『ときわ荘』の大家、藤島基治

春風秋雄

302号室の女性が今月も家賃を滞納した

302号室の女性、吉永さんがまた家賃を滞納している。これで2か月分滞納していることになる。吉永さんがこの『ときわ荘』に引っ越してきて6か月になるが、家賃を月末にまともに振り込んでくれたことはない。毎月遅れ遅れで振込がある。それでも俺は催促したことはなかった。しかし、今回は2か月連続で振込がなく、これ以上滞納が続くと、吉永さん本人も大変だろうと思い、催促することにした。

夜になり、部屋の明かりがついていることを確認して俺はチャイムを鳴らした。返事があり、大家ですと言うとドアを開けてくれた。入居申込書には45歳と書かれていたが、見た目はもっと若く見える。とても綺麗な女性だ。

「吉永さん、どうしました?今月も家賃が振り込まれていないようですが」

「すみません。近日中にお振込みします」

「お仕事の方が大変なのですか?」

「すみません。ちょっとした事情で、お金がなくなってしまったので」

「生活は出来ていますか?」

「それは何とか…」

「遅れている分は1万円ずつでも5000円ずつでもかまいませんので、少しずつ払ってもらえばいいです。でもあまり金額が大きくなると吉永さんも大変でしょうから、今月末分はちゃんとお振込み頂けますか?」

「はい。ちゃんとお振込みするようにします」

「大変でしょうが、頑張ってください」

俺はそれだけ言うと、吉永さんの部屋を離れた。


俺の名前は藤島基治。今年53歳になった。この『ときわ荘』の大家だ。『ときわ荘』という名前から、ボロアパートを想像されるかもしれないが、2年前に親父から譲り受けた木造の古いアパートを建て直して、鉄筋コンクリートの5階建てマンションにした。もちろんバス・トイレ・給湯シャワー完備で、1DKの単身者向けのマンションだ。建て直した時に名前を変えようかとも思ったが、手塚治虫のファンだった親父がつけた名前『ときわ荘』を変えるのは忍びなくて、そのまま『ときわ荘』にしている。俺は3年前まで会社の社長をしていた。業績は良く、全国展開していて社員も500名ほどいる。もともとは親父が起こした会社を引き継いだのだが、俺の代になって会社を大きくした。ところが、4年前に長年連れ添った妻に先立たれ、俺は仕事の意欲を失くしてしまった。このままだと会社経営にかかわる。従業員に迷惑をかけることになると思い、専務をしている弟と、大学を卒業してうちの会社で働いていた息子の洋治に会社を任せ、俺は引退した。家は息子夫婦に譲り、俺は『ときわ荘』を建て直し、最上階に4LDKの部屋を造って住んで、『ときわ荘』の大家兼管理人をしている。ひとり暮らしで4LDKは広すぎるが、将来孫が遊びにきても泊まれるようにと思ってのことだ。社長職は退いたが、社外取締役では名前を連ねていて、月に1回の役員会には顔を出すようにしている。役員報酬と株主の配当があるので、生活に困ることはなく、『ときわ荘』は道楽でやっているようなもので、家賃収入はどちらかと言えばどうでも良い。23区から外れた小平市という立地条件とはいえ、家賃4万円は破格の賃料だと思う。しかも礼金・敷金はなしだ。その代わり、入居条件を厳しくしている。第一の条件は収入が乏しい人だ。俺は家賃を支払うと生活が苦しくなるといった人の助けになりたいと思っている。そして第二の条件は、入居の契約は普通の賃貸借契約ではなく、定期借家契約としており、契約期間は3年とし、期間満了で入居者は退去しなければならないということだ。定期借家契約の場合、入居者は居住権を主張することは出来ず、期間が満了すれば退去しなければならない。よほどの事情がある場合は再契約をするつもりでいるが、まだ期間満了になった入居者はいない。定期借家契約は途中解約できない契約が多いが、入居者が希望すれば1か月前予告で途中解約できる特約を入れている。俺としては3年の間に生活を安定させて、もっと良いところへ引っ越して欲しいという願いがある。そんな条件なので、入居者は色々訳ありの人が多い。若い人の中にはミュージシャンを目指している人や売れない芸人もいる。年配の人で多いのは離婚者だ。離婚して住むところがなくなって、とりあえずここに来たという人が何人かいる。吉永涼子さんもその一人だ。もともと宮崎県で暮らしていたようだが、離婚して上京し、お兄さんの家に居候していたが、居づらくなって『ときわ荘』に引っ越してきた。現在は小さな会社で働いていると言っていた。


翌月も吉永さんの家賃は振り込まれなかった。これで3か月分の家賃が滞納したことになる。家賃収入はあてにしていないが、何かあったのかと心配になり、俺は夕方に吉永さんの部屋を訪ねた。居留守をつかわれるかと思ったが、吉永さんは素直にドアを開けてくれた。その顔を見て驚いた。先月見た時と比べて、かなりやつれている。

「大家さん、申し訳ありません。家賃は必ずお支払いしますから、もう少し待っていただけますか?」

「そんなことより、何かありましたか?」

「いえ、…」

「とにかく事情を聞きましょう。30分後に5階の私の部屋に来てもらえますか」

吉永さんは力なく頷いた。


30分後きっかりに吉永さんはやってきた。リビングで向き合い、事情を聞くことにした。

「実は、会社が倒産して、給与が支払われていないのです」

「それは大変でしたね。それで、給与はいつから支払われていないのですか?」

「もう4か月もらっていません」

「4か月まったくですか?」

「ときどき3万円とか2万円とかもらっていますが、トータルすると3か月分以上もらってないのです」

なるほど、それで家賃が払えなかったのか。

「それで、これからどうするつもりなのですか?新しい職を探されているのですか?」

「とりあえず、ハローワークに行っているのですが、雇用保険の加入期間が短いので失業保険ももらえないし、どうすれば良いのか」

失業保険は離職した日以前の2年間の中で12か月以上雇用保険に加入していなければもらうことは出来ない。吉永さんは今の会社に入社してまだ1年経っておらず、それ以前はパートだったので、雇用保険に加入していなかったとのことだ。会社が倒産した時などは、離職前1年間の被保険者期間が通算して6ヶ月以上あれば受給資格があるが、吉永さんの場合、試用期間の関係でわずかに足らなかったそうだ。

「まずは、未払賃金立替払制度の手続きをしてください。それで未払い給与の8割は国が立て替えてくれます」

「そんな制度があるのですか?」

「ええ、倒産した会社は従業員に対して未払い給与があることが多いですので、その救済制度です」

俺は手続きの仕方を説明してあげた。吉永さんは一生懸命メモしていた。説明が終わったタイミングでチャイムが鳴った。頼んでいた出前が届いたようだ。

玄関に出前の寿司をとりにいき、リビングのテーブルに置いた。

「吉永さん、お腹すいているでしょう?寿司をとりましたので、一緒に食べましょう」

吉永さんは驚いて、遠慮していたが、生ものなので、残ったら捨てるしかないので食べましょうと言ったらテーブルに移動してきた。

「一人で食べると味気ないですが、今日は吉永さんがいるので、楽しいです」

「一人暮らしは長いのですか?」

吉永さんに聞かれ、俺は『ときわ荘』の大家になった経緯を話した。

「奥様を愛されていたのですね」

「そうですね。あいつがいなくなって、魂の抜け殻になりました。吉永さんは、どうして離婚したのですか?」

それから吉永さんは、離婚の経緯を話してくれた。

吉永さんの旦那さんは20年ほど前に宮崎県でIT関連の事業を起こし、吉永さんはその会社で事務として働いていたそうだ。ほどなく旦那さんに口説かれて結婚した。当初は幸せな結婚生活だったそうだが、もともと遊び人だった旦那さんは、家に帰らないことが多かったそうだ。ひとり息子の孝太君が大学進学で家を出て、家に旦那さんと二人きりの生活になったが、旦那さんは家に帰ってこない。一日誰とも話さない日が多くなった吉永さんは、週に4日、一日4時間の事務のパートに出ることにした。久しぶりに外で働いて人と接すると、何年ぶりかに自分を取り戻したようだった。職場の課長さんが吉永さんのことを気にかけてくれ、時々食事に誘ってくれるようになった。家の事情などを話すうち、課長さんは食事だけでなく、飲みに誘ってくれるようになり、週に1回はカラオケに行くようになった。少しずつ課長さんに惹かれていく自分を意識し始めた頃に、カラオケボックスを出たところで、偶然にも旦那さんに遭遇した。吉永さんとしては、疚しいことは何もないのだが、家に帰ってから旦那さんは浮気を疑って吉永さんを責め立てた。吉永さんとしては旦那さんの方こそ、昔から浮気をしていたくせにという思いがあったので、かなり強い言い合いになったとのことだ。その言い合いがきっかけで、吉永さんは今までの不満が一気に爆発して、離婚を切り出したところ、旦那さんはあっけなく承諾したということだ。

「同じ離婚するなら、旦那さんの浮気の証拠をつかんで、慰謝料をふんだんに取ればよかったのに」

「その時は、とにかく“この人と別れたい”の一心でしたから」

「でも、そのために今は苦しい生活を強いられているのでしょ?」

「確かに生活は苦しいですけど、あの頃と違って自由に生きているって気がします」

「その後、課長さんとはどうなったのですか?」

「向こうも妻帯者でしたので、触らぬ神に祟りなしで、私とは距離を置くようになりました。離婚して家を出て行かなければならなくなり、頼れるのが東京にいる兄だけでしたから、パートも辞めて、それっきりです」

「息子さんは、どこの大学へ進んだのですか?」

吉永さんは福岡県にある国立大学の名前を言った。

「優秀ですね。経済学部ですか。息子さんがいる福岡へ行くことは考えなかったのですか?」

「実は、離婚したことをメールしたのですが、全然返事が返ってこなかったんです。それに学生アパートに住んでいましたから、一緒に住むことは出来ませんし、当時は仕事もない状態でアパートを借りることもできませんでしたから、とりあえず兄のところにお世話になって仕事を探そうと思ったのです」

「そうですか。その後息子さんとは連絡はとれているのですか?」

「いくらメールしても、ほとんど返事はないです。やっと春に県庁に就職が決まったと連絡がありました。就職が決まって安心しました。それでもまだ学生時代のアパートに住んでいるそうですけど。連絡が来たのはそれだけです」

息子さんに無視されているのは辛いだろうなと同情した。

「それより、当面の生活が大変でしょう?」

「教えて頂いた未払賃金立替払制度でお金が入ってくるまでは耐えるしかないです」

「とりあえずの生活費として、これを使って下さい」

俺はそう言って用意していた封筒を渡した。中には10万円入っている。

「そんな、家賃を滞納しているうえに、そんなことしてもらうわけにはいきません」

「差し上げるわけではないです。就職先が見つかって、生活が安定したら少しずつ返してください。それに吉永さんが飢え死にしたら、滞納している家賃は未回収のまま終わってしまいますので、まずは吉永さんが元気に暮らしてくれることが大家としての優先事項です」

俺は笑いながらそう言った。

吉永さんは、背に腹はかえられないと思ったのか、素直に受け取った。


俺はそれ以来吉永さんのことが気にかかっていた。10日ほどしてスーパーでパート勤めを始めたと聞いた。未払賃金立替払制度でお金が入ったので、借りていたお金を返すと言ってきたが、とりあえず家賃として1か月分だけ受け取り、貸しているお金は生活が安定してからで良いと受け取らなかった。


12月に入ると、広島の友人から牡蠣が送られてきた。俺は自分で料理は出来ないので、吉永さんに持って行った。

「毎年広島の友人がこの時季に送ってくるのです。妻が生きていた時は妻が料理してくれていましたが、妻がいなくなってからは誰かにあげています。今年は吉永さんに差し上げますので、良かったら食べて下さい」

「そんな、もったいないです。じゃあ、私が料理しますので、一緒に食べましょう」

吉永さんは、俺の部屋にあがり、台所で料理を始めた。俺はリビングで吉永さんが料理する姿を見ていた。

「奥さんは、どんな料理が得意だったのですか?」

吉永さんが聞いてきた。妻が得意だった料理をいくつかあげ、ついでに料理にまつわる思い出を話してしまった。

「良い奥さんだったのですね。幸せそうな光景が目に浮かびます」

俺は余計なことまでしゃべってしまったと後悔した。

吉永さんが作ってくれたのは、牡蠣フライと牡蠣鍋だった。久しぶりに手料理を食べて、こういうのは、やっぱりいいなと思ってしまった。


吉永さんに台所を貸したのを機に、二人の距離はかなり縮まったような気がした。俺はお歳暮に牛肉が送られてくると、一緒にすき焼きを食べましょうと吉永さんを誘った。吉永さんは素直に喜んでくれた。すき焼きを食べながら、趣味の話や、好きな映画や好きな作家の話をした。吉永さんとは好みが似通っていて、話がはずんだ。俺は純粋に楽しいと思った。妻がいなくなって、こういう気持ちになったのは初めてだった。吉永さんは話上手で、聞き上手だった。相手から話を引き出すのもうまい。俺は吉永さんの誘導で、気が付くと妻のことや、息子のことなど、色々話していた。

お腹が落ち着いたところで、お酒の酔いも手伝って、俺は思い切って吉永さんに言った。

「吉永さん、よかったら、クリスマスを一緒に過ごしませんか?」

吉永さんは驚いたように俺を見た。

「他に予定があったり、私と過ごすのが嫌なら断って頂いても全然かまいません。断ったからと言って、私はいままでと態度を変えることはないですから、お金のことで引け目を感じて嫌々付き合うことはしないでください」

「そんなことは思ってもないですけど、私でいいのですか?大家さんなら、他にクリスマスを過ごす素敵な女性がいるのではないですか?」

「そんな女性はいませんよ。妻がいなくなってから、クリスマスに女性を誘ったのは吉永さんが初めてです」

「ありがとうございます。私で良ければ、ご一緒させて下さい」


クリスマスは、懇意にしているホテルの支配人に頼み込み、レストランを予約した。通常の席はかなり前に予約で埋まっているとのことで、空きスペースにテーブルを置いて、パーテーションで仕切ってくれた。

「こんなホテルでディナーを食べられるとは思っていませんでした」

「支配人に無理を言って席を作ってもらいました」

「ありがとうございます」

シャンパンで乾杯をし、運ばれてくる料理に舌鼓を打った。どの料理を食べても吉永さんは「美味しい」と言って嬉しそうだった。頃合いを見計らって、俺は用意していたプレゼントを渡した。トップに小さなダイヤが埋め込まれているネックレスだ。箱を開けた吉永さんは、ジッとネックレスを見つめながら、目を潤ませてきた。

「もうこんなプレゼントをもらうことはないと思っていた」

「吉永さんは、まだまだ若いし、女性としても魅力的だから、男としてはプレゼントをしたくなります。これからもそういう機会はいくらでもあると思います。できることであれば、その機会は私が独占したいと思っていますけど」

吉永さんは目に涙をためて俺を見た。

「私は、まだ女でいていいのでしょうか」

「当然です。もう母親としての役目はほとんど終わっていますし、これからは女としての人生を満喫してください」

「もうこんな年ですけど」

「男もそうですけど、女性は一生女であるべきです。私も自分が男であるということを忘れそうになっていましたが、吉永さんに出会って、男であるということを思い出させてもらいました」

レストランを出て、1階までエレベーターで降りたところで、吉永さんに言った。

「支配人に聞いたら、キャンセルが出て部屋が一部屋空いているということですが、良かったら部屋に上がりませんか?」

吉永さんは、俺を見上げて静かに頷いた。俺はフロントへ行き、チェックインの手続きをした。


クリスマス以来、吉永さんは週に1回か2回、俺の部屋にきて料理を作り、そして泊まっていくようになった。俺はベッドの中で吉永さんに言ってみた。

「涼子さん、もうこの部屋に荷物を移して、一緒に暮らしませんか?」

「ダメです。お借りしているお金をちゃんと返してからでないと、そういうことは考えられません」

「お金のことは、もういいですよ」

「それはダメです。お金をお借りしたのは、基治さんとこういう仲になる前のことです。それをこういう関係になったからといってチャラにしたら、私は借金をチャラにするためにこういう関係になったということになっちゃうじゃないですか」

「俺はそんなこと思いませんよ」

「私が気にするんです。それでなくても…」

「それでなくても、何です?」

「まあ、それはいいです」

俺は吉永さんが何を言いたかったのか気になったが、吉永さんはそれ以上何も言おうとしなかった。


妻が他界してから、俺は魂の抜け殻のように生きてきた。しかし、吉永涼子さんと出会ってから、再び生きていく喜びを感じていた。週に1回か2回の逢瀬だったが、同じマンションに住んでいて、いつでも会えるという環境に俺は幸せを感じていた。

ところが、寒さが緩む日が多くなり、春の訪れを感じ始めた頃になると、吉永さんが俺の部屋に来る頻度が減って来た。仕事が忙しいのかと思っていたが、ある日、吉永さんが、話があると言ってきた。

リビングで向かい合うと、吉永さんは封筒を差し出した。

「これで、お借りしていたお金はすべてお返ししたことになります」

封筒の中身を確認すると、確かに残金額が入っていた。

「長い間、ありがとうございました。基治さんにお金を貸してもらわなかったら私はどうなっていたかわかりません。私はこの『ときわ荘』に来て本当に良かったです。そして、基治さんに出会えて、本当に幸せでした」

俺は何か、嫌な予感がした。

「それで、大家さん」

基治さんではなく、大家さんと呼ばれて俺はドキッとした。

「私、今月一杯で『ときわ荘』を出て行くことにしました」

「それは今の部屋を出て、俺の部屋で一緒に暮らすということではなく、『ときわ荘』自体から出て行くということですか?」

「そうです。福岡へ行くことにしました。息子の孝太が広いマンションに引っ越したので、一緒に暮らそうと言ってくれました」

「ちょっと待ってください。俺は涼子さんとのことを真剣に考えていたのです。俺は涼子さんと一緒に暮らしたいと思っているのです」

「ありがとうございます。私も孝太から連絡があったとき、迷いました。孝太と一緒に暮らせるのは本当にうれしいです。でも、基治さんとも離れたくないという気持ちがありました」

「それでも息子さんと一緒に暮らしたいという気持ちの方が勝ったということですか?」

吉永さんは、少し寂しそうな顔をした。

「基治さんは、今も亡くなった奥さんを愛しておられます」

俺は意表を突かれてドキッとした。確かにそうかもしれないが。

「でも、妻はもうこの世にいないんです。私は今、現実に目の前にいる涼子さんを愛しているのです」

「本当に私を愛しておられるのでしょうか?私には、亡くなった奥さんの代わりを私に求めているように思えてならないのです。一緒に食事をしているときも、一緒にテレビを見ている時も、昔奥さんとこうしていたなと懐かしんでいるように思えるのです」

俺は反論できなかった。

「そして、私を抱いている時でさえ、目をつむって奥さんを抱いているつもりでいるのではないかと思ってしまったのです」

俺は何も言えなかった。

「それでも私は、久しぶりに男性から求められたのですから、女として幸せを感じていました。でも、ふと思ったのです。いつか基治さんは、涼子という女は亡くなった奥さんではないと気づいてしまう時がくる。そのとき基治さんは私に対して、どのような感情をもつのだろうと。そう考えると、怖くなってしまいました。それでも孝太から連絡がくる前であれば、基治さんと一緒に暮らすことを迷わなかったと思います。でも孝太から連絡がきて、どちらを選ぶかと考えた時、私は母親として息子と一緒に暮らすことを選んでしまいました。こんなに良くしてもらったのに、申し訳ないです。短い間でしたが、本当に楽しかったです。そして、今までにない幸せを感じました。ありがとうございました」

俺は、何を言えば、どう説明すれば、吉永さんを引き止めることが出来るだろうかと考えたが、何も言葉は出てこず、部屋から出て行く吉永さんを黙って見送ることしかできなかった。


吉永さんが『ときわ荘』から出て行くのを見送って以来、俺はまた魂の抜け殻のような生活を送っていた。俺は確かに吉永さんに亡くなった妻との思い出を重ねていたのかもしれない。吉永さんが言うように、吉永さんを抱きながら目をつむって妻を思い出していたことも1度や2度ではない。でも、男ならみなそういうことはあるのではないか?目をつむって綺麗な女優さんを抱いていることを妄想する男だっている。しかし、それは言い訳だ。それを相手に悟られては男として失格だということだ。

ただ、吉永さんがいなくなって、はっきりわかったことがある。それは間違いなく俺は、吉永さんが好きだったということだ。


街ゆく人々に、半袖姿がちらほら見え始めた頃、玄関の掃除をしていると、102号室に入居している大学生の鈴木君が声をかけてくれた。

「大家さん、おはようございます」

「ああ、おはよう」

「そういえば大家さん、ときわ荘の屋上って上がれるのですか?」

「普段は鍵をかけているけど、上がれるよ」

「バーベキューとかやったら気持ちいいでしょうね」

「いいね。今度みんなでバーベキューやろうか。食材は私が無料で提供するよ」

「本当ですか?じゃあ、僕が皆に声をかけてみますよ」

鈴木君の提案で『ときわ荘』住人のバーベキュー大会が実施されることになった。落ち込んでいた俺としては、良い気晴らしだと思った。早速俺はホームセンターでバーベキューセットを購入した。

当日、俺は奮発してちょっと高い肉と野菜、そしてビールを買い込んで屋上でバーベキュー大会が催された。若い人、年配の人、まちまちの住人だが、無料で飲み食いできるということで、『ときわ荘』の住人全員が集まった。とても楽しい。もっと早くこういう催しをすればよかったと思った。しばらくすると、隅の方で、ポツンと一人座ってビールを飲んでいる女性に目が止まった。確かこの春に201号室に入居した岡島さんだ。入居申込書では42歳と書いてあった記憶がある。座っている姿が妙に暗いのが気になって、近づいて声をかけた。

「岡島さん、どうかされましたか?」

俺に声をかけられた岡島さんはふと顔をあげて俺を見た。その顔は疲れ切ったように生気がなかった。ただ、俺を見つめる目は妙に色っぽく、俺はドキッとした。岡島さんは何か事情を抱えているに違いないと思った。俺は大家として、この女性の力になってあげなくてはと思った。

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