第41話 満月の夜

「神尾出雲の遺伝子とボク、美空月夜の遺伝子の相性はとても良いんだ」


 ツキがそう言ってからはとても早かった。



 生物研究の中でも遺伝子研究は彼女の専門分野である。


 ……どこからどうやって入手したのかは分からないが、俺とツキの遺伝子の良さを完成途中の論文を交えつつ発表していた。過去類を見ないタイプの羞恥プレイである。


 会場を見るも、『今俺達は何を見せられているんだ?』という表情の者がほとんどだ。


 俺としても何をしているんだと言いたい。言いたいんだが。


 マスコミや一部の過激派を理論で黙らせるため、という理由がちゃんとある。

 ツキも俺のためにやってくれている訳だし……やけに饒舌で熱の籠った弁をしているが。


 しかし、それでもツキの論文と言葉はかなり選んでやっているように見える。

 わざと迂遠な言い回しをし、専門用語を使う。普通の人ならばまず気づかないし……この会場でも気づいているのはどれくらいなんだろうか。


 分かっている人は苦笑いをしていたが。



「――という事から、ボクと彼の遺伝子相性は良いと言えるだろう。何か質問や反論はあるかい?」


 最後にツキがにっこりと笑ってそう告げた。記者達はもう返せる言葉がないようだった。


 そりゃ素人が専門家に専門分野で挑んで勝てるはずもない。……しかも相手はただの専門家ではないのだから。次はもっと知識のある者を寄越さないとな。


 質問や反論という言葉に会長がぴくりと耳を動かしたが、くだらないと思っているのか……それとも本当に反論がないからか黙っていた。



「うん、じゃあ長くなったけど今日はこれくらいにしておこうかな。改めて彼に関する質問とか、今日の公演会に関する質問がある人は居ないかな」


 誰も手を挙げず、彼女は満足そうに頷く。


「ないようだね。……それでは改めて、今日は公演会に来てくれてありがとう。これからは彼と共に結果を出していくから、よろしく頼むよ」



 最後にそう締めくくり――美空月夜の公演会は終わったのだった。


 ◆◆◆


「お疲れさま、イズ。今日はありがとうね」

「いや、俺こそ……ありがとう。色々助かった」


 講演会が終わり、控え室。

 俺はツキに呼ばれてそこに居た。


「色々準備してたんだな」

「まあね。神子とどんな事態が起きるか想定して、彼女も色々やってくれると言ったから頼んだんだ」

「……マスコミとか仁会長の件も? 配布の件と、俺を擁護してくれた人達とか」

「前者はそうだね。マスコミやあの人が色々言ってくるだろうと神子に相談していた。神子にはね」


 含みを持った言い方。その含みも簡単に察する事は出来るのだが。


「そう。人望だね。イズは人が良い。だからこそ、周りはキミ以上にキミの才能と努力に気づいている。分かっていたけど、改めて示されると嬉しいものだね」



 でも、と――その赤い瞳に小さな闇が訪れた。


「もしキミへ罵詈雑言が飛んでくるようだったら、それなりのをする予定だったよ」


『対処』という言葉に以前【因幡の白兎】を騙った彼の末路を思い出した。あれは自業自得だし、希咲がやってくれた事でもあるのだが。


「全部予想の範囲内だった。だから、最初からキミは何も心配しなくて良かったのさ」

「そうみたいだな」

「ただ、懸念が何もなかった訳ではないよ。……イズが来てくれなかったらどうしようとか」

「……その辺、色々話しておきたいな」


 俺が舞台に上がってすぐ、彼女に伝えられた事を思い出した。



 ――任せるよ



 それは俺が悪意の籠った視線に耐えられなければ、助手にならなくても良いという意味である。

 ツキは恐れていた。俺が傷つく事を。


「SNSとか週刊誌とかでツキが悪口とかありもしない事を言われるの……俺だったら良いのになって、ずっと思っていたんだ」

「……ボクは嫌だけど」

「そこはお互い様だな」


 少し難しい顔をしたものの、そこは飲み込んでくれているらしい。……助手になって欲しいと言った時には決めていたのだろう。


「ツキが背負っていたものにやっと手が届いたんだ。俺はそれが嬉しい」

「そ、そう言ってくれると誘った甲斐があったなと思うけど」


 頬をほんのりピンク色に染め、ツキは少し照れたように笑った。

 ……どちらかと言うと、その後の方が照れる事をしたと思うんだが。一旦それは置いておこう。




「なあ、ツキ」

「なんだい?」

「好きだ」


 一瞬、場に静寂が訪れる。ツキはぽかんとした表情をしていた。


「俺、ツキの事が大好きなんだよ」

「……ふぇ?」


 少々間の抜けた、かわいらしい声が耳に届く。ピンク色だった頬がみるみる赤く染まっていった。


「い、いいいきなりすぎないかい!?」

「大勢の前で俺とツキの遺伝子の相性をいきなり説き始めたツキが言うのか」

「あ、あれは……そ、その。ひ、必要な事だったから」

「じゃあ今俺がした告白は必要じゃなかったと?」

「そ、そうは言っていないけど……ぐ、意地悪だね」


 少しからかいの意味を込めてみると、しっかり伝わっていたらしい。目をぐるぐると泳がせるツキを見ていると頬が緩んでしまう。


「ツキの事が好きだからな。好きな子には意地悪したくなるもんだよ」

「そっ、そういうのは……ずるいよ」

「どの口で言ってるんだよ」


 ああ、ダメだ。笑みが零れてしまう。


「いや、俺も色々考えたんだけどな。……ツキには散々サプライズで驚かされたから、今度は俺の番だって思ってな」

「ぐ、ぐうの音も返せない」

「それじゃあ改めて――ツキ」


 再度名前を呼ぶと、ぐるぐるになっていた目がこちらを見つめた。


 ころころと表情が変わる彼女は見ていて楽しい。でも、今は自重しておかないと。


 その目をじっと見つめる。そっと、手を差し出した。



「俺と付き合って欲しい。今はまだまだ勉強中だけど、いつか必ず隣に並び立つよ」

「もう、本当にキミは。……どれだけボクの事を好きにさせたら気が済むのさ」


 ツキは迷う事無くその手を――




「こ、こちらこそ、よろしくお願いします」



 取ってくれた。

 その瞬間、胸中には様々な思いが渦巻く。それらを一纏めにし、俺は手を強く引いた。


「わっ――」


 彼女の端正な顔立ちが近づいてくる。


 睫は長く、額は真っ白なカーテンで覆われている。ルビーのように赤く輝いている瞳はとても鮮やかだ。

 唇は瑞々しい桃色をしていて、目を奪われそうだ。


「本当に綺麗だな」


 思わずそんな呟きが漏れてしまう。それを押し隠すように――




 唇を重ねた。


「んっ」


 ふにふにとした、今まで感じた事のないような感触が伝わる。クッキーのように甘い匂いが直接ぶつかり……甘いと錯覚してしまいそうになった。


 脳が痺れ、指に力が入らなくなる。離れたくない、と思ってしまうが……どうにかその気持ちを抑え、口を離す。


「……ぁ」


 ツキは小さな口を開け、物寂しげな表情をした。


「ん」


 そして、今度は彼女の方から唇を重ねてきた。こ小鳥がついばむような、そんな短いキス。



「……やっと、イズとキス出来たね。最後にしたの、十年前とかだもんね」

「子供の頃な」

「結婚式ごっこ、とかしてたもんね」


 小さい頃、ツキは精神年齢が高いではあったが、子供らしい事もしていたのだ。


「思えばこれでキミとの約束も守られるね」

「そうだな」


 小さい頃、俺がツキに言った事。

 ツキと仲の良かった友達が転校して。……それも、転校する前にツキへ酷い言葉を浴びせかけてきて。彼女は引きこもろうとした。


 その時言ったのだ。『おじいちゃんとおばあちゃんになっても一緒だよ』と。要は子供ながらのプロポーズみたいなものである。


 その約束を――やっと果たせたか。



「ねえ、イズ」

「なんだ?」

「ありがとう、ボクをずっと支えてくれて」


 額をこつんと当て、彼女は目を細めて笑う。楽しそうに。


「これからはお互い支え合って生きていこう」

「ああ、そうだな」


 またじっと目が合って――そうしていると、心まで通じ合ったかのように思える。


 だからこそ、彼女が何を考えているのかなんとなく察してしまった。


「また何か企んでるな?」

「……ふむ、そうだね。少し思ったんだけどさ。ほら、ボクって国的に見ても重要人物だろう?」

「ああ」


 既に嫌な予感しかしないが、とりあえず聞いておこうと頷く。


「駄々をこねればこの歳でも結婚とか出来るんじゃないかなって」

「想像してた三倍くらいとんでもない事だった」

「い、いや、だって、ほら。あれだろう? その、ボクもあれだけ遺伝子が良いとか言っちゃったし。……キミとの子供なら何人でも欲しいから」


 後半の言葉はかなり小さいものだったが、この距離で聞き漏らすはずがない。

 脳内では彼女の言葉が反響していた。

 目を逸らそうとしても、その赤い瞳は俺を捉えて逃がしてくれない……呼吸すら忘れそうだった。


「い、イズはどう?」

「そ、そうだ……な」


 一度ツキから離れ、深呼吸をする。甘い空気で満たされていた肺に少しずつ新鮮な空気が取り込まれる。


「そ、それも悪くない……というか良いとは思うが。その、ツキと学校生活を送れなくなるのはちょっと」

「そ、そっか。……そうだね。普通の学校生活は送れなくなるか。そこまで考えてなかった」


 ツキが顔を真っ赤にしながらそう答え、俯く。



 ちく、たく、と。少しの間、部屋には時計の音だけが響いていた。



 ――ツキと恋人になったという自覚を今更ながらに感じて、何を話せば良いのか分からなくなった。


 脳内を様々な言葉が駆け巡り、消えていく。

 どうしようかと視線を彼女へ向けると目が合った。緊張が緩み、笑いが零れる。


「似たもの同士、って感じだね。ボク達」

「そうだな」


 そっとツキが手を広げた。一瞬の間を置いて――ぎゅっと抱きつかれる。


「こ、これからよろしくね。幼馴染じゃなくて、恋人として。……助手としてもね」

「よ、よろしく。頑張るよ、俺」


 何が、とは言わない。察しているだろうから。

 少しだけ躊躇ってしまったが、その背中に手をまわして抱きしめる。暖かく柔らかい感触は強くなった。


「ボクも頑張るよ。今まで以上に」


 耳に届くのは今までより楽しげな声。すり、と頬を擦りつけられた。



 彼女の体温が、優しさが……全てが伝わってくるのが嬉しかった。





 ――そうして俺とツキは恋人となったのだった。

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