第3話 魔女に翻弄される

【因幡の白兎】


 それは、俺がペンネーム的なのを求めてお父さんに考えて貰った結果、生み出されたものである。

 俺の名前の【出雲】にも関係しているし、そこそこ気に入っていた。


 飼っている犬の名前を【ハク】ではなく【フユ】という名前にしたのは、単純に色から連想されたからである。真っ白で綺麗な毛並みなのだ。


 全部、俺だってバレないように変えた事なんだけどな。いやまさか、こんな事になるとは思わないだろ。


「どうしたんだい? 体調が悪いなら保健室に……」

「ああいや、大丈夫。大丈夫だ」


 やばいな。冷や汗がやばい。全然全く大丈夫じゃない。


「タオルは持ってないのかい?」

「うぐ……」


 美空の言葉に変な呻きが漏れた。まさか冷や汗ダクダクの事態になるとは思ってもいなかったから。


「もう、昔からあんなに言ってたのに。ほら、拭いてあげるから」

「い、いや、大丈夫だから」

「ダメだよ。これで風邪引いたらボクが悲しい」

「うっ」


 美空の言葉に俺は何も返せない。彼女は懐からハンカチを取り出し、俺の額を拭ってくれる。


 その間も色々な考えが頭を駆け巡っていた。


 どうして【因幡の白兎】の事を、とか。まさかバレていたのか、とか。それなら何故好きな人なんて――と。


 同時に今の状況を思い出す。


 すぐ目の前で、彼女が心配そうに俺の顔を覗き込んでいて。真っ白なハンカチで丁寧に額を拭ってくれていた。


 途端に顔が熱くなったのが分かる。


「し、しかしだな。あんまりそういうの、やらない方が良いぞ」

「ん? どうしてだい?」

「勘違い、するかもしれないだろ」


 恥ずかしくて目を逸らそうとした。頭が上手く回らないながらもよくそう返せたものである。


 でも。その赤い瞳がじっと、俺の目を捉えて離してくれなかった。



?」



 まるで、本気でそう言っているかのように。彼女はそう呟いたから。


「ッ……そ、そういう、所だぞ」

「あ、ああ。ごめん」


 そこでやっと、ルビーのように赤い瞳が別の方に向いた。


「……」

「……」


 場に気まずい空気が訪れた。どうにかそれを変えねばと頭を回転させ始める。


「つまり、美空はそのファンの人と――」

「【因幡の白兎】さん」

「そ、その【因幡の白兎】さんと仲良くなりたい、って事で良いんだな?」

「そう、だね。そうなるね」


 ふむ。そうなると……え、これどうしよう。だって、因幡の白兎って俺だし。

 というか本当に気づいてないのか?


「ま、まずはデートでもしようと思ってるんだけど、どうかな?」

「デート!? で、デートはその、まだ早いんじゃないか?」


 そう返すと、美空がふむ、と何度も頷いた。どうしたんだろうか。


「キミがそう言うのならやめておこう」

「お、おう? やけに素直だな」

「失敬な。ボクはキミの前では素直だよ。……いや、やっぱり訂正する。ある程度は素直だよ」

「なんかよく分からない訂正の仕方だな」


 しかしまあ、これでとりあえず大丈夫だろう。


 本当に大丈夫か?

 大丈夫だ。

 うん。そう思おう。


「そうだ。ファンレターなら返事でも書いたらどうだ? まずは文通から、みたいな」

「そういえば言ってなかったか。ファンレターと言ってもお父さんかお母さん経由なんだよ」

「へえ」


 知ってる。なんせ書いたの俺だからな。渡してって言ったのも俺だからな。

 でもここで聞かないと疑われかねないのだ。


「じ、じゃあ次のファンレターが来た時、お父さんに渡して貰う……とか?」

「その手があったか」


 ぽん、と古典的に手を叩く美空。

 本当に【魔女】なのだろうかこの子。今のくらい誰でも思いつきそうなものだが。


「わざとやってるのか?」

「とんでもない。ボクは至って真剣だよ。この目に誓おう」


 昔からの常套句である。確かに真剣なのだろう、が。


「昔からそれ、別の事隠してる時に言うよな」

「そ、そそそんな事ないが?」

「逆に怪しいわ」


 ……そういえば美空、昔からトランプとか苦手だったな。だとしたら顔に出てもおかしくないか。


 そうなると、顔に出ていないという事は本当に【因幡の白兎】が俺だと気づいてない?


「とりあえず、それは置いと――なんだい、こんな時に」


 美空が会話を切り替えようとした時、電話の音が部屋に鳴り響いたわ

 画面を見て、美空がため息を吐いていた。


「席、外そうか?」

「いや、いい。そうだ、君にも犠牲になって貰おう」

「ん?」


 凄く不穏な空気が流れる中。美空が電話を取った。


「お父さん」


 その言葉にビクッとなった。お父さんだったか……!


「なんだい。この歳で『パパ』はキツいだろう。いや、キツいというのは私が思ってる事でね。え、今?」


 美空が俺を見てニヤリと笑う。帰りたい。凄く帰りたい。


「男の子と居るよ」

「なんでそんなに誤解しか産まない言い方をするんだよ!」


 美空はニヤニヤと俺を見ながら笑っていて、電話越しに返事をしながら頷いていた。


「うん。あ、うん。代わるね」

「帰るね」

「良いけど……どうなるか分かってる?」

「うぐ」


 後からだと面倒な事になるだろう。ここで逃げるよりは話をする方が圧倒的に楽である。


 大人しく電話を取った。


「もしもし」

『人類は愚かである』

「勇者と対面した魔王みたいになってますよ。少なくとも娘の友人(仮)に開口一番で言うセリフじゃないですよ」

『ふむ……? その声は出雲くんかね?』

「ああ、はい。出雲です」


 頭が痛くなりそうである。美空もニヤニヤ俺の事を見てるし。


『なんだい、久しぶりだね。最近はお母さんとよく学会まで来てくれたそうじゃないか。最近は誘われなくてお父さんは寂しかったよ』

「あー、いや、その。色々あったんで」


 昔は美空父によく着いていったのだが、最近はよく美空母と学会まで行っていた。

 美空父は美空のサポートのため、彼女の傍に居る事が多いからである。


『しかし、月夜は出雲くんと一緒だったんだな。仲直りが出来たようで何よりだよ』

「仲直り?」


 何の事だと美空を見ると、気まずそうな顔をされた。


 なるほどな。確かに話していなかったし、喧嘩をしていたように見えてもおかしくないか。俺も来てる事は隠して欲しいと言ったし。


『それならどうだい? 夕飯は一緒に食べないかい?』

「あー。割と忙しいんで」

『そうかい。残念だ。次の学会は月末にあるけど来るかい?』


 当たり前だけど、この人にはバレてるんだよな。俺が【因幡の白兎】である事も。ほぼ毎回彼女の学会に参加している事も。


 しかし、その返事をここですると美空にバレてしまうかもしれない。


「ノーコメントで」

『分かった、楽しみにしているよ』


 来る事を既に予測されていた。この人には勝てる気がしない。

 その観察眼を娘に授けてくれないだろうか。

 俺が【因幡の白兎】だと知ってて言っている可能性ももちろんあるんだが。


 どちらかと言えばそちらの可能性の方が高いのだが。


「……?」


 俺が見ると、美空はこてんと首を傾げた。本当に顔が良いな。


「ええ、はい。それじゃあ」

『ああ。それではまた、出雲くん』


 美空に返し、ふうと息を吐く。


 美空のお父さんは優しいものの、まだ話す時は緊張してしまう。最近は会っていなかった事もあるが。


 スマホを美空に返すと、彼女は耳に当て。その眉を歪ませてバツが悪そうな顔をした。


「……あー。そういえば資料は明日までに完成させる予定だったね。いや、大丈夫だから。すぐ帰る」


 どうやら帰る方向性に決まったらしい。その赤い瞳がチラリと俺を見た。

 そして、電話を切った彼女は大きく息を吐いていた。


「うん、それじゃ……はぁぁ」

「ため息がでかいな。幸せが逃げるぞ」

「自律神経が整えられる効能の方が大きいよ」

「そう正論を返されるとぐうの音も出ないな」


 さて、と彼女がスマホを仕舞って立ち上がる。


「帰る事になった。すまないね、ボクから呼び出しておいて」

「いいよ、別に」


 俺も色々あって、体が強ばってしまっていた。


 立ち上がって伸びをする。彼女もぐぐっと伸びをした。


「ふっ……くぅ、ああ」

「み、美空」

「んぅ……? なんだい?」


 パッとその伸びを解くと、その見事な双球が揺れた。


「あんまり人前でそういうの、やめた方が良いぞ」

「ふぇ?」


 そこから目を逸らしつつ言えば、美空の頬が朱色に染まっていく。今日は白い頬より赤い頬の方が長い時間見てるかもしれない。


 そしてバッと。腕で胸を覆い隠した。腕の長さに反して大きすぎるので隠しきれていないが。


「み、見た?」

「見ないように努力はした」

「……ばか」


 そう言って、彼女はカバンを肩に掛けて扉までスタスタと歩いた。扉の前で振り返る。


「イズのおっぱい星人!」

「ぐぬ……」

「べー!」


【魔女】の姿はどこへやら。子供のように舌を出し、彼女は教室から出ていった。



 かと思えば、扉から顔を覗かせた。


「金曜。またここで相談だからね」

「……はぁ!?」

「それじゃあまた!」


 そう爆弾を残し、彼女は帰って行ったのだった。


「なんなんだよ、もう」


 今日は翻弄されっぱなしである。結局分かっててやっているのか――そうでないのか分からなかったし。


 そう呟きながらも。久しぶりに幼馴染と話せて嬉しく思っている自分が居たのだった。

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