第9話 赤熊殺し
広大な森を抜けた先に、その村はあった。
まばらに生えた下草とただ青い空の間で、しわがれカサカサに乾いた裸のブドウの木の先端に薄緑の新芽が芽吹いていた。それは太陽のもとで透き通るよう感じるほどに美しかった。
枯れ木と見紛う程の幹の内側の命のほとばしりを見た気でいた。
――春だった。
収穫にあぶれた、かき菜の花の黄色が畑に重なって、腰丈を越えて揺れる緑と黄色を見るだに、人が消えた後、美しく保たれる世界を夢想する。
手入れの行き届いた無秩序。
料理店が取りそろえた、これから調理を待つ色とりどり取りの、手つかずの食材の画、その時が、最も美しく感じる矛盾に何だか似ていておかしくなる。
なんにもできやしないのに、歌や踊りが生まれる瞬間に立ち会った気でいた。
失われたはずの明日が、ここには完全な形であった。誰かが代わりに守ってくれたわけでない。雄大でただあるだけの自然。自然。
空はどこまでも青く続いていて、山の端に掛かる雲がこれほど近くにも遠くにも感じる畑の端っこで、今日、目くらになってもおつりがくるほど、鄙びた景色をぐるぐる眺めていた。
◇◇
「何か思い出した?」
気付くとレジーナが隣にいた。
「こ…………いや。さっぱり」
故郷のラース村。そう言いかけて言葉が止まる。
ナナカマドと蔓バラの庭。緩やかな傾斜がかった麦畑と、橙色のタイル屋根の家。
そして賑やかに誰かと食卓を囲む、穏やかな景色。
そのイメージの中の人物の顔には、靄がかかって全く誰だか分からない。
――死んだ両親の顔すら思い出せなくなっていた。
思い出のあらかたと、戦火で失われた全てを引きかえに得た、この世界での暮らし。
「それであなたは何をしてるの?」
傍を流れていた小川から水を汲み、先ほどまで忙しく馬の世話をしていたレジーナの不意の問いかけに、やっぱり答えることができなかった。
実に的を射た問いだ。奴隷を脱して、この先。さて何をしようか。
「さっき言ってた保安官がどうこうって話だけど――」
わあああああああああ!!
出し抜けに遠くで上がった悲鳴に視線を奪われた。
「聞こえたわね?」
「何だろう?」
のどかな村で何やら異変が起きたようだ。
「急ぐわよ」
レジーナは荷台から細身の剣を取りだし、素早く腰に差す。
そして、その場に馬車を残して二人そろって村の方へと駆け出した。
畑を二つ越え、村の仕切りの柵を越えた先で、こちらに駆け寄ってくる男に行き会った。
男は俺たちの姿を認めると矢継ぎ早に言葉を伝えた。
「旅の人か!? 今すぐここを離れた方がいい。もし足があるんなら子供を乗せて避難してくれんか?」
恐怖に歪むその顔を見て、マントを払って片手剣の柄に手を掛け、レジーナが聞く。
「野盗でも出たの?」
男は振り返って、村の奥、建物群の先に見える林の方角を指さし答えた。
「いやぁ赤熊だ! それも2頭!」
「私は保安官よ。すぐ案内して!」
熊狩りか。ナイフを失い再び無手になった俺だが、自分が何者かを確かめるにはいい機会だな。
「天の助けだ」とつぶやいた男を従えて、俺はレジーナの背を無言で追従した。
先を走るレジーナは、途中ですれ違った村人を捕まえると、馬車のありかを教え、さらに集まって来た女たちに避難の指示をする。
俺はレジーナを追い越して、さらに先へと急いだ。
六件並びの藁葺き屋根の家のむこう、一際大きな倉庫のあたりに村の男達が集まっていた。
俺は通りかかった井戸の脇で、目についた薪割り斧を拾った。
「ちょっとこれ借りるぞ」
返事を期待した訳でなく、自然それは独り言のようになった。
きちんと手入れされてはいるが、熊相手にはいささか軽すぎるな。
「まぁ無いよりはマシか」
そして音の聞こえる方へ再び走り出す。
一段高くなった穀物倉庫の裏に、ソイツはいた。
巨大な熊は、目測でもサイズが2メートルを優に超えていた。
赤熊と聞いて、てっきり体毛が赤なんだと思ったが、目が赤く光っている。
「なるほどなぁ」
針金のような黒い毛を纏い、張り出した筋肉で肩をいからせる、いかにも剛腕なその姿。
熊の足元には、バラバラになって散らばる柵の残骸と、地面に打ち込まれた幾本もの矢が突き立っていた。
「グォオオオオオオ」
侵入を阻止すべく集まった村の男たちが、倉庫の屋根の上で弓を構えて、唸る赤熊とにらみ合っていた。
俺は、頭上の青白い顔の男たちに呼びかける。
「撃ち方止め! 今からこちらで攻撃を仕掛ける! お前たちはその場で待機しろ」
明らかにみすぼらしい服装の俺の姿に、村人たちは困惑した表情を浮かべていた。
それでも、上等なマントを付け、帯剣したレジーナの姿を認めると、命令には従うようだった。
「彼女はシェリフだ!! 助けが来たんだ!!」
村の入り口で出会った男が、声を張り上げた。息を荒げて必死にここまでついてきたのか。
レジーナは案内してくれた男に、
「あなたは村人の避難をお願い。ここまで誰も近づけないように」
確かに熊は二頭いた。目の前で唸り声をあげるデカブツと、未だ奥の林で様子を窺う個体。
「奥の一頭をまかせてもいい?」
剣を抜いたレジーナに尋ねられ、頭を軽く振って答える。
「はい。頑張ります」
さて、お嬢さんは一人で平気かね?
まぁ、この位置なら村人の援護も十分期待できるし信じるとしよう。
手斧を片手に、一人で向かう背中に頭上から呼びかけられた。
「使ってくれシェリフ!」
声のした方角を振り向くと、羽飾りのついた帽子をかぶり、弓を背負った狩人風の男が槍を投げて寄こした。
「ありがとう」
空中でその槍をキャッチすると、軽く振って重心を確かめる。
これなら投げ槍としても十分使えるな。
さて、どう動こうか。
軍にいた時は散々狩猟はこなしていた。その記憶自体はおぼろげだが、それでも体が動きを覚えている。
俺は左手奥の林の中、顔だけを茂みから突き出すようにして、こちらをうかがう熊の姿をあらためて確認した。
そして注意を引くように頭上で槍を回す。
「おーい! こっちだぁー。そろそろ鍋になる時間だぞー」
その呼びかけに答えるかのように、
「グオオオオオオオオオ!!!」
ゆっくりと林の中から這い出てきた熊は、一声吠えると四足のままズンズンと追いかけてきた。
「そのままついてこい!!」
村人たちから十分な距離を取り、俺は空地の中心で迎え撃つことにする。
「おお! でっけえ」
獲物はたっぷりと脂肪を蓄えた大柄な個体だった。肩の周りが盛り上がるように発達した、長い手足が特徴の赤目の熊。
「冬眠開けでこれだとすると、よっぽど森が豊かなんだな」
辺りはだだっ広いだけの平地。周囲に守るべきものも無い。さて、腕試しにはちょうど良い相手だ。
ナイフのような真っ黒い爪。深紅の瞳。興奮に息を荒げ、いつでも飛び掛かれるように、頭を下げ歯を剥く筋肉の固まり。
「グォオオ……」
あと一歩で間合いに入る。
草を踏み分け、歩法は柔らかく。
じっとりとにらみ合い、呼吸を窺う。
「ガアッ!!!」
瞬間。相手の後足に力が入った。
俺は機先を制し、まっすぐに右手の斧を振り下ろす。
「フン!」
ズガッ!!
固い頭蓋骨は避け、熊の首元に手斧を叩き込む。
十分な速度が乗った、我ながら見事な角度の一撃だった。
ガアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!
赤熊は、のたうつ様に左右の手をでたらめに振り回し、反撃してくる。
「よっと!」
その攻撃をスウェーで躱し、肉に埋まるように刺さった斧を手離すと、俺は瞬時に距離を取った。
熊の喉元から噴き出した血で、たちまち辺りの大地が真っ赤に染まった。
「手ごたえはあったんだけどなぁ」
所詮は薪割り用。斧刃が短く命を絶つには浅かったらしい。
手傷を負った赤熊はくぐもった唸り声をあげ、それでも逃げることなく迫ってきた。
「ほっ!!」
左の鉤爪を斜め後方にステップアウトし、躱す。
そのまま真横に回り込み、左手に持つ本命の槍を突き込もうとして、直前で思い直す。
「あっぶな!!」
腹を刺すわけにはいかない! もし、腸を貫けば肉が汚れてダメになる。
そして、右手に槍を持ち替える。
「ふむ」
俺が再び距離を開けると、赤熊は首に手斧を縫い込めたまま、起き上がり両腕を広げた。
胸毛を真っ赤に染め、濡れた毛先が黒くヌラヌラと輝く。見上げる顔の位置は優に2メートル超える位置にあった。
ダッ!!!
半歩で間合いに入り込み、腰を落として、赤熊の右の振り下ろしを掻い潜り、
「よいしょおお!!」
空いた左手で、試しに心臓のあたりを下から突き上げるようにぶん殴ってみたが、赤熊は数歩たたらを踏んだだけで、闘志が衰えなかった。
そして、吠えながら真っ直ぐ向かってくる
ガアアアアアアアアアアアアアア!!!!
俺は、瞬時に真横に飛ぶ。
「さっきのゴブリンよりよっぽど骨があるな」
まぁそれも当然か。魔物最弱と、ただの獣とはいえ体重もたっぷり500キロはありそうなデカいクマ。
比べるべくもないか。
グオオオオオオオオオオオオ!!
「ほい、こっちだぞー」
血を振りまきながら両手を交互に振って爪で攻撃してくるが、もう伸びが無い。
前後のステップだけで十分安全な距離に固定できる。
「……? コイツ後足を引きずるような妙な癖があるな」
さて、仕上げだ。
赤熊の頭が再び上がる瞬間、逆手に持ち替えた槍を投げ込んだ。矢のように飛んだ投げ槍は、わずかにしなりながら胸に吸い込まれるようにして突き立った。
ズガッ!!
槍は赤熊の左肺を貫いた。荒い呼吸の度に、証となる大量の血の泡が、口の端からブクブクと溢れ出す。
「グウウウウウ」
もはや相対する瞳に力は感じない。
俺は赤熊の動きが完全に鈍ったところで肉薄し、首に刺さったままになっていた斧を引き抜いた。
首から噴き出す血を避け、半身になった所に予想外の攻撃が来た。
「ブハッ!!」
赤熊は、瀕死の口で最後の抵抗をした。
「うへぇ!」
霧状になった血を全身に吹きかけられた!
鼻が曲がりそうな腐敗臭に近しい血を浴びて、体中が赤く染まる。
「くせえなぁこの野郎!!」
俺は怒りに任せて再び手斧を首に叩き込む。
「どりゃああああああ!!!!!」
どかっ
「ガウッ!!」
力に耐えきれず斧の柄はあっけなく折れたが、刃先が十分命に届いたようだ。
赤熊の頭が振り子のようにグルンと回転し、お辞儀をするような格好になる。
ずうううううん
首の骨を半ばまで絶たれたクマは地に伏した。
俺は今度こそ油断することなく熊の周りを半周し、死亡を確認した。
「へえ」
どうやら死ぬと、瞳の色が黒く変わるようだ。
ふう
「しっかしタフな獲物だったな」
しばらくの間、仕留めた赤熊の傍で休んでいたら、背後で村人の歓声が聞こえた。
どうやらレジーナの方も片が付いたようだ。
「あーくせえ。この村に風呂はあったりするのかな?」
鼻をつまんでいても刺すような臭いが目に染みる。
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