八月十五日の戦争

東杜寺 鍄彁

前編

 夏の蒸した重苦しい空気、湿気と汗ではりつくシャツ、蒸れるヘルメット、長靴、そして、下ろしたくてたまらない歩荷と小銃————。

 僕は疲れ切った、しかし冴えた目で周りを見渡し、前進する。

 八月十五日、終戦記念日の今日、僕は戦地にいた。

 九州北部、歴史では大宰府の名称で呼ばれた地。僕はここで大陸と結託した自称「独立国」の自称「正規軍」と戦っている。

 戦っているとは言っても今はもう消化試合だ。壊滅しゲリラと化した反乱軍を、圧倒的火力でねじ伏せる。そんな戦闘と言うよりは作業と呼ぶのにふさわしい、単調な戦局の単調な任務に就いている。

 みんなは無事だろうか、兵役は終わっただろうか、復学できただろうか。

ふと、危機感に欠いた思念が浮かぶ。

徴兵されてから今に至るまで、京都を解放した時も、神戸や大阪で凄惨なジェノサイドの痕を見たときも。

今、瓦礫の山と化した博多を進んでいるときも、絶えず頭から離れない考えがまた浮かんだ。


 開戦も動員も全てが突然だった、少なくとも僕にとっては。

一昨年の六月二十一日、長崎で突然「日本民族民主協和国」と名乗る勢力が、日本国からの独立を宣言した。

それから僅か数日後、協和国の軍隊「日本解放軍」と、中国軍とロシア軍が、独立直後に、即座に協和国を国家承認した二国の軍隊が九州全土を制圧した。

あまりにも唐突な出来事に、僕の理解は追いつかなかった。


昨日まで日本国の九州地方だった土地が、今日は自称独立国の、反政府勢力の支配地域。

昨日まで民族問題も経済格差も皆無だった土地が、旧ユーゴのスロベニアや、クロアチアよろしく、武力を以て独立を訴えている。

昨日まで日本国の主権が及んでいた地域に、仮想敵国の軍隊が「同盟国保護」「人道的介入」を理由に展開している。


 僕にはわからなかった、いや、わかりたくなかった。

それが「事実上の軍事侵攻」「戦後初の内戦」「新しい戦時下」ということを、理解したくなかった。


 戦争初期、状況は絶望的だった。下関、神戸、広島、大阪、堺。各地の主要な港湾に上陸した敵軍は、瞬く間に中国・近畿地方全域を占領し、行政区を設置した。

 京都は「京都・民族文化特別区」、神戸は「神戸・協和国政府直轄経済特区」、広島は「広島・民族歴史区」、福岡は「福岡・革命記念首都」という、その響きだけで命名者が何者なのか、何を行動原理、聖典にしているのか、それらがあからさまで悪趣味な名称に変えられた。

 北海道から東海まで、各地の幹線道路は一方は戦地へ向かう兵士、もう一方は東へと頼りを求める避難民と、日章旗に覆われた棺桶で無言の帰宅をする政府軍兵士で埋め尽くされた。

真新しいアスファルトの匂いがする道路も、たった二ヶ月で腐乱臭と土埃、乾いた血痕で、嘗てのウガンダ、ボスニア、イラクと同じ「生きた戦場」、「死んだ生活空間」、「此岸と彼岸のアノマリー」と化した。

 ソーシャルメディアからマスメディアまで、個人の認識能力と政府の監視、ついには情報インフラのキャパシティすらも超越し氾濫する情報。

その中に頻出する日本地図。

海外のシンクタンクや国内の軍事メディア、有識者の作る日本地図は、気づけば中部地方の半分まで、敵対勢力を意味する赤で染まっていた。

 BBSでも、現実でも、この戦争に対する感覚は二分化された。

一方は戦争を深刻なものと捉え、画面の向こうに見える硫黄島や沖縄の再現を、差し迫った現実だと、明日にでも東京や仙台で起こりかねない、直近の未来予想図だと言った。

それに対してもう一方は、内戦と本土決戦という事象に、アフリカやアジアの途上国、第三世界でのみ起きると思い込んでいた出来事に、現実感を掴めず————いや、あえて非現実だと捉え、平時の生活を、以前の普通を営もうとしていた。

 僕はその二つ、どちらの考えでいたかというと後者だった。

僕だけじゃなく、同年代の若者の大半は、特に大学生は後者であった、あろうとしていた。

「今日も通学中にキュウマルを見たよ。やっぱデカいな、戦車ってやつは」

「十八以上の社会人に動員令だと。受験を受けといてよかった、これで学費と鬼単も報われる」

「今朝はアラートで目覚めて」

「煙草も酒も値上げ、これじゃあ飲み会もお通夜だな」

「アイツ、今日は忌引きだってさ。父さんと兄さんが戦死だと」

 僕の生活には、確かに戦争が同居していた。大学にいても、スターバックスにいても、電車にいても、常に「キュウマル」「ハチキュウ」「動員」「アラート」「値上げ」「品薄」「戦死」といった単語が絶えず耳目を突いた。

戦争は自分の存在を無理矢理示すように、日々、あらゆるところにいた。

伝聞のみならず、映像で、音声で、図表で、市場で。あらゆるところ、あらゆる形で戦争は姿を現していた。

 それを僕は、僕たちはわざと無視、矮小化していた。今思えば正常化バイアスというやつだったのかもしれない。


「なあ、大阪で起きたって噂の虐殺。あれ、どう思う?」

 ある日、僕は毎週木曜に集まる芸術サークルでこんな言葉をかけられた。

「さあ、どうだろうね。僕には日本人が日本人を大勢殺すなんて信じられないけど」

初耳だった大阪での虐殺の疑惑という話題に、僕は平時の常識で答えた。

「そうだよな。ありえないありえない。内戦に侵略と来て、次は日本人同士の虐殺なんて、そんなのある訳ない。質の悪いプロパガンダだ」

彼は一瞬安心したように、そして冗談めいた笑顔を浮かべそう答えた。

 僕に話しかけ、僕の回答を笑った彼、芸術サークルの一員で僕と同じ文学部国文科二年の『安藤』、彼は後に野営テントに吐瀉物まき散らしながら、電話口で僕に死にそうな声で誰に対してなのかわからない懺悔と、助けを乞う言葉を繰り返すことになる。

自身が、ありえないと、プロパガンダだと言った虐殺の現場を目にしたのだ。

 これは何も安藤だけじゃない、文学部哲学科の『田中』、経済学部の『山田』、教育学部の『秋田』、情報工学部の『早野』と、そして僕————。

 戦争を無視しようとした、話題に挙げてもすぐにジョークのネタとして片づけてきた僕らは、突然の徴兵————いや、突然なんかじゃない。現実を見ようとしなかったから、戦争をモラトリアムの些細なイベントの一つ、それ程度の事と片づけたから、だから見えていなかった。見えていなかった、予測していなかった、すぐ目の前の予定。設定したことを忘れていたリマインダー。

 その分かりきっていて、しかし僕には突然の徴兵、それが僕らを戦場という戦争が最も現実的で遍在する場に叩き落した。

 前近代的な塹壕戦と現代的でそして不慣れな市街地戦、非対称戦、画面の向こうにあった銃、硝煙、血、肉塊、叫び————。

それらが見世物小屋のグランギニョルから、ルポルタージュで語られる詩的なリアル————地獄となり、数百キロ先のことから数メートル、数センチ先のこととなった。

 正直、僕は戦場というものを、前線に投入されるその時まで現実のものと思えなかった。

召集令状を渡されても、徴兵所に集められても、数週間の教育課程を受けても、イマイチ、戦争への恐怖や現実感が湧かなかった。

僕にとって自分がこれから征く戦場という場所は、鉛と鉄、肉と血、平時の理性とは正反対の本能————それらで作られる世界というものは、どうにもグランギニョルの演目の一つのような、そんな夢うつつに思えて仕方なかった。

 教育隊での短い生活の後、僕は情報集積部隊に配属された。

あるときは、市街地で戦闘、制圧する普通科と共に、あるときは前線を走る戦車、装甲戦闘車のわずか後ろに、前線のあらゆる兵科に帯同し、あらゆる場所に展開し、そして敵の情報を盗み聞く、地味でしかし戦勝には不可欠な、新時代の補給物資・情報をとり扱う部隊に。

 僕が前線に初めて来たとき、戦況は初期と比べはるかに良い状態に、反転攻勢に入っていた。

 その時すでに一年ほど経っていた戦争は、西側からの国際支援を取り付けた日本には耐えることのできる、九州奪還の準備期間にできるものであったが、第七艦隊と英豪艦隊の警戒で、北方から攻めることのできない中露と、その二カ国しか後ろ盾のいない、所詮、暴動やテロリズムの延長線上にしかない無法政府には、身を削るだけの月日であった。

 協和国が絵に描いた餅のような戦後統治の策定と、無計画な進撃を繰り広げる間、日本政府は、この戦争が安保条約にある内戦ではなく、対外勢力の工作と干渉による侵略に対する防衛戦争であることを米国と国際社会に認めさせ、各国の兵器、食料、医療品の供与を取り付けた。各部隊を再編し、反攻の準備を進めていた。

 そして、僕が召集される一か月前、アメリカは米海兵隊と陸海軍の派遣と、イギリスやフランス、オーストラリアを始めとする十数カ国の有志連合の結成を宣言。戦争の勝敗は決した。

 エイブラムスとチャレンジャーが「R」とスプレーで書かれた74式を鉄くずにする。有志連合と陸自(陸上自衛軍)がM4と89式で地面に赤黒いカーペットを敷く。空挺と特戦が県府庁舎に掲げられた協和国旗を降ろし、日章旗を掲げる。

 戦場にいち早く訪れた戦勝パレード、それに帯同しながら情報を集めた。

あるときは戦車の均した道、その後方で電子戦装置を使って。あるときは市街地で斃れる敵兵と市民の携帯端末(セル)を僕の傍受端末に通して。

 僕はそうやって名古屋を防衛し、京都を解放し、そして————神戸で、大阪で、ジェノサイドの痕を————白骨化したものから、腐ったもの。ある者は若く、そして老いた、男女関係なく積み上げられた無差別殺人の成果————人であったものの集積体を目の当たりにした。

 僕の戦場がグランギニョルから、現実に顕現した地獄に変わった。

人だったもの、それに蛆と共に張り付く衣服。そのポケットに、僕と情報集積部隊の兵士達は手を入れ、セルがないかと漁る。

犠牲者のセルには多くの事実が遺されていた。

 家々から引きずり出された市民が後ろ手に縛られ射殺されるところ、少女が強姦されるところ、腹を撃たれたある市民が「日本国万歳」「民主主義万歳」と叫びながら徐々に動きを止めるところ、一家全員を殺し終えた家から嬉々と戦利品を持ち帰る敵兵————正常性バイアスからカメラを止めない撮影者————その断末魔……

セルにはこの世の憎悪を煮詰めた光景が、五千万画素の映像で遺されていた。

 腐肉に触れ、蛆を払い、盗み見る。僕はその作業に最初は吐きながら、途中からは落ち着きはらって取り組んだ。

 命の危機に直面した時、命が潰えた痕を目撃した時、名古屋の防衛戦や京都市街での敵兵の死体を漁った時。

その時、僕は人間であり続けるために、ショックで人であることを放棄しないために、常に戦場から遥か後方のこと、戦場に送られた友のこと、そして戦争より昔のことを思い出した。部室に置いてきた原稿を、未完成の自作映画を、芸術サークルの安藤を、田中を、山田を、秋田を、早野を、戦前の地雷もミサイルも恐れずに過ごせた日々を、講義中に寝て、サークルで弁と筆を振るうモラトリアムだった日々を思い、やり過ごしていた。

 神戸と大阪の虐殺の跡地で、蛆と腐肉からセルを漁り、人が屠殺される過程を、腐肉の生産工程を盗み見る任務は、僕を回想や憂いに浸ることを許さぬほどの凄惨さだった。

しかし日が経つにつれ肉は土に還り、一見すると、野生動物のそれと勘違いしてしまいそうな、無機質な骨と、血の乾いた布切れだけが残り、僕らは蛆と腐肉から解放された。僕はまた人であろうと努めることができた。

 僕らはそうやって戦争という、人が肉に変わり骨になる過程に、死が戦友のように常に同居する場に落とされ、戦争のリアルを味わわされた。

 安藤がテントで吐いた日、僕より少し早く神戸入りした日。彼は息も絶え絶えにこう言った、

「ごめんなさい、ごめんなさい……助けてください、僕たちを。助けてください、みんなを。すみません、すみません……ごめんなさい……こんなにしてしまってごめんなさい。助けて……」と。

 この日以来、安藤から電話が来ることはなかった。他の友人も、僕が神戸へ、大阪へ、京都へ、広島へ、九州へと足を進めるにつれ連絡がぽつり、ぽつりと途絶えていった。

 僕はそんな生死すらわからない友と書きかけの原稿を思い、そして大学生活を回想し、除隊後に思いを馳せながら前進した。


 今いるここ、大宰府まで。

酷い暑さだ、酷い街並みだ。

往時のボスニアを思わせる元ビル群と元住宅街。崩れた寺社仏閣と文化財。そして要塞化された結果、徹底的に破壊された学校、公共施設。

 瓦礫だけが、人工物の破片のみが残る、草も木も水もそれすら残らない、杜甫の記した長安よりも草臥れた、人の営みも自然も消えた街————そんな大宰府を見まわし、僕は悲壮とも無常ともいえる感傷に浸る。

 外敵から日本を守るために作られた大宰府————数多の侵入を防いできた日本の盾は、今、日本人の手によって壊されたのだ。

 僕たちは協和国政府最後の拠点、長崎まであと一歩のところまで迫っている。福岡にあった協和国の暫定首都は、先月の下関解放と北九州解放ののち放棄された。

 協和国の首謀者————制定以来初の外患誘致罪と内乱罪を適用された犯罪者達は、北から南までほぼ全土を占領され、逃げ場を失った九州で、長崎という最後の牙城に立て籠もっている。

 中露は既に撤退した。下関奪還で協和国に見切りをつけたのだ。

一応、軍事支援として、あるだけの戦車、装甲車、戦闘機、小銃、その他諸々を置いていったが、まともなパイロットも、戦車乗りも、兵士も残っていない協和国にとっては、邪魔な置き荷物でしかなかった。

 戦車と装甲車は塹壕に潜らせ、トーチカや固定砲台として活用し、小銃は無理矢理つれてきた学生や若者、果てには子供や老人に持たせたが、正規軍相手には単なる的でしかなかった。戦闘機については何にも使うことができず、ただ、退役寸前のA-10の戦績稼ぎスコアになるだけだった。

 協和国は長崎の要塞化や、奪還された地にまだ潜伏・残存している部隊を用いたゲリラ戦を仕掛けるなど、必死の抵抗を見せた。しかし、補給も装備も練度も勝る相手には、敗北を遅らせることすらできなかった。

 今の敵軍には、まともな通信手段すら無い。

中露が支援していたからできていたジャミングも秘密通信も、今では不可能で、高度で秘匿性のある通信の代わりに、旧世代的で単純な、チャンネルの固定されたFM無線と、とっくに解読された暗号の組み合わせが用いられている。その通信はすべて、電子戦装置と僕の傍受端末、そして前線のラジオに補足されていた。

 正直、僕の任務は終わったようなものだ。電子戦装置や端末を使わずとも、ラジオや簡単な通信機器で敵の情報を傍受できるのだから。

 とは言っても、徴兵期間は任務や戦況ではなく、任期と傷病で決まるもので、五体満足で、且つうまいこと現実逃避をできている僕はまだ戦う必要があった。

そういうわけで、僕は今、情報収集の代わりに雑多なゲリラ兵と戦い、長崎攻勢の支援をする任務に就いている。

 長崎を解放すれば戦争が終わる。こんな三文小説の設定でも見ない、ふざけた戦争がやっと終わる。

 九州は再び日本国の一地方に、体制は戦時から平時に、僕らは兵士から学生に戻る。

講義中に寝て、放課後に起き、遅くまで文章を、たとえ自己満で駄文であったとしても、友が読んでくれる作品を書く、何度も回想し、そして思い描き憧れ待ち望んだ日常。

 僕は疲れている。命綱である鉄帽とアーマープレート、小銃を放り投げようと、実際にはできないが、そうしたいとさえ思っている。

それでも歩みを止めないのは、生きようと小銃を固く握っているのは、終戦があと少し先にあるからだ。

 僕は焦っている、疲れさえなければ走っている。高鳴る気持ちを抑えられない。

長崎、そこを落とせば全てが終わるような、元に戻るような、そんな気がするのだ。

元通りの日常、元通りの友————僕は早く戻りたい、会いたい。

そんな、確証もない戦後への期待に、楽観的とまで言える戦前への回帰に、僕は胸を高鳴らせ、気だるげな目をさまし、足を進める。

「ただいま」「おかえり」

 この言葉を掛け合って、そして語り合いたい。ゲロを吐いたことを、上官に殴られたことを、糧食の食べ方を間違えたことを、旧式のL-85を左肩につけて撃ちそうになり、こっぴどく叱られたことを。

「ゲリラに警戒しろ」「周りをよく見ろ」

 一応、僕は上官の言うその言葉に従って、寝不足で疲れの溜まった目で周囲を見回している。だが、興奮と焦り猛暑から、敵がいるかどうかなんて見えていなかった。

無理矢理動く体と脳、目では、注意散漫で焦燥に駆られている状態では、命令の本質、つまり「瓦礫の中に隠れる敵を見つけろ。いたら報告し撃て」ということができなかった。

僕の警戒、見渡しは本質を伴わない、形式的なものでしかなかった。傍から見れば、厳格な軍人からすれば、油断と言われても仕方ないほど軽い警戒だった。


 僕が小銃から片手を離し、汗をぬぐおうと戦闘服の袖を額に当てた瞬間。

数発、小さな破裂音が響いた。僕の近くにいた兵士が倒れこむ。

発砲だ。

 急いで小銃を銃声の方へ向け、そして敵襲と交戦の報告をする。

 AKと64式、89式を持った敵が、一斉に突撃して来ていた。

敵は僕たちが対応するより僅か前の、ほんのコンマ数秒早く部隊に肉迫していた。

瓦礫の陰や、廃ビルの中、砲撃の弾痕から現れたゲリラがすぐ目の前に迫っていた。

 僕は防衛射撃をしながら、瓦礫の陰へ隠れようとする。敵の方へがむしゃらに引き金を引きながら、全速力で、僕の体力で出せるだけの速さで瓦礫まで走った。

 遮蔽が目前に迫ったとき、あともう少しで身を隠せると思った、そのとき、腹に凄まじい熱さと痛みが襲った。

 僕は体験したことない痛みと感覚に、腹を抑えながら地面に倒れこんだ。

地面には赤い液体が広がっていた。ああ、そうか。僕は撃たれたのか。

「衛生兵、衛生兵」

僕は必死に助けを求める。

まだここで死ぬわけにはいかない。帰りたい、帰らなくちゃ。

やってないことが、書けてないものが、話したいことが、まだあるんだ。

 左手で腹を抑えながら、右腕で体を引きずる。瓦礫の陰に入ろうと必死に体をよじらせる。

 とても遠く感じる、とても遅く感じる。それでもこれ以上撃たれまいと、助けを求めようと、必死に体を引きずった。

瓦礫の陰に入ったあと、僕は歩荷から、生理用タンポンと包帯を取り出した。止血しようと、傷口にタンポンをつめ、その上から包帯を巻いた。

手に力が入らずうまくできなかった。血がすぐに包帯を赤く滲ませ、そして溢れる。

 もう一度僕はか細く助けを乞うた。

「撃たれた、衛生兵、衛生兵、来てくれ」

叫ぼうとしても、また叫んだつもりであっても、咽頭から絞り出される声は、銃声に虚しく掻き消される、弱弱しいものだった。

「衛生兵、ケガをした、撃たれた、助けを」

「衛生兵、撃たれた、助けてくれ」

「助けて、撃たれた、助けて」

「助けて」

 僕は血がベットリとついた小銃から右手を離し、頭上に手を上げながら、振りながら、何度も助けを呼んだ。

しかし、血がベストと軍服の布地から溢れ、僕とその周りを赤く染めていくにつれ、手は上がらなくなり、声も出なくなっていった。

視界は段々とぼやけていく。

 ぼやける視界の中、僕の方へと走ってくる兵士が、戦闘服に鉄帽と20式の正規兵、陸自の兵士が見えた。

「大丈夫か!意識はあるか」

 彼が僕の肩を叩き呼びかける。僕は声を出せぬ代わりに、数度の瞬きと頷きで生きていること、意識があることを伝える。

「助けるからな、連れて帰るからな。死ぬなよ」

動きで返す僕に、彼は意識が途切れぬよう、呼びかけをしながら患部の確認と、モルヒネらしき薬品の投与、止血をする。一通り処置を終えると、

「持ち上げるぞ、痛むかもしれないが耐えてくれ」

と言い、彼が僕の背中に腕を回し持ち上げた。疼痛が激痛に変わると共に視界が瓦礫の裏から、硝煙と炸裂、飛び散る血と屍、傷病者の戦場に変わる。

 弾幕を前に金切り声をあげながら、銃剣をつけた64式で突撃する敵兵、弾幕を潜り抜け銃剣で政府軍兵士を深く突き刺す敵兵、体に括り付けた爆薬でカミカゼをする敵兵————。

 そんな四十五年の亡霊を前に軽々と命を狩られる兵士、無秩序な乱射でフレンドリーファイアをする兵士、右腕や左腕を落とし、腕を探そうと彷徨っている内に弾丸に貫かれ息絶える兵士————。

 僕は意識と共に遠ざかる景色を、初めて負傷し、そして僕の書類上の戦死地となるかもしれない戦場を、20式の兵士に担がれながらぼんやりと眺めていた。

 金切り声が消え、銃声が遠くなった頃、僕の意識は途絶えた。


『パチリ』

 目が覚める。ぼんやりとした視界が徐々に晴れる。

深緑のテントの天井。野営地にありふれたそれが僕の目に入る。

 甲高い耳鳴りがやむ。

「痛い、痛い……」

「腕が!腕が!ない!足が……」

「殺してくれ……死な……」

「帰りたい、帰らせてくれ!治療してくれ!」

痛みと欠損を訴え、助けと解放を求める声が聞こえる。

痛みを間際らそうとしてなのか、それとも言葉が出せないがため、本来伝えたい苦痛と助けを何とか伝えようとしてなのか、ひねり出したような呻きが聞こえる。

 どうやらここは野戦病院のようだ。

助かったと、そう安堵するのも束の間。腹に痛みが走る。

 僕は自分の状態を確認しようと、上体をほんの少し起こす。

銃創には包帯が巻かれていた。しかし、血が滲んでいて止血しきれていない。さらに輸血袋は空っぽだった。

痛みは増していき、包帯が血で溺れていく。

このままでは失血し、ショック死してしまう。

 呼吸を荒くし、出血を抑えようと銃創を手で押さえ、痛みから体をよじらせていると、赤十字の腕章をつけた兵士がこちらへ駆けてきた。

「出血がひどいんだ。輸血を、止血を」

僕は衛生兵にそう伝える。

 衛生兵は僕の願いに何も答えず、ただ、無理矢理、患部を抑える手をどかし、まじまじと見つめ、軽く触ったあと、一言僕に向け、こう聞いた。

「宗教はありますか」

 嗚呼、僕は死んだ。僕は自身の終わりを悟る。

少なくとも、この衛生兵には見捨てられた。治療は望めない。

 戦場で宗教を聞かれるとき、それには二つの場合がある。

一つはカウンセリング。もう一つは————戦死がほぼ確定した時、傷病が手に負えないほどで、助かる見込みがないとき……

 僕は震える声で、

「PS……国民神道です」と答える。

「国家神道でなく、国民神道ですね?伊勢神宮でなく、出雲大社ですね?」

衛生兵の質問—————戦場で数少ない死亡宣告————息がある内につけられる黒色のトリアージタグにまた返す。

「出雲……国民」

 衛生兵はそう聞くと、僕の元を離れ、駆け足で最初来た方向へと向かっていった。

僕は力を振り絞って、衛生兵を呼び止めようと喘ぐ。

「待って、待ってくれ」

 荒い呼吸交じりの言葉に、衛生兵は一瞬、ほんの僅か振り返った。

その顔には憐憫と、そしてほんの一厘程度の、そんな優しさの混ざったモノが浮かんでいた。

 衛生兵が去ってから程なくして迷彩服の、だが軍人とは雰囲気の違う男が、僕の元へ来た。

男が枕元でかがみこむ。

「従軍神祇官の者です。これより臨終の祓いを執り行います。いいですか?」

 僕は従軍神祇官の、軍属とは思えないやわらかな問いに静かに頷く。

僕の意識はそこで途絶えた。

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八月十五日の戦争 東杜寺 鍄彁 @medicine_poison

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