第6話 マイルチャンピオンシップ
ほとんど消灯している暗いフロアに、一箇所のみ電灯がついており、その下で男と女が蠢いている。
——残業している、僕と
僕は黙々と社内システムにデータの入力をしつつ、斜め向かいのデスクにてやはり黙々と何らかの作業をしている伊鷲見さんを時々チラ見してしまう。
後ろできっちりまとめた髪型そのものは地味なのかもしれないが、スッと高い鼻筋に
斜め前からの視線など気にする素振りも見せず、目の前のモニターに意識を集中させ、時折指をキーボード上に走らせる。容姿といい仕事ぶりといい、つくづくキャリアウーマン役を演じている主演級女優のような人である。
そんな彼女が、時期外れの異動でこの部署にやってきたのは今週頭のこと。
噂好きの同僚が囁いていたところによると、元々次の定期異動で新管理職としてこの部署にくるのが内定していたところ、欠員の発生を受けてまず異動だけしてきたのだという。
もちろん真偽のほどはわからないが、異動してきてわずか五日、この人が過去最年少で管理職に就くのではと噂されるだけの人であることはよく理解できた。
前任の主任職が唐突に退職してしまったため、まともな引き継ぎもない中で、彼女は月曜の昼頃には部署内の業務全般とその進捗状況について把握してしまうと、すぐさま遅滞を解決すべく陣頭指揮を執り始めた。
的確な采配と指揮官自身の卓越した処理能力により、山積していた仕事は面白いように片付いていった。
水曜日には夢にまで見たノー残業デーが実現し、僕たちは有能な人というのはこういうものかと感嘆しつつ、自分たちの無能さを悲嘆したのだった。
本日も同僚たちは定時帰宅にありつき、古来言われるところの花金とやらを楽しんでいる筈だ。
伊鷲見さんと僕の二人だけ、夕方に発生した緊急案件の対応と後処理のため一時間ほど残業をしているが、それももう目処がつきそうだった。
「——ちょっと聞きたいことがあるのだけど」
唐突に伊鷲見さんが口を開いた。
顔はモニターに向けたまま、表情ひとつ変えていないが、他に誰もいないのだからおそらく僕に向けた言葉なのだろう。
「はい、何でしょうか?」
ここ数日の仕事ぶりを見て、彼女が部下や同僚、時には上司にまで厳しく接する人だとわかっている。
僕は緊張して、彼女の言葉を待った。
「あなた、妻帯者なんですって?」
飛んできたのは意外な質問だった。これまで業務中に彼女が雑談しているところなど見たことがない。
「ええ……まあ、一応」
「一応?」
彼女は眉根を顰め、こちらを一瞥した。
「その言い方はパートナーに失礼なんじゃない?」
「あ、はい、すいません」
「私に謝罪してどうするの? 私はあなたのパートナーになった覚えなんてないけど」
「あ……すいません」
反射的に謝ってしまったことを咎められ、また謝ってしまう。
伊鷲見さんはすぐにモニターに向き直り、業務を再開する。さっきまで黙々と作業していたのに、今は沈黙が気まずく感じる。
——さっさと作業を片付けて帰宅してしまおう。そしてGⅠの検討をしよう。
そう気を取り直したところ、伊鷲見さんが睨みつけるような目をこちらに向けていることに気がついた。
「えっ? ……あ、あの、何でしょうか?」
「もう一つ聞きたいのだけど、パートナーとは上手くやっているの?」
唐突に踏み込んだ質問をしてくる。
しかしプライバシーどうこうと回答を拒否するほどのものではないし、それが出来る僕でもない。
「まあ、それなりに……」
ここで言葉を止めたらまた叱責されるのではないかと気がつき、言葉を続ける。
「うまくやっていると、思います」
「そう……」
彼女はこちらに鋭い目を向けたまま、言葉を続けた。
「意外と床上手なのね」
「はあっ!?」
予想外の台詞に面食らい、つい大声を出してしまう。
「自分で言ったじゃない。上手くヤッているんでしょう?」
いや男子中学生かあんたは。
ツッコミの言葉が喉から出かけるが、一応相手は直接の上司なので自重する。
伊鷲見さんは厳しい表情を崩さずに言葉を続けた。
「家庭で欲求が満たされているのなら、会社内で破廉恥な行動をするのは控えてもらいたいわね」
「そんな覚えは全くありませんが……」
「フン、とぼけるのは下手くそなのね……」
会話の雲行きが怪しくなってきた。一歳年上の女性上司に冗談を言っているような雰囲気は無い。
彼女はいきなり立ち上がり、白く細い指でこちらをビシッと差してきた。
「白状なさい! 今こうして残業しているのだって、チャンスがあれば私のことを手篭めにしようという企みなんでしょう!」
「はあ!? な、何を言ってるんですか!?」
「何を言ってるって、私を押し倒して、無理やり衣服を脱がせて、屹立したモノを強引に挿入——」
「手篭めにするという言葉の解説を求めているわけじゃありません!」
僕も思わず立ち上がり、声を荒らげてしまう。何てことを言ってるんだこの人は。
彼女の方もヒートアップし、ものすごい剣幕で言い募ってきた。
「じゃあ、私一人で十分と言ったのに、わざわざ一緒に残っているのはどういうこと!? 私の肉体を狙っているとしか思えない不審な行動じゃない!」
果たしてこの人は正気なのだろうかと甚だ疑問ではあったが、しっかり否定せねばこの会社から放逐されかねない。
「そんなわけないじゃないですか! ただ、お一人で仕事するよりは二人の方が早く片付くから、僕も残っただけです!」
「なっ——!?」
伊鷲見さんは目を丸くし、一瞬言葉に詰まった。
「——な、なっ、何を言っているのよあなたは! ……そ、そんな言葉で私が籠絡されるとでも……」
いきなり別人のように歯切れが悪くなり、俯いて何やらモゴモゴ言う。終わりの方はよく聞き取れなかったが、いくらか温度は下がってくれたらしい。
が、また顔を上げると、デスクを回り込んでこちら側へと詰め寄ってきた。長身でスタイルが良い彼女はそんな姿も颯爽としているが、見とれている場合ではないのは明らかだ。
「だったら、これは何なのよ?」
たじろぐこちらに、一枚の付箋を示してくる。それは見覚えのあるものだった。
まぎれもない僕の筆跡でこう書いてある。
MCS
◎11
◯9
△6
穴4
言うまでもなく、日曜日に行われるレースの現時点での予想印である。同僚に頼まれて走り書きして渡したのだが、持ち帰らなかったらしい。
「こんな恐ろしく破廉恥な計画の証拠を残すなんて、迂闊だったわね!」
「破廉恥な計画?」
「言い逃れは効かないわよ!」
顔を紅潮させ、付箋の文字を指差す。
「まずこのMCSという怪しいアルファベット三文字……これは『マ◯コ、チ◯コ、セッ◯ス』を略したものね!!」
……男子中学生どころか、小学生以下だった。
呆れ果てて言葉も出ないのを、図星を突かれて沈黙してるとでも勘違いしたか、彼女は更に勢い込んで珍解釈を述べてくる。
「そして、この女性器を表した二重丸の記号の横にある11という数字……これは中学生の時、天文学部で背番号11を着けていた私のことに違いないわ!」
「そんなこと知りませんよ……」
「その下にある9と6という数字については言わずもがなアレのことね。そして『穴4』というのは女性の4つ目の穴……つまり、お尻まで犯してやろうという意思表示ってわけでしょ! なんて男なの! ケダモノ!!」
「何を言ってるんだあんたは!!」
いつぞやの休憩室に続き、また上役に対して乱暴な言葉を使ってしまった僕のことを誰が咎められるだろう。
実際に何を言われているのか理解しろと言うのが無理な話である。どうして天文学部に背番号があるのか、1つ目から3つ目の穴は何を指すのかも、さっぱりわからない。
大声で反発されて少し気圧された様子の伊鷲見さんに、今度は努めて丁寧に伝える。
「……わかってください。僕はそんな色気狂いみたいな人間じゃありません。そのメモは、日曜日の競馬に関するもので——」
「そんなの嘘よ! 私、あなたが眼鏡の男にそのメモを渡しながら卑猥なこと話しているのも、見ていたのよ!」
「……何ですか卑猥なことって。そんな覚えありませんよ」
メモを渡した人も同じ部署の社員なのだが、何故か眼鏡の男呼ばわりされていることはこの際置いておく。
「あの時あなたは、本命はセクロスで決まりだって言ってたわ! 私とセクロス決めてやるってことでしょ! 結婚までしていながら、何て男なの……私のことが本命だなんて……そんな、ダメよ……そんな……困るわ」
何故か身をくねらせながら、とんでもない妄言を吐く伊鷲見さんに、それはセリフォスという馬の話をしていたのであり、僕はそんなしょうもないネットスラングを使ったことは一度もない旨を説明する。
「で、でも、抵抗されたらクリ◯リスを舐めるとか言ってたでしょ!」
「対抗にはクリストフ・ルメールって言ったんです!」
「穴に入れてまえばええやんって——」
「穴で入れるならエエヤン! そういう名前の馬がいるんです!」
「
——ダメだこの人。
対話を諦めた僕は、わめき散らす上司を強引に振り切って退勤することにした。
「ま、待ちなさい! まだ話は終わってないわよ!」
「僕の方は大体片付きましたんで! おつかれさまですっ!」
自分の鞄とコートを引っ掴み、這々の体で逃げ帰る。
——何なんだあの人は。どうしてあんなイカれてる人が仕事は出来るんだ。
一人オフィスに残された彼女が、ため息とともに呟いた言葉を僕は知らない。
「あんな情慾たぎった目で私のことを見てくるなんて……私、一体どうすればいいの?」
(つづく)
◆マイルチャンピオンシップ
僕の本命 セリフォス
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