UMAJO大戦

氷波真

第1話 スプリンターズステークス

 あたしの好きな人には好きな人がいる——


 どうして神様は、ホレただのハレただの、恋だの愛だのという余計な感情を人間に付与したのだろう。

 そのおかげで古今東西どれだけの数の弱き者たちが思い悩み、身を焦がし、悲嘆にくれ、絶望に沈んだことだろう。


 分不相応にもこないだの席替えで窓際一番後ろの主人公席を獲得したあたしは、この席ならではの特権行為『窓外を見やりぼんやりとたそがれる』にいそしみながらそんな物思いにふけっていた。

 グラウンドではC組とD組の男子生徒たちがジャージ姿でワイワイやっており、時に歓声が湧いたり、笑い声が上がったり。

 運動音痴の身としては憂鬱で仕方ない体育の時間をあんなに楽しめるなんて羨ましい限りだ。まして100メートル走のタイム計測なんてどこに面白い要素があるのか。

 それでも彼が走る順番が来ると、あたしは頬杖ついた姿勢を改め、思わず祈るように両手を組んで見てしまっていた。


 佐藤くん……


 あまり目立つタイプではないけど、一部女子の間では隠れイケメンと評価されているらしい佐藤くん。

 サッカー部期待のルーキー、佐藤くん。

 そして……あたしの片恋相手の佐藤くん。


 そんな佐藤くんが一生懸命走る姿をじっと見つめる。

 ずっと窓外に顔を向けているあたしに、隣席の男子が何やらいじるような声をかけてきたが、そんなの無視して佐藤くんを見つめる。

 少しでも早くゴールするために必死に走る彼を、私も必死の思いで応援する。小学生の頃から男子のかけっこになんて全く興味なかったのに。恋の力は人間なんてたやすく変えてしまう。


 一緒に走った五人のうち、佐藤くんは二番目にゴールした。一番の人はちょっと異常な速さだった。あんなのチートだ。陸上部かなんかだろうか。一般生徒に混ざって走ってんじゃねーよバカ。

 内心で悪態をつくあたしと大違いなのは、一緒に走り終えた仲間たちと談笑している佐藤くんの爽やかな姿。あたしの胸はチクっと小さな痛みを覚える。


 ——中学の時から憧れていた佐藤くんが同じ高校を受験することを知ったとき、そして二人とも無事合格できたと知ったとき、あたしは運命を感じ、神様に心底感謝した。

 クラスは別々になっちゃったけど、きっといつか……と夢見ていたあたしを、突然闇に落としたのは、佐藤くんが同じクラスの鈴木さんのことを好きらしいという噂話だった。

 それとなく様子を見に行って、思っていた以上に彼が片恋ムーヴしてるのを目の当たりにしたとき、神様ってヤツは人の心を弄ぶろくでなしなんだと理解した。


 へこみながらも恋敵の調査を進めてみたところ、鈴木さんは鈴木さんで、同じ部活の高橋先輩のことが好きらしいと分かった。あたしは複雑な気持ちを抱いた。

 そっちでくっついてくれればと思う反面、佐藤くんに好かれておきながらなんなの? と納得できかねる思いがあった。

 更に調査を進めてみて、その高橋先輩も同学年の女子生徒に片想いしていると知ったとき、今度は自分が惨めに思えてきてしまった。


 あたしの好きな人には好きな人がいて、あたしの好きな人が好きな人にも好きな人がいて、好きな人が好きな人が好きな人にもさらに好きな人がいる。片想いのピラミッド。

 あたしがいるのは、その最下層なんだ——


 このままでは高校生活三年間、底辺女子として日陰を歩かねばならない。

 もしも何とか策を弄して奇跡的に佐藤くんがこちらを向いてくれたとしても、きっとこの劣等感はついてまわるだろう。下に降りてきてくれてありがとうと、卑屈なあたしになってしまう。

 抜本的に自分を変えなきゃいけない。そのためにはどうすれば良いのか、何をすべきか。

 もしも底辺あたし頂点あのひとに勝つことができれば——


 グラウンドの男子生徒たちは、いつの間にか校舎へと引き上げている。

 それでもあたしは前髪をかき上げ、決意を込めた眼差しを窓外に向け続けていた。

 あの文学小説の有名なフレーズを、誰にも聞こえない声で呟いてみる。


 戦闘、開始。


 後から振り返ると、この時のあたしは少しばかり冷静さを欠いていたのかもしれない。


 × × ×


「なるほどなるほど、共感できる余地はカケラもありませんが、理解はできました。ええ」


 その美少女は呑み込み顔でうんうん頷きながらそう言った。

 放課後の生徒会室には他に誰の姿もない。通常期は週二日しか使われていないその部屋を、彼女はしばしば自習室代わりに使っているという。

 そこに乗り込んできたあたしに対して何らの動揺も見せず、読んでいた英字新聞を長テーブルに置き、興味ありげな視線をこちらに向けてくる。


 うっ……かわいい……


 近距離で直接相対し、正直なところあたしは気圧されていた。

 カチューシャが乗っかっているふわふわの茶色い髪、無垢そのものといったくりっと大きな瞳、きめ細やかな肌……倒すべき敵は可愛らしすぎて逆に威圧すら感じるほどの美少女だった。


「つまりは、ご自身が食物連鎖の最下層、草や葉っぱの類いでおられることに気がついて、校庭見ながら『我は草なり、サガン鳥栖』などとむなしく呟き続ける日々から脱却すべく、この私に挑戦状を叩きつけにきたというわけですね」

「そんな変なポエムを読んだ覚えはないですけど……まあ、大体そんな感じです」

「なるほどなるほど、まあそういう年頃ってことなのでしょうかね」


 彼女は椅子から腰を上げ、あたしに正対した。

 大人めいたことを言ってはいるが、立ち上がると彼女の頭はこちらの胸の位置ぐらいにあり、制服を着ていなければお兄ちゃんかお姉ちゃんを探して校内に迷い込んできた小学生だと思われることだろう。

 しかし、そんな特性も今は脅威でしかない。男の大半が潜在的に小さくて可愛らしい女の子のことが大好きであることぐらい、15年も生きていれば自ずと悟れてしまう。

 ウルトラキュートな見上げる瞳にやられないよう、あたしは歯を食いしばる。


「も、護志田もりしたさんは、バスケ部のキャプテンの田中さんとか、バンドやってる伊藤さんとか、読モやってる渡辺さんとか、錚々たる上位男子たちに告白されてきて、ことごとくフッてきたと聞きました。そんな恋愛ピラミッド頂点のあなたに勝ってこそ、あたしは前に進めるんです! あたしと勝負してください!」


 学校一の美少女とも言われており、立候補でなくスカウトで生徒会入りした才媛であり、あたしの好きな人の好きな人の好きな人の好きな人である護志田さんは、必死の宣戦布告を聞き、嬉しげな表情を見せた。


「フフ、前髪で顔の三分の一を隠したジェネリック綾波みたいな陰気そうな見てくれの割には良い度胸をしていますね」


 口は結構悪い。


「お名前を聞いておきましょうか」


 あたしが氏名を告げると、護志田さんは全く考える素振りも見せずに言葉を次いできた。


「ではとりあえず、タマちゃんと呼ばせていただきましょう」

「呼び方なんてどうでもいいです」


 感じ悪いことを自覚しながらも、あたしは素っ気なく返答した。

 本来なら、幼少期から慣れ親しんでいる愛称でカースト最上位の先輩に呼んでもらえるなんて光栄と思うべきかもしれないが、今この人は敵なのだ。

 後輩の無礼など気に留める様子もなく、護志田さんは話を進める。


「それで、具体的にはどういう勝負をしたいのですか? 何でも受けて立ちますよ」

「え、どういうって……えっと」


 そう言われて初めて、勢い込んでやってきたにも関わらず、何も考えていなかったことに気がつく。やはり冷静さを失っていたらしい。


「何でもいいですよ。こう見えて運動系や格闘系も得意ですから、可憐な美少女相手だからって遠慮しなくていいんですよ」


 自分でそう言ってのけてしまうことに、そしてそれが決して自惚れとは言えないことに反発を覚えるも、運動も格闘もこちらが苦手である。じゃあそれでとは申し出ることはできない。


「そうだ、撲針愚ボクシングなんてわかりやすく決着つけられるし、いいんじゃないですか?」

「ぼ、ボクシングですか?」

「ええ、撲針愚」

「そんな……人を殴ったりなんかしたことないし、そんなのは無理です」

「大丈夫ですよ、経験がなくてもグローブのトゲトゲが相手に刺されば倒せます」

「え? トゲトゲ? えっ?」


 わけがわからないが、何やら剣呑なことを言われ、混乱に陥る。

 そんなあたしの姿を見て、護志田さんは鼻で軽く息をついた。


「ふむぅ、どこかのエロ兄ィのように『君が言ってるの男塾名物・撲針愚の方だろ! 危険だからやめとけ!!』とかのツッコミは放てませんか……」

「え? え?」


 よく聞こえなかったが、何だか呆れられてしまった気がする。


「まあ、やっぱりこの時期に勝負といえばこれしかないでしょうね」


 言いながら彼女はさっきまで読んでいた英字新聞を手にとり、こちらに投げよこしてきた。


「な、何ですか?」

「その新聞をよく見てください」

「新聞を……?」


 これを使ってなんらかの勝負をするのだろうか。英語はかなり得意なので勝ち目があるかもしれない。

 そう思いながら目を落とし、あたしは驚愕した。


「こ、これは!?」

「そう、英字新聞の一面だけかぶせてある、中身は競馬新聞というシロモノです!」

「どうしてこんなものが校内に……?」

「決まっているでしょう。金曜日の放課後は生徒会室で土日の競馬予想をするのがルーティンなのですが、堂々と競馬新聞広げているところを先生に見られて怒られたりしたら泣いちゃうかもしれないじゃないですか。それを避けるためのカモフラージュです」


 何故か胸を張り、自信満々なご様子である。


「それにしても競馬なんて……」


 超絶美少女の護志田さんにあまりにも似つかわしくない嗜好に、よく聞いたら情けないことを言っていることへの指摘も忘れ、あたしは呆然と呟いた。


「もちろん馬券なんて買ってなくて、純粋に予想とその答え合わせを楽しんでいるだけですけどね。かのイマデショ林だって『競馬とは推理力を駆使した最高の知的ゲーム』みたいなことを言っているのですよ」

「はあ……」


 そういうものなのだろうか。あたしとしては、あまり清潔ではないおじさんたちがのめり込んでいる良からぬ営為というイメージしかなかったが。


「ホラ見てみてください」


 手元の新聞を差し示されて、改めて目を落としてみる。

 大きな見出しから、何やら解説している文章から、馬の名前と思しきカタカナの固有名詞や人の名前その他わけのわからない言葉や数字が並ぶ表のようなものから、どこを見ても何が何だかさっぱりわからない。理解できるのは日付と曜日ぐらいだった。


「その一面に膨大な情報が渦巻き、奔流となっているのがわかるでしょう。これらを個別に、そして包括的に読み解き、どの馬が勝つのか当てる。これ以上の快感はありませんよ」

「は、はあ……」


 恍惚とした表情の護志田さんにドン引きしながらも、あたしは再度紙面に目を向けてみる。

 やはりわけがわからない。それだけに知的好奇心がどこかでくすぐられるのも否めなかった。確かにこの情報を全て把握し、どれが勝つか正解を導くことができたら気持ちいいのかもしれない。


「じっくり馬柱の見方から教えてあげたいところですが、今日はあと僅かで最終下校時間です。競馬というものは直感もまた重要、今回はパッと見でどの馬が勝ちそうか選んでみてください。私が選ぶ馬よりも先着すればあなたの勝ちとしてあげます」

「えっ? それってあたしがものすごく不利じゃないですか? 護志田さんは競馬に詳しいんですよね? あたし全然わからないし……」

「ビギナーズラックという言葉もあるように、案外そういう人の方が当たったりするものなんですよ。それに……」

「それに?」


 躊躇するあたしに、護志田さんは今しがたまでのヤバめの表情から打って変わって真剣な顔と声を向けてきた。


「私を倒して、自分を変えたいのだったら、これぐらいはクリアできないと話にならないのではないですか?」

「…………!」


 闘志に火が着いた。

 そうだ、あたしはこの人を倒しにきたんだ。どんな勝負にだって挑んでやろうじゃないか。

 やはり冷静ではないと自覚しながらも、冷静さなんてクソ食らえという気概で、あたしはまた新聞に目を向けた。今度は強い決意のこもった眼差しを。


「ちなみにそれは日曜に行われるスプリンターズステークスという短距離の頂上決戦の出走表です」

「短距離……」


 1200mと書いてあるのは多分走る距離だと思うが、馬には1.2キロが短距離なのだろうかと首を捻りつつ、紙面ひと通りに目を通してみる。

 あっ武豊ってなんか聞いたことある。


「さあ、この16頭の中に必ず1着の馬がいるのです。見事当ててみせたら、あなたにスプリンター先生の称号を与えてあげましょう」

「そんな亀の師匠のネズミみたいな称号はいりませんけど……じゃあこの馬で」


 意を決して紙面を指差す。いくら眺めたところでさっぱりわからないので、ほぼ全くの直感だ。


「ほう、ママコチャ!? ものすごくイイ線ついてくるじゃないですか! この馬を選んだご理由は?」

「理由なんてないですけど……強いて言えば名前がなんとなくいいなと思ったのと、あと……」

「あと?」


 授業中に見たグラウンドの光景がフラッシュバックする。


「この一番下ってひとつ前のレースの結果ですよね。こないだが2番だったから、今度は頑張って1番になるかもなって……」


 ど素人丸出しのことを言っているのはわかっている。笑われることも覚悟したが、護志田さんは真面目な顔で頷いた。


「ふむ。満更無いこともない見立てだと思いますよ。でも、そうなるとこっちのアグリという馬も前走2着ですけど、何でこっちは選ばなかったんですか?」

「それは……騎手のところに書いてある横山典って名前がちょっと引っかかって。全然知らないんですけど、何となくマジメにやらないこともありそうな気がして」

「あなた天才ですか!?」


 心底驚き、何やらあたしに一目置いた様子の護志田さんだったが、気を取り直してまた尊大に胸を張った。


「ま、まあ、なかなかやるようですが、残念ながら勝つ馬は別にいます。この競馬歴四年半の私が特別に教えて差し上げましょう!」

「はあ」


 てか四年半って。小6か中1の頃からやってたのかこの人。


「それはこの馬、ナランフレグです!」

「ナランフレグ……」

「ええ。近走2桁着順の大差負けが続いて、すっかり舐められていますが、安田記念は距離長過ぎィのうえにハイレベル過ぎィって感じでノーカンですし、完全に叩きだったうえに重馬場で無理しなかったキーンランドカップもノーカウンツ。言ってもGⅠ馬、ここに向けて仕上げてきた筈で展開が向けば十分チャンス有りと見ます! そして今回、テイエムスパーダ、ジャスパークローネ、モズメイメイがハナを争ってペースが速くなることは必定! 開催最終日でタフになってる中山の馬場で後ろからごぼう抜きのお膳立てはできています!」


 わけのわからぬ呪文なような文言を早口でまくし立てられ、あたしは混乱し、恐怖を感じた。

 その後もやれリピーターが何だとか、昨年勝ったのも7歳馬だとか、丸田の号泣再びだとか、下校を促すチャイムが鳴るまで止まらなかった。


「……フフ、この完璧な検討をぶつけてやれば、エロ兄ィもきっと参ってしまうはず。あの女に目にものみせてあげるわ」


 すっかり疲弊したあたしの脳は、帰り支度をしながら彼女が呟いた台詞を留めることはできなかった。

 とにかく刻み込まれたのは、競馬というものがハマってしまうと強烈に面白いのであろうということばかりであった。


(つづく)



 ◆スプリンターズステークス

 護志田さんの本命 ナランフレグ

 あたしの本命 ママコチャ

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