決壊

 あと一歩。あと少し。あとちょっとの距離が届ない。苦しみに耐えかねて、俺はとうとう肺の中に残っていた最後の空気を吐き出してしまった。ゴボゴボと口かられた最後の泡が上へと昇って行くのを掴もうとして見送る。それが俺の見た最後の光景となった。


 もう何も見えない。何も聞こえない。今まで小脇に抱えていた青瀬の感触も感じられない。真っ暗で冷たい、音の無い世界に一人置き去りにされたみたいだ。


 あと少しだったのに、これで終わりなのかよ。上のことは大地と博に全部任せておきながら、結局俺だけ何もできなかった。しかも青瀬を助けるっていう一番大事な任務を失敗して終わるなんて、超ダサい。


 ごめん、大地、博。約束、守れなくて。青瀬、助けてやれなくて、ごめんな。ごめん。本当に、ごめ……――。


『――‼ ――――‼ ――――――‼ ――――――――‼ ――――‼』


 完全に意識を手放す直前、暗闇の中で、誰かの声が聞こえたような気がする。でも、自分の体の行方さえも分からないこの暗闇の中では、誰がなんて言ったのかまでは分からない。


『――――‼ ――――――‼』


 再び聞こえる誰かの声。この声は、誰だったろう。俺はこの声の主の正体を知っている筈だ。そう、確かこれは、この声は――。


 それを思い出しそうになった瞬間、ゴツンッ‼ と、頭に強い衝撃が走った。すると今まで真っ暗だった視界が開け、自分がどこにいたのかを思い出す。


「…………、――……ッ‼」


 ジンジンと痛む頭頂部をさすりながら、何事かと思って衝撃を受けた方を見ると、そこには誰かの頭があった。この頭は、大地のものだ。そうかこいつ、俺を助けようと思って飛び込んだな。いやそれにしたって、何も俺の方へ真っ逆さまに飛び込まなくたって良いだろうに。ていうか、なんでこいつは動かないんだ?


 ………………。


 えっ、こいつまさか、気絶してる?


 おいおいおいおいおい‼ 大地お前、俺を助けに来てくれたんじゃないのかよ⁉ それなのにお前、助けに来たお前が気絶してどうするんだよ⁉ あっ、そうだ、青瀬、青瀬は⁉ …………、良かった、ちゃんと抱えている。てことは、つまりこの状況から、俺は片方の腕に青瀬を、もう片方に大地を抱えて上まで上がらなくちゃいけないのか?


 ………………。


 うぉぉぉぉぉぉぉぉッ‼


 水の中、声にならない声で叫ぶと、俺は逆さまな大地の脛を空いた方の腕で掴んで、バタ足、というか、水を蹴飛ばすようにして浮上を試みる。


 両腕が使えないのが辛い。というか、そもそも俺はとっくに息が限界だったんだってのに。クソッ、大地のアホめ。お前のせいでこんな大変なことになっているんだぞ。いや、でも、大地が俺の頭に頭突きをかましてこなければ、結局俺はあのまま動けなくなっていた訳で……。…………ッ‼ あぁ、もう‼ 絶対に生きて帰って、散々文句を言ってやる‼


 気絶する直前よりも何故か力のみなぎっていた俺の体は、水を蹴る度にグングンと体を押し上げ、ついに水面へ顔を出すことができた。の、だが――。


「ブハァッ‼ ハァッ、ハァッ‼ …………ッ、ハァ~……。あっ……」


 先ほどまで岩場へ波打つほどに並々と溢れかえっていた水面は遥かに沈み込み、今はもう手を伸ばしても水辺の淵に手が届かないまでに水位が下がっていた。


 どうしよう。どうしよう、どうしよう。ここからじゃもう上がれない。どこか、まだ上に上がれる場所は……。駄目だ、どこにも見つからない。このままじゃ俺たち、苦痛龍と一緒にあの暗闇の中へ――。


『ほんに、世話ん焼けるガキどもじゃのう』

「……えっ? わ、うわぁ⁉」


 響く声と共に水の底より上がって来た黒い影。その正体を確かめる間も無いまま、俺たち三人は宙を浮いていた。いや、正確には、大黒の背中に乗せられて、宙へ跳ね上げられていた。大黒は宙空で身を翻すと、そのまま――。


「痛って‼」


 俺たちを陸地に放り出すようにして、自分は再び水の中へと飛び込んでゆく。


「お、大黒‼」

『大黒さんじゃと言うておろうが‼ こんクソガキ‼』

「そんな……そんな、どうして⁉」

『勘違いすんなや。さっきの契約で、おどれらが用意した魚ん数と儂が与えた時間とじゃ、ちいとばかり数が吊り合わん思うただけじゃ。今んはただその帳尻を合わせたに過ぎん。別におどれらに情が移った訳でも無し。これで一切の貸し借り無しじゃ。ええな?』

「そ、そうじゃなくて‼ 大黒、大黒はどうするんだよ⁉ こっちに来たら助かるんじゃないのか⁉ あんた、その中にいたら……」

『儂らは誇り高き深き海んもんじゃ。陸に上がってまで助かろうなんざ、誰が許しても儂らが許さん。そういうことよ』

「…………ッ」

『ぶっさいくな面じゃのう。漢ならこういうとき、こうして笑って別れを告げるもんじゃ‼ さらば、さらばじゃ隼人‼ 海ん入るときは気ぃつけぇよ‼ 広い世界の海ん中には、こん儂よりもずっと恐ろしい鮫がおるんじゃからな‼ ギャハハハハ‼』


 反響しながら遠くなってゆくその笑い声を最後に、大黒の声は聞こえなくなってしまった。


 三百年前、蒼蓮さんの腕を喰い千切り、今まで苦痛龍の守護者をしていたのは間違いなくあいつで、けれど、今こうして俺たちを助けてくれたのもあいつだ。結局大黒とは、俺たちの敵だったのだろうか。分からない。分からないけど、それでも俺は――。


「…………、……ありがとう。さようなら、大黒……」


 この胸の内に湧いた感情を言葉にせずにはいられなかった。感傷に浸り、目の奥から熱いものが込みあげてきそうになっていた。だから、俺は後ろから近づいて来る影に気付かなくて――。


「よくも……よくも貴様ら、ガキが……僕の、出世を邪魔してくれたな……」


 まさに目と鼻の先、そこには歪な容姿の怪物が立っていた。見た目は変わっていたけれど、その声は紛れもなく紺ノのもので、怒りと焦燥を隠そうともせず、そいつの巨大な腕は俺を掴もうと伸びてきて――。


「とりゃあ‼」


 巨腕が俺に触れる瞬間、そんな掛け声と共に、博が紺ノの背中に向かってドロップキックをお見舞いした。すると紺ノはピョンピョンと跳ねながら俺を跨ぐと、そのまま水の中へドボンと音を立てて飛び込んだ。


「わっぷわっぷ‼ ぶるぁ⁉ た、助けてくれぇ‼ ぼ、僕、僕は泳げないんだぁ‼ …………、えっ、あ、あれ……」


 バタバタと大慌てで手を動かしていた紺ノは、突如その場で静止する。すると、ゆっくりと体が上へ、上へと持ち上げられて、沈みかけていた全身の姿が露わになると、その胴体には、巨大な蛸のような触手が絡みついていることが分かった。


「み、御子様⁉ ま、待って‼ 待って下さい‼ 僕、僕は生贄なんかじゃないんです‼ 嫌だ‼ 死にたくない‼ たす、助け……わぁぁぁぁぁぁぁぁ‼」


 遠退くように悲鳴を上げながら、紺ノは体に巻き付いた触手と共に勢いよく下へと引っ張られてゆく。少しした後、俺と博は恐る恐る紺ノの消えた場所を覗き込むと、そこにはもう一滴の水さえも残されてはいない大きな空洞が広がっていた。さっきまで開いていた水底の暗闇も消えている。俺と博は顔を見合わせると、空洞から少し離れた場所で体を放り出すように倒れ込んだ。


「あー……。…………、助かったよ、博。サンキュ……」

「ううん……。お疲れ様、隼人……」

「あぁ、博もな……」

「ブェアッ⁉ ゲホッ‼ ゴホッ‼ ペッ、ペッ‼ な、生臭せぇ‼ なっ、あっ……ど、どこだここ⁉ は、隼人⁉ しゅうちゃんは⁉」


 突如ガバッと起き上がったかと思えば、口から小さな魚を吐き出して、ヘトヘトの俺と博を他所に一人大騒ぎする大地。どうやらまだ混乱しているらしく、俺たちのいる方とは反対側をキョロキョロと探している。ちなみに今吐き出した魚は、俺を助けようとしたときに飲み込んだものであるらしい。そんな間抜けな姿を見せられたら、言ってやろうと思って考えていた文句の一つさえも出てはこなかった。


「大丈夫、俺はここだ。俺も青瀬も無事だよ」

「は、隼人⁉ あっ、それにしゅうちゃんも……。そっか、良かった……。ダハハハハ‼ これも全て、隊長である俺の活躍のお蔭だな‼」

「……フッ。あぁそうだよ、お前が一番だ。ありがとうよ、大地」

「お、おぉ……? そ、そうか……。それで、俺たち……やったん、だよな?」

「あぁ、やったぞ」

「じゃあもう、これで全部終わったのか?」

「うん。これでやっと家に帰れるね」

「……そうか。そうか。…………、ああー……」


 ため息を吐きながら地面に倒れ込む大地。すると俺たち三人は、突如今までの疲れがドッとやって来たからか、仰向けになり一言も発さないまま、ずっと天井を見上げていた。それから暫くすると――。


「フッ……」

「フフフ……」

「ハハハ……」


 誰かから始まった小さな笑い声を切っ掛けに、それは少しずつ、少しずつ大きくなっていって、大空洞は俺たち三人の笑い声で溢れ返っていた。笑い過ぎで腹が痛くなってきた頃、俺はあることを思い出す。


「そう言えば俺たち、ここからどうやって帰れば良いんだろうな」

「来た道を帰れば良いんじゃねぇのか?」

「えぇ~……。またあの道を歩くの? 僕、もう疲れちゃったよ」

「じゃあここは贅沢に、タクシーでも呼んじゃうか?」

「アホか。そんな金持ってねぇよ」

「隼人、そもそも近くに公衆電話が無いよ」

「二人共アホだな~。こんなところまでタクシーが来る訳無ぇじゃん」

「「お前大地が言うな」」


 そんなことを言い合いながら、再び三人で笑い合っていると、ぴちょんと、顔に水滴が落ちて来た。天井から落ちてきたのかな。そう思っていると、ぴちょん、ぴちょんと、上から落ちて来る水滴の数がどんどん増してゆく。


 大地と博もそれに気付いたようで、俺たち三人は立ち上がって上を見上げる。すると、今まで静かにいでいた天井の水面はグラグラと波打ち、ごうごうという音を伴いながら、大粒の水の塊が地面に叩きつけられるように降り注ぎ始めた。


「やべぇ‼ 海が落ちてくる‼ 入口に向かって逃げるんだ‼」

「お、おう‼」

「う、うん!」


 そんな大地の掛け声も虚しく、倒れていた青瀬を抱えた次の瞬間、天井の水面が激しい音と共に決壊すると、大空洞は一瞬の内に大量の水で満たされてしまう。


「うわっぷ‼ だ、大地‼ 博‼ て、手を‼」


 流されまいと、気を失っている青瀬を庇いながら、俺たち三人は手と手を取り合う。けれどそれも虚しく、俺たちは大量の水に飲み込まれ、グルグルとかき混ぜられるようにどこかへと沈んでゆく。

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