第7話 魔女とお姫様抱っこ

 中学生に上がってすぐの事だ。


 美空は論文やら研究で籠りっぱなしだった。

 少しでも運動をした方が良いと、休みの日に市営の体育館まで連れ出した事があった。


 彼女は運動が苦手なものの、別に嫌いという訳ではなかったから。走るのは嫌いらしいが。

 昔から時々バドミントンをしていたので、丁度良いと思って誘ったのである。


 幸いにもコートが一つ空いていて、しばらくはバドミントンをして遊んだ。


 その後少しトイレに行きたくなって……戻ってきた時、俺は目を疑ってしまった。


 先程まで彼女が居たはずの場所。そこにかなりの人集りが出来ていたのだ。


 一瞬だけ思考が止まったものの、彼女の存在を思い出して焦ってしまう。


「ちょ、すみません!」


 なんだなんだと群がっている野次馬を掻き分けて進むと――


「君、モデルをやってみないか?」

「断ります。最近は忙しいので」

「まあまあ、学生なんて時間が余るくらいあるだろ? ほら、お小遣い稼ぎにもなるよ?」


 ツキが、男の人から名刺を渡され。そう言われていたのだ。


 キッパリと断るツキだが、男の人も引く気はなさそうだった。


 更に、他校の男子中学生やら高校生らしき人達が近づこうとしているのが見えた。ツキをナンパしようとしているのだろう。


 ツキの焦燥で陰っていた赤い瞳は、俺を見て輝きを取り戻した。


「イズ!」

「ツキ。行こう!」

「う、うん!」


 彼女の手を握り、もう片方の手で荷物を持つ。そして二人で走り出す。


 彼らが追いかけてくる事はなかった。


 外に出て、しばらく走って。彼女が肩で息をし始めた頃にやっと、走るのをやめた。


「はぁ、はぁ……ありがと、イズ」

「別に。気にしなくていい」


 そう返しながらも、心の中には黒いモヤがかかっていた。


 彼女は肩で息をし、しかし俺を見て嬉しそうに笑っていた。


「でも、ボクは走るの苦手だから。次からはお姫様抱っこで連れ出してくれないかな」

「置いてくぞ」

「わー! ごめんごめん! 置いてかないで!」


 少し急ぐフリをすると、服をぎゅっと掴まれる。


 そんな、昔の夢を見た。


 ◆◇◆◇◆


 前略

 美空とデートに行く事になった。


 なんで? と思われるかもしれないが、理由はシンプルなものだ。


 彼女の服を買いに行くため、である。


 彼女自身は学者らしく(?)白衣やスーツを何着か持っている。


 スーツはともかく白衣は要るのか? と疑問に思って聞いた事がある。

 美空曰く。研究をする時にも着るが、着て作業をした方が気分が出るとか。形から入るタイプなのだろう。



 今日は生憎の曇り空。しかし、予報では雨は降らないらしい。


「それにしても、まさか待ち合わせとはな。家まで徒歩数分なんだが」


 何時に向かえば良いんだ? と聞くと、彼女がこう答えた。


『お互いの家に迎えに行くのも悪くないと思う。でも、なんだか急かされるような気がしないかい? ボクは待ち合わせした方が良いと思うんだけど』


 その彼女の提案を聞いて、待ち合わせという事になったのである。


 

 俺は今、駅前の時計台へと向けて歩いていた。


 服は半袖の黒いパーカーにジーンズ。渡辺や松林と一緒に遊びに行く時に比べると、少しだけ見た目に気を使ったものだ。


 そういえば美空の服装は聞いていなかったな。まさか白衣とかスーツで来ないよな……まだ制服とかジャージの方がありえるか。


 そう考えながら時計台が見えてくるのと同時に、彼女がどこに居るのか分かってしまった。



「そういやあいつ、有名人じゃねえか」


 凄い人集りがあったから。その中心に誰が居るのかも察しがついている。


「ちょ、今日のボクはオフだから! 離れたまえ! モデルもやらないから!」

「……昔から変わらないな、お前は」


 昔も似たような事があったな。


 確か、美空の運動不足を解消するために体育館まで連れ出したんだったか。


 あの時はまだ父と論文を一緒に書いていたくらい。そこまで有名ではなかった。


 ただ、昔から変わらず容姿はかなり良く。偶然居た業界の人からモデルに勧誘されていたのだ。


 どうにか美空を連れ出して逃げて。今度は別の体育館に向かったんだっけ。


 足を早めながら思い出していると、一人の男が彼女に話しかけるのが見えた。


「なあなあ、お茶しない?」

「また古典的な誘い文句だね……この民衆の中よくそんな蛮勇を持ったものだ。断る」


 変わらない事ばかりではないな。


 今の美空はあの頃に比べるとかなり強くなっている。口もそうだが、心も。


 しかし、彼女が群がられている姿に――少し。少しだけ心にモヤが掛かったような気がした。


 あの時も似たような感情を覚えたな。


 良くないなと、その感情ごと息を吐きそうになった次の瞬間。


 彼女の赤い瞳がさまよい、俺を射抜いた。


「い、イズ!」


 彼女に名前を呼ばれると同時に俺は動いていた。


「美空」


 フードを被り、顔を見られないようにする。パーカーを着ていて良かった。

 そのまま彼女の目の前へと走った。


「しっかり捕まっててくれ」

「……ふぇ?」


 あまり長居したくない。

 ぱっと見た所は居ないように見えたが、うちの学校の生徒が居ないとも限らない。万が一、俺に気づく人が出てきたら面倒である。


 ここから彼女を連れて行くにしても変なのに絡まれたくない、という理由もある。


 俺が取るべき行動は一つに絞られた。


 彼女の膝裏に手を入れる。スカートが捲れないよう巻き込みながら。もう片方の手は背中へ。


「せー、の!」

「ひゃっ!」


 そして、一気に持ち上げた。しかし、伝わってくる重みは想像していたものよりずっと少ない。


「行くぞ!」

「え、ええ!?」


 美空は驚いているものの、落ちるぞと一言告げると首にしっかりと手を回してくれた。うん、行けそうだ。思っていたより軽いな。


 そのまま俺は彼女を横抱きにし、走り出した。



 後から考えると、随分大胆な行動だと思う。


 ……美空から【因幡の白兎】の存在を聞いて、多少なりとも嫉妬を覚えていたからなのかもしれない。


 もし彼女から別の誰かの名前を聞いていたとしたら、こんな事は出来なかったと思うが。


 ◆◇◆


 え、ええええええ!? ど、どうなってるの!?

 ぼ、ボク、夢でも見てるの!?


 頭が真っ白になろうとする。

 でも、常に働き続けるボクの脳は状況の整理を行い続けていた。


 えっと。待ち合わせ場所に着いて。偶然近くに居た人にバレて、無謀にもナンパをしてくる人や写真を撮ろうとする人を断って。


 それで、イズが来て。



 お姫様抱っこ、されちゃった。



 なんで!? なんでボクお姫様抱っこされてるの!?

 すっごい良い匂いするんだけど! イズの体が硬くて『男の子』って感じするんだけど! え、好きだけど!


「ふぅ。この辺まで来たら問題ないかな」


 大丈夫だよね……?

 ちょっとだけ頬を擦りつけたり、ぎゅってする力を強くしたりしてるけどバレてないよね?


「美空?」


 もしかして夢?

 でも夢ってこんなにリアルだっけ? こんなに良い匂いがするものだっけ?


「おーい?」


 イズと一緒に遊ぶ夢ならよく見るけど――


「みーそーらー?」

「は、ひゃい!」


 いきなり目の前に大好きな人の顔があって、変な声が出てしまった。


人気ひとけの少ないところに来たからもう大丈夫だと思うんだけど」

!?」

「ああ。目立つからな」

「そ、そういう事か」


 だ、大丈夫? ボク、顔真っ赤になってないかな? いや、なってないはずがないね。


「今下ろすからな」

「ぁ……」


 彼の言葉に思わず小さな声が漏れた。その声に反応して、イズがちらりとボクを見てきた。


 何かを言おうとして。ボクは喉から声を絞り出す。


「な、なんで……いきなりお姫様抱っこ、してくれたの?」

「普通に逃げたら周りに写真を撮られそうな気がしてな。案の定、周りは呆気に取られてたし。人目がない所を走ってきたから、多分写真は撮られていないと思う」

「な、なるほど」


 そういう理由か、と納得したのもつかの間の事。


「それと――」

「ん?」


 彼は、目を背けて。耳を赤くしながら。


「……前、言ってただろ。『次からはお姫様抱っこで連れ出してくれないかな』って」

「!」


 その言葉に。数年前の事を思い出した。


 確かに、言った。今でも鮮明に思い出せる。



 もっと顔が熱くなって――耐えきれなくなってしまい、彼の体に顔を埋めた。


「み、美空?」

「もうちょっと、このままで」


 今、ボクは凄い顔になっている。絶対彼には見せられない顔だ。


「……分かったよ」


 彼が小さく息を吐くのが耳に聞こえてきて。

 ボクは、その言葉に甘えて。彼の事をしばらく抱きしめ続けた。




 何気ない思い出の一幕。

 それを彼が覚えてくれていた事がとても、とてもうれしかった。

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