第3話 菊花賞

 金曜日の五時間目、あたしはいつものごとく窓側一番後ろの主人公席にて、C組D組男子たちの体育の授業を観戦していた。

 そう、観戦である。頬杖ついてぼーっと眺めるとかでなく、あたしは半身をやや前のめりにして固唾を飲んで彼らの戦いを見守っていた。


 本日の種目は持久走。グラウンド外周を十周するという狂気の沙汰としか思えない所業を強いられ、動くの大好き男子諸君もさすがにゲンナリと取り組んでいる模様だ。

 それでも走り始めた時にはおちゃらけてる調子乗りも何人かいたが、三分後には一同無言の行となり、黙々と走り続けている。


 五人ほどで形成されているトップ集団が九周目に突入した。いよいよ終盤戦、勝ち負けの争いは彼らに絞られたといって良いだろう。

 その中にはあたしの片恋相手、佐藤くんの姿もあった。


 ——佐藤くん……


 いつも爽やかにニコニコしている彼も、さすがに余裕などない面持ちでひた走っている。

 トップ集団にいた一人の脚色がみるみる鈍っていき、脱落する。残るは佐藤くんを含めた四人。


 ——がんばって、佐藤くん……!


 体育教師の「ラスト一周ゥ!」の声に呼応してか、ロン毛の男が一人抜け出した。ここが仕掛けのタイミングと見たのだろう。

 三人はついていけずに突き離されていく。


 ——佐藤くん……!


 思わず拳を握ってしまったが、すぐに気がつく。三人はついていけなかったのでなく、ついていかなかったのだ。

 抜け出すのに脚を使ったロン毛から2メートル以上は離されずに、追走していく。

 その差は徐々に縮まっていき、残り半周のあたりでロン毛は逆に置いていかれてしまった。完全に早仕掛けのミスだった。


 最後のカーブに差し掛かり、三人はラストスパートを掛ける。小柄な坊主頭、細身のモブ風男子、そして佐藤くん。

 僅かに佐藤くんが後退しそうになる。


 ——佐藤くん……踏ん張って!!


 願いが通じたか、彼は何とか離されずに喰らいついていく。その必死の形相は尊さすら感じさせるものだった。


「……いけっ」


 思わず声が漏れてしまい、隣の席の男子生徒が何か反応したようだったが構っていられない。

 あたしはひたすら念じ続ける。


 ——いけっ……いけっ……!!


 また三人横一線になり直線を迎える。

 そしてデッドヒートの中、その並びは横から縦へ。前に出たのがモブ風、やや後退したのが坊主頭、そして真ん中に佐藤くん。

 あたしは血液の温度が上がるのを感じた。


「……よしっ!」


 脳からドバドバ快楽物質が分泌され、身体中を駆けめぐる。完全に思い通りの展開だった。

 過去2走から佐藤くんは好走するものの勝ち切るだけの勝負強さに欠けていると見たあたしは、あえて彼を2着付けにしていた。個人的な想いと予想は切り離さなければならないのだ。

 地味ながらに長距離向きの細く引き締まった身体つきが目を惹いたモブ風男子との馬単ならぬ人単ひとたんは本線である。


「……そのままっ!」


 しかしゴール間近、どこにそんな力が残っていたのか、佐藤くんが二枚腰の伸びを見せる。


「はあっ!?」


 思わず腰を浮かせてしまう。

 いやいやいや、何してんの? あなたは2着でいいのよ佐藤くん!


 心中の絶叫はグラウンドに届かなかった。

 いっぱいになったモブ風を、ゴール直前で佐藤が交わして1着フィニッシュ。

 拳を机に叩きつけ悔しがるこちらの気も知らず、あの男はへたばって座り込みながらも、爽やかな笑顔で親指を立て、後続のランナーたちに自分が一番にゴールしたことをアピールしている。


「……じゃまくせぇ」


 吐き捨てるように呟くと同時に、あたしはやけに教室が静かであることに気がついた。

 我に返って見回すと、一体いつからなのか、クラスの人たちが何か得体の知れないモノを見るかのような目であたしのことを見ていた。

 古文の先生も、普段地味でおとなしい生徒であるあたしの突然の逸脱行為を注意したものか迷っているような様子だった。


「…………」


 凍てつくような沈黙の時間がしばし流れた後、あたしの選択した行動は弁明でも逃走でもなく、何事もなかったように椅子に座り直し、教科書を開き直し、きちんと授業受けていますけど何か? といったすまし顔を作ることだった。

 こちらの気持ちを察してくれたか、或いは関わりたくないと思われたか、先生もクラスメイトも特に追及はしてこなかった。


 × × ×


「あー、ハイハイハイ、菊花賞ですね。ドゥレッツァです、ドゥレッツァドゥレッツァ」


 護志田もりしたさんはそれだけ言うと、校門の方向へとそそくさと立ち去ろうとした。

 あたしは慌てて彼女の腕を掴む。


「いや、ドゥレッツァドゥレッツァって、そんなグラッチェグラッチェみたいな感じで言われても」

「別にそういう感じで言っていません。いつの時代のフレーズですかそれ? 離してください。今日は用事があるので、あなたに構っている暇はないのです」


 いつもの生徒会室に彼女の姿はなく、仕方なく帰ろうとしたところ、ここ昇降口にて茶髪のキュートガール・護志田さんを発見した次第だった。

 何やら下校を急いでいるようだが、もちろんそのまま帰らせるわけにはいかない。


「用事って何ですか? あたしとの決着をつけること以上に大事な用事がどこにあるんですか?」

「そんなのあなたの知ったことじゃないでしょう。それに、もう決着はつきました」


 あたしの手を振り払い、こちらに向き直る。


「先週の秋華賞においてリバティアイランドで的中したことを自慢するつもりはありませんが、人気馬の中で全く奮わなかったコナコーストを選んでしまったあなたはドボンです。ノーセンスです。普通なら恥ずかしくて外を歩けないはずです」

「そこまで言いますか……」


 辛辣な言われ様に、挫けかけそうな心をどうにか奮い立たせる。


「でも、これで1勝1敗です! 菊花賞で決着をつけましょう!」

「だからドゥレッツァだって言ってるじゃないですか。今日は議論を戦わせてる時間なんて無いんです。あなたもせいぜい本命のパクスオトマニカを応援してください」

「何しれっと人の本命を最低人気になりそうな馬にしてるんですか。あたしのことそんな軽い女だと思ってるんですか?」

「なぜ軽いとか軽くないとかの論点が出てくるのかわかりませんが、とにかく今日は、新幹線の時間があるので」

「新幹線が何ですか。あんなのただの移動手段じゃないですか!」

「当然移動手段として使うんです!」


 埒が開かない。

 ていうか、途中から自分でも何を言っているのかよくわからなくなっていた。

 辺りを行き交う生徒たちから、時折好奇の目が向けられるのを感じる。学校一の美少女があたしのような地味で陰気そうな女と何やらやりあっているのだから当然のことだろう。


「あたしは……先輩に勝たないといけないんです」


 もしかしたら焦っているのかもしれない。

 秋華賞での大外れは思いのほか大きな打撃だったようで、以来、あたしは自分を見失ってしまったような気がしている。

 今日の体育の時間など、競馬の予行演習程度の筈の順位予想で熱くなりすぎてしまい、好きな人への想いすらも本当なのか疑わしくなってしまうほどだった。


 勝ちたい。

 勝って、自信と自身を取り戻したい。それが達成できない限り、好きな人に思いなど伝えられない。

 あたしの声や表情に何か感じるものがあったのか、護志田さんはチラッと腕時計に目を落とすと、深い溜息をついた。


「……春の牡馬クラシック、特にダービーは決して高いレベルのレースではなかったと私は見ています」


 場所柄、競馬新聞を広げてというわけにはいかないが、見解を語ってくれる。


「時計的な部分でもそうですし、近年は『春二冠とってしまった馬が罰ゲームで参加しなければいけないレース』とさえ言われるこの菊花賞に、別々の皐月賞馬とダービー馬が来ていることが何よりの証左です」

「?」


 あたしは首を傾げた。

 確かに、皐月賞馬とダービー馬が菊花賞で激突するのは二十数年ぶりというのはどこかで見たが、言わんとしていることが俄かにはわからない。


「つまり、天皇賞秋やジャパンカップに行って、斤量のハンデをもらっても強い古馬相手には勝負にならないと踏んでいるんです。夢の対決が実現したのは両者弱いゆえ。皮肉なものですね」

「なるほど……」

「ダービー馬も皐月賞馬も恐るるに足りず。実績に劣る馬たちにも勝機はあり。そうなると4戦4勝で駆け上がってきた文字どおりの上がり馬、ドゥレッツァこそが最有力と見るのはむしろ自然と言えるでしょう」


 急いでどこかに行こうとしているせいか、普段以上に早口ではあったが、護志田さんは理路整然と見解を述べた。


「ドゥレッツァの単勝。私はこれでいきます。大外で人気落とすなら却って狙い目というものです」


 完全にお金を賭けているとしか思えないような言いまわしはさておいて、真剣にボールを投げてきてくれた以上、こちらも真剣に投げ返さねばならない。


「じゃああたしは、お言葉に歯向かうようですが、ソールオリエンスにします」

「ほう?」


 ぴくりと片眉を上げる。

 そんな表情も可愛らしいのだからズルいと思うが、無いものねだりをしても仕方ない。


「先輩はああ言いましたが、各陣営全身全霊込めて戦った春のクラシックを勝った馬が弱いとは思えません」


 この一週間で更に勉強してきたし、ダービーも皐月賞も、そこに至るまでのレースもつぶさに見てきた。


「特に皐月賞でソールオリエンスが見せたパフォーマンスは圧巻でしたし、凡戦に見えるほど展開的に差がつきにくかったダービーでもしっかり2着に入ったことはむしろ強さの裏付けになります。力の差が出やすい長距離レースでは、ぶっちぎりの勝利もあり得ると見ます。ソールオリエンスの単勝で間違いありません!」


 ビシッと人差し指を向けるあたしの気合いを、護志田さんは余裕の笑みで受け流した。


「そんな尤もらしいことを言いながら、本当は先週ので懲りて、1番人気に逆らえないってだけではないんですか?」

「なっ……!」


 色をなすあたしをよそに、護志田さんはまた腕時計を見た。


「ま、タマちゃんもいずれ競馬の奥深さがわかってきますよ。そんな単純なものではないと……では、本当に新幹線に間に合わなくなってしまうので、この辺で」


 ——1番人気を恐れるあまり、置きにいった無難な予想をしてしまっている……?


 丹念に分析して、考え抜いての予想のつもりが、無意識のうちに自分の弱さが出てしまったのかと愕然とするあたしは、彼女のその後の言葉をしっかり聞いていなかった。


「あの忌々しい女と二人きりで京都旅行なんて行かせてたまるもんですか……」


 あんなに可愛い護志田さんのくりっとした瞳が、このときは邪気に溢れていたことにもすぐには気がつかなかった。


(つづく)



 ◆菊花賞

 護志田さんの予想 ドゥレッツァ

 あたしの予想 ソールオリエンス

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