第20話 魔女は彼に甘えたいし褒められたい

 コン、コンと。ツキの部屋へと繋がる扉をノックする。


 しかし、返事はなかった。



 ……え? それはちょっと想定してなかったんだが。


 着替えてる?

 いや、それならそれで多分返事はすると思う。ならなぜ? 論文に集中してるのか?


 少し考え込むも、答えは思い浮かばない。


 いつまでも考えても意味が無い事は分かっている。



「あー。ツキ? 俺だ。出雲だ」


 思い切って名前を告げるも、またもや返事はなかった。


 論文に集中しているのか。それとも眠ってしまったか。


 ……確認、してみるか。もし邪魔になりそうだったら、大人しく帰ろう。


「ツキ、開けるぞ。もしまずかったら言ってくれ」


 でも、出来れば今日伝えたかった。覚悟も決めたのだから。


 薄く扉を開いて薄目で中を見る。

 もし見られたくなさそうな事をしていたら、即座に扉を閉められるように。


 ――ベッドの上に、ツキは居た。


 座って俯いていた。何かあったのかと思ったが、よく見れば眠っているようだった。


 横になって寝た方が良い、と一瞬だけ考え。それを昔の記憶が打ち消した。



『ボクはね。短時間で深く眠るのが得意なんだ。うっかり本気で寝ないよう、座りながら眠るんだよ。……あ、お母さんとお父さんにバレたら怒られちゃうから内緒にしてね』


 仮眠を取っているのか、と一人で納得する。

 ノックや声掛けで起きそうなものだが、深い睡眠となっているから気づかなかったのだろう。


 現に、隣に座ってみても起きる気配はなかった。



 そのまま、思わずツキを観察してしまう。


 サラリと音が立ちそうなくらいに綺麗な銀髪は前へと垂れ下がり、顔を隠している。


 それでも。その髪の間から見える横顔はとても綺麗に見えた。


 その時である。


「んぅ……五分、経ったか」


 彼女の小さな呟きが耳へと届いた。同時に彼女が顔を上げ――


「……あ」


 その赤い目と目が合って。思わず声を漏らしてしまう。


 せ、説明をしなければ。と思った瞬間。



「なんだ、夢か」



 彼女はそう言って――



 胸の中に倒れ込んできた。


「つ、ツキ!?」

「キミがここに居るはずないもんな。明晰夢めいせきむというやつは初めてだが。意外と現実に近いものなんだな」


 胸に彼女の声が直接響く。お腹に柔らかな物がむぎゅぅ、と押し付けられた。


「い、いや、夢じゃ……夢じゃないぞ、ツキ」

「何を言うんだい。現実でのキミはいつまで待ってもボクの事を『ツキ』って呼ばないじゃないか。それが夢である証拠だ」


 顔を上げ、至近距離で見上げてくるツキ――ではなく、美空。


 つい心の中で『ツキ』と呼んでしまっていたからか。彼女の事を実際にそう呼んでしまった。


「ちがっ、これは……み、美空」

「今更夢が取り繕わなくて良い。……というか、夢の中くらいそう呼んでくれ。ねえ、イズ」


 彼女の赤い瞳は俺を捉え、決して逃がそうとしない。


 うっと声が漏れそうになって。俺は諦めた。


「……ツキ」

「ん、それで良いんだよ」


 ツキは満足したように微笑んだ。コロコロと変わる彼女の表情はとても愛らしくて。思わず目を奪われてしまう。


「しかし、夢か……夢か」


 そこで彼女が目を逸らし。何かを考え込んだ後。



「夢なら、キミに何をしても良いんだよね」



 その言葉は俺の耳を通り抜け、脳は理解する事を拒んだ。


「つ、ツキ?」

「なに、夢の中に居るボクでも良心くらいある。……え、えっちな事はしないよ。多分」


 薄く染まった頬はガラスのように透き通っていて、とても綺麗だった。

 ではなく。


 今、彼女はなんと言った?


「明日、キミに会った時に思い出しそうだからね。今は――これが良いな」


 ずるずると、彼女が胸の中を滑り落ちていく。


 膝の上に彼女は頭を置いて。満足そうに微笑んだ。


「膝の上などただ硬いだけだろうと思っていたが。存外、中々心地が良いものだな」

「つ、ツキさん?」

「良いだろう、このくらい。ボクだってキミに甘えたいのに、いつも我慢してるんだから」


 唇を尖らせながらツキは呟く。しかし、それが見えたのは数秒の事。


 ツキは俺のお腹へと顔を埋めたのだ。鼻がぐりぐりと押し当てられ、本来ならくすぐったさが押し寄せてくるはずだった。


 いやいやいやいや。待ってくれ。色々と待ってくれ。

 ちょっとこれは、ダメだろう。何もかもがダメだろう。


「つ、ツキ。それは……は、恥ずかしいんだが」


 ツキの顔がほんの少し。顔が動かせるくらい離れる。それでも密着と呼んで差し支えないのだが。


 チラリと、その赤い瞳が俺を見てきた。


「ボクだってちょっとだけ恥ずかしいんだから。お互い様だ」


 そんな意味の分からない理論を告げて、再度顔をぐりぐりと押し付けてくる。

 変な声が漏れそうになった。やばい。許容量キャパがやばい。


「それにしても……イズ、すっごく良い匂いするね」


 天井を見上げる事しか出来なくなった。顔が熱すぎる。


「良い匂い、で思い出したんだけどね。ボク、イズと遺伝子的に相性が良いのか一度調べてみた事があったんだ」

「……な、何してるんだよ。本当に」


 一度、荒ぶる呼吸を落ち着けてからそう返した。上擦らなくて良かった。

 というか、ツキの調べるってかなりガチのやつだろ。


「最高だったよ。何を持って最高と定義する、と言うのか話せば長くなるけど。ボクとイズの場合、遺伝子の相性は最高に良かったんだ」


 どんどん顔に熱が集まってくる。これ以上熱くなるな、と念じても言う事を聞いてくれない。


「……ねぇ」


 胸中に様々な感情が渦巻く仲。彼女の言葉は海を断ち切るような、滑らかさがあった。


「イズはボクの事、頑張ってるって思うかい?」

「……そりゃ思ってる。実際、ツキは頑張ってるしな」


 この目で見てきた。【才能】というものを持っていながら、決してそれだけにあぐらをかかず。人一倍【努力】を積み重ねてきた姿を。


「どうしてボクがそんなに頑張ってるか、分かるかい?」


 その言葉に少し考え込んだ。どうしてツキが頑張るのか。


「単純に好きだから、じゃないのか?」

「それも確かにある。けど、二番目だね」

「誰かの役に立ちたい、とか?」

「思わない訳じゃないけど。そうだ、と言うのは綺麗事にしかならないね。あくまで付属品だよ」


 ……なんだろうか。


 口を閉ざして考え込んでると。ツキが離れ、膝の上に仰向けになった。



「キミに凄いって言われたかったから」



 その小さく、白い手が俺の手を持ち上げる。なされるがまま、ツキの頭へと誘導された。


「ボクはね。イズに凄いって思われたかったんだよ。昔から、キミにそう言われるのが好きだった」


 全身にぶわりと鳥肌が立った。目を見開いてしまい、仰向けになった彼女を凝視してしまう。



「褒めて、くれないかな。それがボクの夢だったんだ」



 誰が予想出来ただろうか。



【魔女】と呼ばれ、希代の天才だとはやされ。人類という大きな括りで見ても、それらを一歩前進させた少女。



 その彼女の夢が、俺。神尾出雲から褒められる事だったなんて。



 そんなの、予想できるはずないだろ。



「ツキは凄いよ」


 頭に置かれた手をゆっくりと動かす。乱雑にならないように。


「本当に凄い。ツキじゃないとここまで凄い事は出来なかった。ツキのお陰で医療も進んだし、本当に……本当にたくさんの問題も指摘して、解決して。たくさんの人を幸せにした」


 一日掛けたとしても、彼女の功績を語りきる事は出来ないだろう。それくらい、彼女は凄いのだ。


「俺はツキの事が本当に誇らしいよ」

「ふふ。実際に言われると少しくすぐったいな」


 ツキは小さく身をよじる。手を止めようとすれば、目で『もっと』と告げてくる。


「なあ、ツキ」

「なんだい?」


 ツキが小首を傾げて俺を見上げてくる。


 心臓の音がどんどん大きくなっていく。時計の針が動く音はより鮮明になっていく。



 これを言うべきかどうか。迷っていたが。


 今、言うしかないと思った。結局言わないまま終わるよりは良いだろう。

 確かめたい事もあったから。



「俺が、【因幡の白兎】なんだ」


 ――言ってしまった。という思いが脳裏を駆け回る。

 ツキがどんな反応をするのか気になる、という思いと見たくないという二律背反な思いが交錯した。


 ついでに、これが夢じゃないと気づいてくれたら良いのだが。まさか頬をつねって夢じゃないと気づかせる訳にはいかないし。



「ああ、やっぱり」



 ツキの小さな呟きに合わせ、心音が加速する。


 ここで答えが開示される。


 俺が【因幡の白兎】だと知っていたのか――それとも。



「やっぱりこれは、夢なんだね」


 夢ではないと、彼女は気づかなかった。


 その声は嬉しそうなもので――悲しそうなものも混じっていた。



「ここは所詮夢。キミはボクにとって、そうであって欲しいという願いが生んだ虚像でしかない」

「何が、言いたいんだ?」


 からからに乾いた喉を振り絞り、そう呟くと。ツキが微笑んだ。


「キミと【因幡の白兎】が同一人物だったら良いなって。誰よりもボクがそう思ってるからだよ。だから、これは夢だ。ボクの描いた妄想に入り込んだに過ぎない」


 そのままツキが目を瞑る。手がそっと、俺の手を握ってきた。



「ありがとう、良い夢だったよ。……これでボクも頑張れそうだ。起きたら忘れるのかもしれないけどね」


 そう呟いたきり、ツキは口を閉ざした。


 違う、と叫ぼうとしても俺の口から言葉は出てこなかった。


 何を言っても彼女は夢だと思い込むのだろうと。眠りにつく彼女を見守る事しか出来なかった。



「……本当に、知らなかったんだな。俺が【因幡の白兎】」だって



 新しく判明した事実に俺は十分程、その場から身動きを取れずにいたのだった。

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