第36話 魔女は彼が欲しい

「……美味しい!」


 クッキーを口に入れたツキが目を見開いた。

 そのままサクサクと食べ続けるツキだが、なんとなくおやつを食べるハクを思い出して頬が緩んでしまう。


「良かった」

「ん、ボク好みの味付けだ。凄く美味しいよ、イズ」


 そう言いながら本当に美味しそうに食べてくれるツキ。作って良かった。前は食べている所は見られなかったからな。


「ねえ、イズ」


 ツキがじっとクッキーを見て、続いて俺を見る。


「もしかしてこのクッキー、ボク好みの味付けに……なんてのは考えすぎか、ごめん」

「……」

「イズ?」


 思わず目を逸らしてしまった。

 ツキが首を傾げ、その後にわざわざ回り込んでからまたじーっと俺と目を合わせてくる。


「ほんとに?」


 また目を逸らしてしまった。ツキが回り込んで、じっと目を合わせてくる。


「じー」

「……」

「……」


 目を逸らす度に彼女は毎度回り込んできて――



 ――待て。少しずつ顔、近づいてきてないか?



 次に目を逸らしてそれを確信する。

 クッキーを食べているからだと思っていたが、それとは少しだけ違う甘い匂い。

 その匂いが明らかに強くなった。


 まんまるな瞳にじっと見つめられる。ルビーの宝石のように綺麗な瞳。

 そして、彼女の甘い匂いと甘い吐息がかかり――逃げ場を失った。


「む、昔、『あんまり甘くないのは嫌い』って言ってただろ。折角だから美味しく食べて欲しいし、一応体に悪くないギリギリの量を計算したんだ」

「……ふうん? ……へえ? ごめんね、イズ。ちょっと一瞬だけ席外すよ」

「ん? ああ」


 ツキがふうと息を吐いて立ち上がった。

 そのまま彼女は隣の部屋に行って……パタンと扉を閉める。


 そして次の瞬間の事である。




「もー! どれだけ人の事を好きにさせたら気が済むのさ! あー! もう! 好き!」




 ……え?


 思わず目をツキのお母さんへと向けてしまう。お母さんはニコニコと俺を見てきた。


 そして。最後の資料を作ったら戻ってくると言って部屋に戻っていたはずのツキのお父さんが、ニコニコと廊下から顔を覗かせていた。



 それから数秒も経たないうちに扉が開く。何事もなかったようにツキは俺の隣へと座った。


 上品な所作でクッキーを一つ手に取って、彼女は口にする。


「うん、美味しいね」

「待て。……待て」


 色々と待て。頭の整理が追いつかない。


「どうかしたかい?」

「どうもこうもあるんだが。……いや、やっぱりなんでもない」


 その耳が赤くなっているのを見て追求をやめた。

 ……多分これは、あの生物室の続きみたいなものなのだろうと。


 それにしては体を張りすぎだろ。よく両親の前で――


『あの子、本気になったら誰も止められないからね』

魔女ボクが本気になったら怖いんだよ?』


 頭の中でその言葉が反復リフレインされた。


 ひくつきそうになる頬を押さえ、内にこもった熱を吐く。


 魔女の本気、か。



 そんな俺を気にせず……いや。気にしてはいるのだろうが。ツキはクッキーを美味しそうに食べていた。


「ん、美味しい。イズ」

「……美味しいなら良かったよ」


 そう言葉を返し、俺もクッキーをひとつまみする。

 いつもと同じ配分で作ったはずなのに、やけに甘いような気がした。


 ◆◆◆


「ねえ、イズ。久しぶりだね。ちゃんとここに来るのは」

「そうだな。久しぶりだ」


 クッキーを食べ、少しツキの両親とも話してから。俺はツキの部屋に来ていた。


 理由は一つ。『話したい事がある』とツキに言われたから。


「とりあえず座りなよ」

「……分かった」


 ポンポンとベッドの隣を叩くツキ。何を話すのか気になるが、立ち話もなんである。


 隣に座った瞬間――


「えいっ!」

「うおっ!?」


 唐突に体に手を回され、ベッドの上に引き倒された。


「何を――」


 顔をそちらの方へ向け、しかし言葉が出てこなくなってしまう。


「ふふ」


 その鮮やかな瞳はとても楽しそうに俺の事を見つめていたから。


 その姿に強いデジャヴを覚える。


「懐かしいね」


 彼女が呟くのと同時に、そのデジャヴは記憶の中にある思い出と結びついた。


 小さい頃、よくされていたのだ。ベッドの上に座って、そのままツキに引き倒される。

 そのままお昼寝までがワンセットだった。


「ボクね。こうするの好きだったんだ」


 彼女の抱きしめる力が強くなる。ぎゅうっと、同時に胸に押し当てられる柔らかな感触も強くなる。


「でも、昔より密着感はないね?」


 クスクスとイタズラっぽく笑うツキを見て、どんどん顔が熱くなってしまうのが自分で分かった。


「こうしてると、全身でイズを感じられてね。すっごくよく眠れるんだ。イズの体温が、匂いが、心音が、全部安心出来るんだよ」


 その顔が近づいてきて――額がこつんと当てられた。

 思わず呼吸を止めてしまうが、それでも感じる甘さが脳を痺れさせた。


「ふふ。熱いね、イズ」

「あ、あんまりからかわないでくれ」

「からかってなんかないよ。本気でこのまま眠りたいんだけど……でも、そうだね。このまま眠っちゃったら、お母さんとお父さんに勘違いされそうだ」


 その額が離れ、やっと呼吸が再開出来る。出来るようになったはずなのに、脳は甘く痺れたまま治ろうとしない。


「半月後ぐらいに産婦人科とか予約されたらイズも困っちゃうね」

「ほ、ほんとにシャレにならないやつだな」


 ツキがくすりと笑い、手が緩められる。抜け出そうかと思ったが――辞めた。


 その事に気づいてか、ツキの笑みが更に濃いものとなった。


「イズってさ。すごいよね」


 凄い事なんて、と言おうとして辞める。自分の努力を認めないような事はもうしないと決めたから。


「本当に凄いよ、キミは。撫でても良いかい?」

「断ったらどうなるんだ?」

「無許可で撫でる事になるね」

「……良いぞ」

「やった」


 ツキの手が伸びてきて、頭に乗せられる。


「ずっとイズの頭を撫でたいって思ってたんだ。ボクはイズに撫でられるの、すっごく好きだからね」


 その細く柔らかな指が髪をくように撫でる。彼女の触れた場所がじんわりと、少しずつ暖かくなっていった。


「頑張ってるね、イズ。本当に、キミはよく頑張ってるよ」


 その言葉が心をくすぐってくる。思わず顔をずらそうとして、ツキにもう片方の手で捕まえられた。


「こーら、逃げない。……うん、それで良い。キミは素直に褒められておけば良いんだよ」


 またツキは頭を撫で始める。楽しそうに、嬉しそうに。



「ボクは誰よりもイズの事を評価してるよ。神子はもちろん、他の学者だって凄まじい努力をしてる。だけど、イズはそれ以上に努力を重ねているんだよ」

「さすがにそれは言い過ぎだ」

「言い過ぎなんかじゃない。……でも、キミがそう思うのも仕方はないか。実際に研究や論文を書いた事は――一度しかないんだったか」


 その言葉に眉が動いてしまう。

 気づかれていたかという思うも、俺が【因幡の白兎】だとバレてしまったのなら当たり前かと納得する。


「それでは本題に入ろうか、イズ」

「……いきなりだな」

「話の続きでもあるよ。いきなり話を変えたりはしないさ」


 手が落ち、その瞳がじっと合わせられる。



「ボクの助手になってくれないかな」



 ツキはまっすぐと俺を見て。そう言葉を紡いだのだった。

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