第4話 天皇賞・秋

 秋たけなわ。

 四季が消失しつつある我が国において、きわめて貴重な過ごしやすい季節を迎えたが、一日の大半をコンクリートの建物内で過ごす社畜にはあまり関係のない話である。


 我が就労先は本来ならまだ繁忙期ではない筈なのだが、主任職に就いていた人の急な退職により人員不足と指揮系統乱れが降ってわき、早出はやで残業当たり前、きっちり一時間の休憩をとったりしたら白眼視されるブラック部署と化していた。

 今日も今日とて残業必至の情勢ではあったのだが、朝七時から早出してますアピールを繰り返したことが功を奏し、夜七時には逃げるように職場から離脱することに成功、日勤労働者として常識的な時間に家路に着くという僥倖を得ている次第だった。


 人いきれの中に酒くささが混じった金曜日の帰宅電車に耐え、最寄駅のホームからの階段を登ると、改札を出たところに見知った人物がいることに気がついた。

 いつからそうしているのか、学生服に身を包んだその少女は腕を組み、仁王立ちしてこちらへと凛とした表情を向けている。

 美少女である。ふんわりした茶色がかった髪と、くりっとした瞳が特徴的な小柄な少女が、未完の最終兵器のごとくポーズを決めて立っていた。


 行き交う人々の目線は気になったものの、無視して通りすぎるわけにもいかない。

 近付いて声をかける。


「こんなところで何してるの? 護志田もりしたさん」

「そちらこそ、ただでさえ見る人のモチベーションを二段階は下げてしまうデバフ作用を積んだ冴えない面構えであらせられるところ、いつも以上に疲弊しきったウンザリ顔をなさってますが、何をすればそんな陰鬱人間が出来上がるのでしょうか?」

「…………」


 いきなりのご挨拶に気の利いた言葉を返したり、笑って受け流したりするだけの度量を持ち合わせない僕は、ため息を隠せなかった。


「ため息をつくと幸せとバカ女房が逃げていきますよ」

「誰がバカ女房だ。やめてくれるかな、人のパートナーを悪く言うの」

「おや、私は古来からの慣用句を述べただけであって、ゴミ社畜ィの奥様がバカ女房だなんて一言も言っていないのですが? ゴ社兄ィの中でそういう意識があるのでは?」

「そんな慣用句は無い。あと誰がゴミ社畜兄ィ兄ィだ。あまつさえゴ社兄ィとか略すな」


 一つの発言にツッコミどころが渋滞している。

 護志田さんは腕組みを解くと、僕の背中のあたりをポンと叩いてきた。


「まあ、現代社会においては離婚して初めて一人前といった風潮もありますし、悪妻をめとってしまったからといってゲームオーバーというわけではありません。一年半ぐらい経ったら、婚姻可能年齢に達しているもっと素敵な女性が身のまわりにいないか探してみてはいかがでしょう?」

「一年半?」


 他に看過できない発言もあったものの、とりあえず疑問を投げかけてみる。


「特に他意はありません。なんとなく言ってみただけです」


 そう言うと、護志田さんははにかんだような笑顔を浮かべた。

 それだけ見ると十六歳という年齢相応の可愛らしさなのになぁと、僕は少しばかり残念に思うのだった。


「……さて、こんなところで何をしてるのかという質問がありましたが、お察しかもしれませんがエロ兄ィを待っていたのです」


 いつもの呼び名もヒドいものなのだが、最早すんなり受け入れてしまっている自分がいる。


「僕を待ってた? それはどうして?」

「ひとつは愚妻が京都から帰って来ずに寂しくて泣いているであろうエロ兄ィをあやしてあげようという、いわばボランティア活動のため」

「愚妻って第三者が使う言葉ではないと思うよ……それにお気遣いはありがたいけど、彼女今日の新幹線で帰ってきてるはずだから」


 だから僕も残業を半ば強引にうっちゃって帰宅してきたのだ。


「へー、私はてっきり今頃、京都で不倫ざんまい、おばんざいかと思っておりました」

「何てこと言うんだ」

「どちらにしても、夫は日曜のうちに東京に戻っているのに、京都を舞台にした古今のあらゆる作品の聖地巡礼するだなんて言って何日も居残るというのはいかにも怪しいです。興信所に調査してもらった方が良いのではないでしょうか」

「どうして君は人の家庭を波立たせようとするんだ」


 心配しなくても、彼女あのひとが突拍子もない気まぐれ行動をするのは今に始まったことではない。

 現にここ数日僕のスマホには、伏見稲荷でキツネのお面を付けている姿や、羅城門跡地でボロをまとった老婆に扮して何故かバーコードハゲのカツラを持った写真などが送られてきている。

 なお、昨晩電話したら、今から修学旅行で来ている千葉と茨城の不良たちの抗争に介入すると言っていたので全力で止めたところである。


 煽りに乗ってこないことに護志田さんは不服そうに口を尖らせていたが、気を取り直してこちらをビシッと指差してきた。


「そしてもうひとつの用件は、目下絶好調、天才美少女馬券師あらわると巷で評判のこの私が、凡才醜男しこお馬券拾い野郎に引導を渡してやりにきたのです!」

「凡才は別にいいし、醜男もまあ我慢できるけど、馬券拾いなんて一度もしたことないっ! 取り消せ!」


 未成年者が馬券師を名乗るのは如何なものかと指摘しようかとも思ったが、そこは深掘りしない方が良さそうだと判断して止めておいた。

 この場合の馬券師というのは概念的な呼び名であり、実際に購入しているとかそういう話ではないのであろう。きっと。おそらく。


「フフフ、わめきたくば好きなだけわめいてください。秋華賞、菊花賞と二週連続でドンピシャ的中の神を御前ごぜんにして平静でいろという方が無理な話というもの……フハハハハハ! ただひとりが尊いなりー!」


 右手で上、左手で下を指差しながらそんなことを叫びだす。よほど誇らしかったらしい。

 まあリバティアイランドはともかく、迷いなくドゥレッツァを本命にして的中したのは大したものではある。


「さあ、天皇賞でも完膚なきまでに叩きのめして、完全服従させてやりましょう! さあ、エロ兄ィはどの馬が本命ですか? やはり内枠が有利ということでノースブリッジとエヒトですか? AJCCと同じワンツーで決まると?」

「ものすごい大穴の馬を選ばせようとするのやめてくれるかな?」


 とはいえ、その2頭も今年の重賞を強い勝ち方で勝っているので決して油断はできない存在なのだが。


「まあ、さすがに今回はイクイ……」

「ちょっとマッターホルンのバームクーヘン」

「!?」


 唐突に背後から囁き声が聞こえてくる。

 振り返ると、見たことのない女性の顔が10センチと離れていない間近にあった。


「うわああああ!」


 思わず飛び退いてしまう。声をかけられるまで、全く何の気配も感じなかった。


「タマちゃん!?」


 護志田さんも驚いたような声をあげる。

 僕と向き合っていたこの子でさえも気がついていなかったらしい。まあそれは些か図に乗っていたからというだけかもしれないが。


「…………」


 タマちゃんと呼ばれた、護志田さんと同じ学生服を着ているその女の子は、幽霊のように佇んでいた。

 背丈は護志田さんより頭ひとつ分ぐらいは高く、髪はショートボブぐらいの長さだが、量の多い前髪が顔の上半分ぐらいを覆っている。

 そのためわかりづらいが、どうやら僕のことをじっと見ているらしい。


「えーっと……護志田さんの友達?」


 どちらにともなく問いかけてみるが、どちらからも返事は返ってこない。

 護志田さんは護志田さんで、何やらばつの悪そうな様子である。


 前髪少女が僕を指差してきた。


「先輩……この男性は?」


 どうやら護志田さんの後輩らしい。


「えーっと……よく知らない方なんですけど、ちょっと道を尋ねられていまして」


 どうやら他人のフリをしたいらしい。


「その割にはかなり親しげにされているように見受けましたけど。エロ兄ィなどと愛称で呼んでいましたし」

「そ、それは、その……こちらのお方が猥歌わいかのど自慢大会で三年連続優勝したことがあると仰られるので敬意を表してエロ兄ィと呼んでいただけで——」

「その作り話はさすがに無理があるのでは?」


 僕が突っ込む前に少女が言ってくれた。

 もちろん僕はそんな大会に参加したことはおろか、存在を聞いたこともない。


「あの伝統ある大会で三連覇なんて出来る筈ありません」


 そっちかよ。てか伝統ある大会なのかよ。

 心中でツッコむ僕をよそに、同じ制服を着た二人の女子はやりとりを続ける。


「……い、言っておきますが、私にとってこの男性は他人同然、何らの感情も抱いていない塵芥ちりあくたの如き存在であって、例えば小学生の頃から密かに想いを寄せていて、結婚してしまった今でも何とかワンチャンないかとひっついてるとかそういうのでは全くありませんから! お門違いの邪推はやめてくださいね!」


 早口すぎて後半はよく聞き取れなかったが、護志田さんは口から泡を飛ばす勢いで言い募っている。

 しかし、言われた方はいたって落ち着いた様子だった。


「なるほど。よくわかりました」


 何かを了解したらしい。

 僕の方を再びまじまじと見やってくる。


「そうなると、あたしとしては貴方を倒さねばなりません」


 音量は小さいが、何やら決意のこもった声だった。

 もちろん僕は、わけがわからない。


「え? え? 何で?」

「連綿と繋がる鎖の一番先、或いはピラミッドの頂点……そこに君臨するのは護志田先輩かと思っていましたが、その先にも矢印は向かっていた……となると、当然貴方こそが倒すべき敵、いわば闇の根源。お命頂戴」


 ますますわけがわからない。

 護志田さんの方に顔を向けてみるが、彼女はそっぽを向き、何かを誤魔化すように口笛を吹くフリなぞしている。


「先ほど言いかけたのはイクイノックスですか?」

「うわっ!」


 一瞬目を離した隙に、また音も気配もなく接近され、悲鳴をあげてしまう。


「お答えください。貴方の本命はイクイノックスで良いですか?」

「え、えっと……」

「それとも先ほどは公衆の面前で『イクイクイク〜アアァ〜』といった発声をしようとしていたのですか?」

「もちろんそんなわけはないけど……」


 もしかしたら、この子が言っている僕を倒すというのは……

 まさかと思いつつ、僕は彼女の質問に答える。


「まあ、今回はイクイノックスに逆らえないかなと」

「なるほど。元々強かったところ、とりわけ昨年の天皇賞以降は世界ナンバーワンホースの名に相応しい規格外の強さを見せていて、状態落ちだったという宝塚記念も勝ち切ってしまった。休養十分の今回は鉄板というわけですか」

「……全くその通りです」


 やはりこの人もこういう感じだった。どうして僕の周辺に出現する女性はこういう人ばかりなのだろう。

 前髪の間から覗く眼が、鋭くこちらを見上げてくる。


「よくわかりました。貴方が何の冒険精神も持ち合わせていない、甚だしく面白味に欠ける唾棄すべき人物であることが」


 ……つくづく、どうして僕の周辺に出現する女性はこんな人ばかりなのか。

 こちらが悲しい気持ちに陥りかけていることなど露知らず、もしくは気にもせずといった感じで言葉を続けてくる。


「ではそちらはイクイノックスの単勝で良いですね?」

「まあ、うん」

「それでは私は——」

「ちょっと末端価格グラム四万円」


 しばし口を挟まず様子を窺っていたらしい護志田さんが待ったをかけてくる。


「まさかタマちゃん、秋華賞・菊花賞と苦杯を舐めさせられたこの私から逃げるつもりじゃありませんよね?」

「笑止。あの屈辱をすすぐべく、あたしはこの一週間、起きているすべての時間を競馬の研究に費やしてきたんです」


 いや大丈夫かこの子。高校生だろ。


「二人まとめてなぎ倒し、あたしは自分に自信を取り戻し、あの人に告白をしてみせます!」

「おお、その目的はまだ見失っていなかったのですね……」


 よくわからないが、何やら青春しているらしい。


「それでは三つ巴の戦いということになったわけですが、最初にエロ兄ィが馬券を発表してしまった手前、今回は年齢順に言っていくことにしましょう。では次は私の番ですね。私はドウデュースにします。ドウデュースの複勝」


 異論を挟ませる隙間なく自らの本命馬と買い目を言い切ってしまう。なんて言うか、率直にセコい。


「しばらく対戦のない間にイクイノックスには逆転されている可能性は高いとは思いますが、言ってもダービーで真っ向から下した力の持ち主です。それにハーツクライ産駒ですし大きく衰えていることもおそらくないでしょう。勝てるかはともかくまず3着以内は固いと見ます」

「でも複勝だと、イクイノックスの単勝よりも付かないのでは?」


 僕が指摘すると、護志田さんはチッチッチと人差し指を横に振った。


「何だかんだで今回はイクイノックス一強と思っている人も多い。直前になるとそのオッズは更に下がって1.2とか1.3になると見ています。一方のドウデュースは複勝の下限が大体それぐらいでしょう。つまり悪くとも引き分け、3頭目によっては勝算も十分と私は見ています」

「フフ……」


 熱弁を後輩に鼻で笑われ、護志田さんは色をなしてそちらを睨む。


「何がおかしいのですか?」

「いや、必死に先手をとっておきながら、随分とありきたりでつまらない見解を仰るんだなって」

「ムキー」


 挑発を受け、頭から湯気を出している。


「じゃ、じゃ、じゃあ、イクイノックスもドウデュースも先に取られて、あなたはどの馬を選ぶのですか?」


 重複禁止だったらしい。改めて護志田さんの小狡いやり方に呆れ果てる。


「あたしはガイアフォースの複勝にします」

「ガイアフォースゥ?」

「ええ。春はトップマイラーたちと遜色ないパフォーマンスを見せて、レベルの高いGⅠでも十分に通用することを示しました。そんな馬がこの秋はマイル路線でなくわざわざ世界最強の馬も参戦する天皇賞秋を選んできた。これは2000mこそがこの馬の力を最も発揮できると判断されたからではないでしょうか」


 確かに3歳時にしか走ってないとはいえ2000mは全連対、しかも圧勝2回のこの馬のことは気になっていた。


「もちろん人気同様勝ち目も薄いでしょうが、3着以内なら十分にあり得る。複勝でもそれなりに付きますし、万が一イクイノックスが飛びでもしようものならもうウハウハ、しばらくはデザート食べ放題に行き放題という天国が待っています」


 まるで本当の馬券を買っているかのような言い回しに取れなくもなかったが、まあそれについては気にしないこととして……

 ともあれ三者が勝負を託す馬が出揃った。


 僕はまだ気がついてなかったが、この瞬間、僕を取り巻くウマジョたちが入り乱れて相争う大戦の火蓋が切って落とされたのだった。


(つづく)



 ◆天皇賞・秋

 護志田さんの本命 ドウデュース

 前髪少女の本命 ガイアフォース

 僕の本命 イクイノックス

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る