第2話 秋華賞
二学期はじめの席替えで窓際一番後ろの主人公席にありついて以来、金曜日の五時間目はその大半を窓の外に目を向けて過ごすのがあたしの定番になっている。
グラウンドではC組とD組の男子生徒たちが体育の授業中。六人一組でグラウンド一周を全力疾走している。今日はどうやら200メートル走のタイム計測をしているらしい。
罰ゲームとしか思えない種目なのに、動くの大好き男子生徒たちは歓声を上げたり奇声を上げたりと盛り上がっている。
そして、その中にはあたしの好きな人の姿もあった。
——佐藤くん……
彼は先に走っていく人たちに応援の声を掛けたり、側に立ってる仲間たちと何かやりとりしては手を叩いて笑ったり、屈託なく体育の時間を楽しんでいる。
あたしはそんな彼をじっと見つめる。
——佐藤くん……
自分たちが走る番がやってくると、彼は打って変わって真剣な雰囲気でスタートラインに立った。
誰よりも早くゴールしてやると決意と自信に溢れる眼差しをしているのが、遠く離れた校舎の窓からでもはっきりとわかる。
——佐藤くん……ああ、佐藤くん
あたしは思わず、秘めた想いをノートに走り書きしていた。
それと同時に先生がホイッスルを鳴らし、六人の男子が走り出す。
横一線のスタートも、すぐに速い人遅い人で差がついてくる。突出して速い二人が抜け出して競り合う。その一人は佐藤くん、相手は坊主頭の小柄な男子だった。
——佐藤くん……がんばって
あたしの願いも虚しく、佐藤くんは最初のカーブを抜けるタイミングで坊主頭に前に出られてしまった。
向こう正面の直線では徐々に差を縮めるが、なかなか交わすことができない。
——佐藤くん! がんばれ佐藤くん!
次のカーブでまた少し差が開いてしまう。コーナリングは相手の方が得意らしい。
最後の直線、佐藤くんは力を振り絞り迫っていく。完全に二人のマッチレースだ。
——佐藤くん! 佐藤くん!!
思わず声が漏れてしまう。
「……差せっ」
聞こえてしまったか、隣の席の男子生徒がこちらを見たような気がしたが、そんなの気にしている場合ではない。
勝つか負けるか、この数秒で決まるのだ。
——差せ! 差せ! 佐藤くん! 佐藤、オラ!!
しかし末脚及ばず、坊主頭の逃げ切り、佐藤くんは僅差の2着だった。
走り終えた佐藤くんは、すぐに坊主頭とお互いの健闘を称え合う。一人の女生徒ががっくりと
ノートに走り書きした文字と数字が目に入っている。
単勝⑥
人連①ー⑥
⑥はもちろん大外枠にいた佐藤くんのことである。応援の意味も込めてまずは彼の単勝、そして保険で最内枠にいたいかにも足の速そうな背の高い男子との馬連ならぬ
結果は今見たとおり、まず①のノッポがとんだ見掛け倒しで早々に人連が消え、⑥佐藤くんの単勝に望みを託すことになったわけだが、惜しくも2着、あたしの予想も外れとなってしまったわけである。
こんなことでは日曜日の勝負も思いやられる——
あたしのついたため息は、恋のため息と呼べるものではなかったかもしれない。
× × ×
「……くっくく、一度ならず二度までもこの私に立ち向かおうとは。実に愚かな方ですね」
放課後の生徒会室、学校一の美少女と名高い
「一度のビギナーズラックでは勝った気がしない、よって好きな男子に告白する勇気もまだ出ないので、本当の自信をつけるために改めて勝負を挑みたいなどとは……世の中には面白いことを
たった今あたしが伝えた内容を丁寧に復唱すると、ビシッと人差し指を向けてきた。
「いいでしょう! 今度は再び生き返らぬよう、はらわたを喰らいつくしてやりましょう!」
「……前回はあたしが勝ったんですけど」
「アレは競馬デビューのあなたに敢えて花を持たせてあげたんです! つまりノーカンです! ノーカウンツ! ノーカウンツ!」
他に誰もいない二人きりの室内で、元気良くどこかの魔王みたくなってみたり、どこかの班長みたくなってみたりの護志田さんなのだった。
「……とはいえ、初めての競馬でちゃんと1着の馬を指名できたのは大したものです。もちろん私も本当はママコチャが勝つことはわかっていたんですけどね。わざと違う馬を選んだんですけどね。かわいい後輩にあえて勝ちを譲る的な粋な感じのアレだったんですけどね。それはさておいてまずは惜しみない祝福を贈ることにしましょう。コングラッチェレーション、タマちゃん」
『まずは』の前に散々見苦しい言い訳があったような気もするが、こちらに向けてパチパチ手を叩いてくる。
愛称を呼ばれ拍手されてる間のあたしは手持ち無沙汰で、目の前の美少女をただ眺めることしかできなかった。
言動はアレだが、改めて見るとやっぱり可愛い。反則的なまでに可愛い。
ふわっとした茶色の髪に、整った目鼻立ちは特にくりっとした瞳が特徴的で、その小柄さも相まってとても高校二年生とは思えない愛らしさである。
とり立てて少女愛好の趣味のない同性のあたしでさえ、思わず見惚れてしまいそうだった。
あたしが今またここに来て、このチート級美少女と対峙しているのは、彼女が説明台詞で言っていた通りである。
恋愛ピラミッドの最下層にいる自分を変えるため、最上位にいるこの人へと挑んだのが先々週のこと。
持ちかけられた競馬予想対決で、よくわからないまま何となく選んだ馬が勝ってしまい、それはそれで鮮烈な体験ではあったのだが、ハイこれで勝ち、自分に変革が
「あたしはあの後、寝る間も惜しんで競馬について勉強して来ました。日曜日の秋華賞もバッチリ検討済です。今度こそ胸を張って『勝ったッ! 第3部完!』と言う準備はできています!」
「ククク……」
あたしの言葉を受け、護志田さんは再びダークモードに突入して哄笑した。
「まったくもって笑わせてくれます。寝る間も惜しんで勉強? バッチリ検討済? 『生兵法は怪我のもと』とはあなたのためにあるような言葉ですね」
傲然した顔つきで煽ってくる。
それでも身長の関係で、あたしのことをかなり見上げる形になってしまうのが憎めないところであるが。
「ちなみに私のためにある言葉は『酒池肉林』です」
「まあ別にいいですけど……」
護志田さんは長机の上にあった競馬新聞を手にとり、バサっと翻した。秋華賞の確定出走表が載っている面が上向きになる。
「牝馬三冠の最終戦、秋華賞……決着をつけるには絶好のレースと言って良いでしょう」
頷いて、あたしも出走表に目を落とす。
校内でのスマートフォン使用禁止の校則を律儀に守っているあたしは、今朝出た枠順をまだ知らなかった。言うまでもなく校内への競馬新聞持ち込みなどもっと論外の筈ではあるが。
まず本命馬がどの枠にいるか確認していると、護志田さんが早口でまくしたててきた。
「こないだはタマちゃんが先に本命馬指名したので、今回は先行後攻入れ替えるのが筋というもの。ハイ、それでは選ばせてもらいましょう。私の本命はこの馬です!」
ちんまりとした指で紙面を差す。
3枠6番リバティアイランド
「えーっと……」
「何ですか? セコいとか姑息とかやり口が汚いとか言いたいのですか? 校内でそんなヘイト発言したらいけないんですよ。先生に言いつけますよ」
「いえ……自覚されてるみたいなので、私からは大丈夫です」
このなりふり構わない様子を見るに、実は前回負けたのがよほど悔しかったのだろうかと思いつつ、あたしは枠順の確認を終えた。
うん、この枠ならオッケーだ。
「フフ……いくら馬柱を眺めたとて無駄なことです。ひょっとしたら言ってなかったかもしれませんが、本命馬の重複指名は禁止ですから」
もちろん完全に初耳である。
「フフフ……つい二週間前まで競馬のけの字も知らなかった超ニワカウマジョのあなたといえど、この馬の規格外の強さは既にご存知でしょう。もはや一頭だけ違う乗り物と言っても過言ではありません」
春の桜花賞やオークスといった大きなレース映像は当然チェックしてある。その言葉が決して大袈裟なものではないことはよくわかっていた。
「フフフフ……彼女に逆らおうなどと無謀というもの。潔く降参してはいかがですか? ……ウフフ、クククク、ヘケケケケケケッ!」
ダークモードに入り込みすぎ、気味の悪い笑い声をあげておられる。
しかしあたしは動じなかった。
「よくわかりました……それなら先輩はリバティアイランドの単勝ということで良いですね?」
「ええ、モチのロンです! それはもう、鬼脚炸裂ぶっちぎりで勝つことでしょう!」
「じゃああたしは、コナコーストの複勝にします」
「ほう、コナコーストですか? なかなかイイ線ついてくるじゃないですか。桜花賞での粘りは大したものでした。しかしさすがに逆転するのは不可能——」
と、鼻息荒く語っていた護志田さんの言葉と動きが一瞬止まった。
「……複勝?」
「はい。あたしはコナコーストの複勝で勝負します」
「えっと、私たちがやっているのはそれぞれの本命馬を指名して、どっちが勝つかという勝負では……」
「何言ってるんですか?」
護志田さんの言い分を一笑に伏すと、あたしは前もって準備しておいた説明をはじめた。
「競馬というのは1着を当てれば良いというゲームではありません。オッズに応じて各種馬券を買ってプラスを目指すという勝負です」
「いや、でも——」
「でも高校生のあたしたちが実際に馬券を買うわけにもいかない。それなら某芸人さんのように机上の通貨を設定して単勝に何ソシー、馬連に何ソシーといった感じで割り振る方法が妥当かとも考えました」
「……」
まさかJKであればほぼ全員視聴している筈の四兄弟のチンチロ動画を知らないのか、護志田さんはキョトンとした顔をしているが、あたしは構わずに説明を続ける。
「しかし、その方法をとった場合、大当たりした時に『本当に馬券買ってればな〜』という気持ちに捉われ、歯ぎしりしてしまうこと請け合いです。ならばどうしたら良いか?」
あたしは名探偵のように指を立て、自問に対して自答した。
「それぞれ券種1点を選び、当たった方の勝ち、双方ともに当たった場合はオッズの高い方の勝ちとするのがシンプルで至当な勝負方法かと」
「むむむ」
「何がむむむですか。そんな当たり前のことにも気が付かずに、先輩は迂闊にもリバティアイランドの単勝などという1倍台前半しか付かないであろう券種に張ってしまった」
そう、あたしはちゃんと『先輩はリバティアイランドの単勝ということで良いですね?』と確認し、彼女は首肯しているのだ。
「リバティ以外の有力馬は、春クラシック好走組と秋の前哨戦好走組とで人気が割れており、複勝でもまず2倍は付く筈。コナコーストが3着以内確定とまでは言えませんが、勝算は十分にあると見ます」
「フ、考えたものですね……」
こちらの長広舌を聞き終え、護志田さんは感心したような、少し呆れたような笑みを見せた。
「もし私が他の馬を指名していたら、すかさずリバティアイランドを取って、シンプルに着順が上の方が勝ちとか言ってたのではないですか?」
鋭い指摘をしてくる。
あたしはハッキリ肯定も否定もせず、思いの丈を語った。
「あたしも必死なんです……恋愛ピラミッドの底辺にいる自分を変えるためにはどうしても先輩に勝たなければいけない。そして、堂々と好きな人に想いを伝えたい……」
「……」
窓から挿し込む夕陽が、護志田さんの透きとおるような肌を橙に染めている。
彼女とは月とスッポンかもしれないけど、あたしも同じ色に染まっているのだろう。
「…………」
「…………」
しばしの沈黙の後、護志田さんが口を開いた。
「ていうか……」
あたしの顔をまじまじと見て、少しだけ言いにくそうに伝えてくる。
「……もはやそういうの関係なく、競馬にドハマりしてしまっただけなのでは?」
美少女は突き刺さるようなジト目をしていた。
(つづく)
◆秋華賞
護志田さんの本命 リバティアイランド
あたしの本命 コナコースト
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