とはいえ僕には本意ではない。
「だから違うんです! ほら、見てください——」
タブレットの画面を伊鷲見さんの側に向けると、彼女は咄嗟に両手で顔を覆い、悲鳴をあげた。
「わ、私に何を見せつけようと言うの!? 人を呼ぶわよ!」
「ですから——」
画面をよく見てくださいという言葉を続ける必要なかった。
彼女は両手で顔を覆ってはいたが、指と指の隙間はじゃんけんのパーの如く開いていたのだ。眼鏡越しに爛々と見開いた瞳がはっきりと窺える。
「……そ、それは?」
「……競馬の出走表です。これを見ながら、明日のレースの検討をしていたんです」
「本当に? そこに並んでいるカタカナの固有名詞は、エッチなサービスを提供するお店の名前ではないの?」
「そんなわけないじゃないですか」
「でも『朝までイタズラ』って書いてあるわ」
「アサマノイタズラです! 変わった名前ですけど、れっきとした競走馬の名前です!」
浅間山の噴火が由来となっており、単なる珍名というわけではないのだが、長くなるのでその説明は割愛しておく。
「あと『ああティッシュ』っていうのもあるわよ」
「アーティットです! てかそんなダイレクトな看板出してる店はないでしょ!」
「そして
「何を言ってるんだあんたは!」
上役に向かって思わず乱暴な言葉で絶叫してしまう。
伊鷲見さんは少しの間の後、気を取り直したように軽く眼鏡を持ち上げる。
「なるほど、競馬の予想をしていたのね……ふう、私としたことが少し取り乱してしまったようね」
「……誤解が解けたようなら、何よりです」
何が『ふう』だ。どっと疲れたわ。
そういえば何年か前にも同じようなことを言ってきた人がいたことを思い出す。そっちは当時小学生だった上に冗談だったのだが、成人女性のこの人は本気だったようで怖い。
僕にあらぬ疑いをかけ、妄言を連発していたことなどなかったかのように、彼女は気軽な態度で話してきた。
「結構な趣味じゃない。私も留学していたときは嗜む程度だけど競馬場に行ったこともあるのよ」
「えっ、海外の競馬場ですか? どちらへ行かれたんですか?」
話が意外な方に展開し、思わず食いついてしまう。欧米などでは競馬場は上流階級の人たちが着飾って訪れる社交場だったりもするので、そういった話が聞けるのだろうか。
伊鷲見さんは往時を思い出すかのように、やや斜め上方に顔を向けた。
「色々と行ったわよ。ロンシャンにアスコット、モンベツにソノダにあとケイオーカク……」
「半分以上日本国内なんですが……最後のにいたっては競輪場だし」
まあロンシャンとアスコットだけでも僕にとっては垂涎ものなのだが。
「パドックで観た壮観な光景は今でもこの目に焼きついてるわ。何しろものすごい馬並……ゲフゲフゲフンッ」
何やら誤魔化すように咳き込み、話題を変えてくる。
「それはそうと、明日は何ていうレースがあるの?」
「あ、はい、アルゼンチン共和国杯という……」
と、伊鷲見さんの顔がサッと蒼ざめ、一歩後ずさった。
「……どうしました?」
嫌な予感がして、というより、嫌な予感しかせず、僕はおそるおそる尋ねた。
「あ……『あるぜチ◯コ、今日はコくばい』ですって!? 何をいきなり博多弁で宣言しているの! そんなの勝手にしなさいよ!」
「アルゼンチン共和国杯! どんな耳してるんだ!!」
また上役に対してあるまじき発言をしてしまったが、誰が僕を責められるだろうか。
その後も、
「穴で入れるならハーツイストワールかなと思っています」
「穴に入れたいからアイツとヤるかなと思ってます? そのアイツというのは、まさか私のことじゃ……」
だの、
「チャックネイト下ろされたのかと思ったら、アメリカなんですよね皇成」
「チャック下ろしてアメリカ女と性交!?」
だの、
「ディアスティマも推したいんですけどね。うまく逃げきれるかどうか……」
「電マ押し当ててうまく逃げきってやるですって!? ヒイッ!!」
だのといった、不毛かつ会社内でするにはきわめて不適切なやりとりで貴重な休憩時間は浪費されてしまった。
耳の問題ではなく、脳がピンクすぎるんじゃないだろうかこの人。
「じゃ、じゃあ僕……仕事に戻りますので」
なぜか前屈みで股間の辺りを両手でガードしてこちらを警戒している様子の伊鷲見さんの目を見ぬように一礼し、僕はそそくさとその場を後にした。
有無を言わさぬ能力と誰もが羨む美貌を備えたキャリアウーマンの正体がこんな危ない人だったなんて。
大丈夫なのかこの会社は。
小さくない心配を抱きつつオフィスへと戻る僕は、ちょうどその頃、そのキャリアウーマンがため息とともにこんな言葉を吐いていることは知る由もなかった。
「まったく何て男なの……あんな破廉恥漢が部下になるなんて、今後が思いやられるわ」
(つづく)
◆アルゼンチン共和国杯
僕の本命 ディアスティマ
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